piabuの不可思議blog~内なる光、世界に届け

ものすごく真面目に、本格的に、この世の真実を自分の不可思議体験をもとに探求しています。クラシック音楽の作曲は天使との共同作業です。

この世には、実に様々な人がいます。
笑顔の絶えない人もいれば、いつも怒っている人もいます。
楽天的な人、悲観的な人、信じやすい人、疑り深い人・・・。
この世の中は、様々な意見が飛び交っていて当然なのです。
しかし、離婚の原因の第1位は「性格・価値観の不一致」だそうです。
そもそも身体の構造の違う男と女なのだから、価値観が違うというのも当前なのですが・・・。
要は、そうした男女の相違を楽しむことが出来るかどうかです。

しかし日本人というのは、どうしてこうも集団意識が高いのだろうかと思う時があります。
政治や歴史などを見てもそうですが、今はネットがそれを如実に表しています。
ブログやSNSなどは、自分の意見に近い人たちが集まってきます。
そして自分に近い人の意見だけを受け入れるようになって(クラスター化)、集団で違う意見の人を誹謗中傷したりします。

このブログだって、似たようなものかもしれません。
世界にごまんとあるスピ系ブログのひとつに過ぎないと思われているかもしれません。
このブログに訪問してくださった殆どの方が、何かに期待して訪問しているに違いありません。
しかし僕は飽くまでも、このブログは「道」であって、自分の心に聞いたことをそのまま書いているに過ぎません。
誰かの期待に応えるなんていうのは、僕の「道」ではありません。

自分と違う意見の人がいるからこそ、自分と違う反応をする人がいるからこそ、自分が磨かれて成長することができるのです。
それこそが、「道」なのです。
それが、この世というものなのです。
ゆとり世代の方は打たれ弱いといいますが、打たれ強くなる必要もありませんが、真実への精神「道」とでもいいますか、そんな「道」を極めていけばいくほど、打たれてもまったく動じなくなっていくものです。
それは、次元がまるっきり違ってくるからです。
それが魂の成長なのです。

精神は目には見えません。
目に見えないものを一切信じない人は、物質的なものに依存してしまうので、魂の成長がまったく望めません。
肉体が滅んだら意識も消えてしまうと思っているので、死後の世界のことを語る人たちなどまったく相手にしません。
「そんなの死んでみなけりゃわからない」と言って馬鹿にします。
しかし、そうした人たちがあの世に行って、しまったと思った所で後の祭りなのです。
だからこそ、今現在の生き方が問われてくるのです。
要は、目に見えないものを見ることが出来るかどうかなのです。
ではいったい、目に見えないものを見るにはどうすればいいかということなのです。
唯物論者は馬鹿馬鹿しいと言って、そうした努力さえまったくしようとしません。
僕はきっと、そうしたことをずっとこのブログに書き記してきたのかもしれません。



死後の世界のことは、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」が克明に表しています。
主人公のジョバンニと親友のカムパネルラが、天国まで走っていく上り1本の急行列車に乗っています。
その急行列車に様々な人物が乗り込んできて、そしてあの世の姿、あの世の法則がはっきりと描き出されていきます。

例えば鳥を捕る人、「鳥捕り」がパッと列車に乗り込んで来ます。
ジョバンニが不思議に思って「どうしてあすこから、いっぺんにここへ来たんですか。」と訊きます。
すると「鳥捕り」は「どうしてって、来ようとしたから来たんです。ぜんたいあなた方は、どちらからおいでですか。」と言います。
行きたい場所を思っただけで一瞬でその場所に行ける、それはあの世では当然のことらしいです。

また、乗り込んできた燈台守が「この辺ではもちろん農業はいたしますけれども大ていひとりでにいいものができるような約束になって居ります。農業だってそんなに骨は折れはしません。たいてい自分の望む種子さえ播けばひとりでにどんどんできます。米だってパシフィック辺のように殻もないし十倍も大きくて匂もいいのです。けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。苹果だってお菓子だってかすが少しもありませんからみんなそのひとそのひとによってちがったわずかのいいかおりになって毛あなからちらけてしまうのです。」と言っています。
つまり、肥料を与えたりや水やりをしなくても、いいものを作りたいと思っただけでひとりでにいいものが出来てしまう訳です。

それから、白鳥の停車場で列車が20分停車するので2人は降りてみるのですが、その情景がとても美しいです。
「河原の礫は、みんなすきとおって、たしかに水晶や黄玉トパースや、またくしゃくしゃの皺曲をあらわしたのや、また稜から霧のような青白い光を出す鋼玉やらでした。ジョバンニは、走ってその渚に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとおっていたのです。それでもたしかに流れていたことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮いたように見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光をあげて、ちらちらと燃えるように見えたのでもわかりました。」

ところで、「鳥捕り」は途中で列車からいなくなってしまうのですが、それは「鳥捕り」という職業に問題があるようです。
銀河の河原に出て鶴や鷺や雁を捕まえて、それを葉っぱのようにペチャンコにして、チョコレートのようなお菓子にします。
「鳥捕り」はきっと生前も、鳥などの生き物を捕らえて人に売ったり食べさせたりしていたのだと思います。
そしてあの世に行っても生き物を殺すことを楽しみにしていて、少しもその痛みを感じることなく金儲けをしています。
だから「鳥捕り」は列車に乗っても天国までは行けずに途中で降りて、また乗ってもまた降りるという風に何度も繰り返している訳です。
つまり「鳥捕り」とは輪廻転生を繰り返す、この世の大多数の人々を象徴しているのです。
命の大切さがわからずに平気で殺生をする人、そしてその肉を食べる人、物を大切にしない人、平気で騙す人、嘘をつく人、他者の気持ちがわからない自己中心的な人は、みんな「鳥捕り」なのです。

「そんなの死んでみなけりゃわからない」と思っている多くの現代人は、それを口実にして好き勝手に生きています。
法律に触れなければ何をしてもいいと・・・。
しかし、賢治は単なる空想でこうした童話を書いたのでしょうか?
僕は決して、そうは思いません。
賢治は目には見えないものが、見えていたのだと思います。
賢治は子供の頃から身体が弱く、何度か大病を患っています。
何度も生死の境を彷徨ったことのある人間は霊能力を授かるといいますが、賢治もそうした能力を持っていたと思われます。
賢治は実際にあの世で、「鳥捕り」の姿を見たのだと思います。
美しい水晶や黄玉トパースといった河原の礫に、触れたことがあるのだと思います。
(僕も似たような夢を何度か見たことがあります。)
賢治が晩年に書いたこの「銀河鉄道の夜」は、全人類に向けられた、全身全霊で書かれたメッセージなのだと思うのです。

「鳥捕り」がパッと姿を消した後、家庭教師の青年と少女と小さい弟の3人が乗り込んできます。
3人は旅行中に船が氷山にぶつかって難破して溺れ死んだ人たちでした。
難破した時、青年はせめて2人の子供だけでも救命ボートに乗せたいと思ったのですが、もっと小さい子供がいたのでどうしても乗せることができず、それでとうとう3人とも溺れて死んでしまったのです。

やがて、大きくてまっ赤な蝎(さそり)の火が見えてきます。
ジョバンニは尾にかぎがあってそれで刺されると死ぬから蝎はいい虫じゃないと言いましたが、少女はいい虫だと言いました。
少女の話しはこうでした。

蝎は小さな虫など殺して食べて生きていました。
ある日いたちに見つかって食べられそうになりました。
蝎は一生懸命に逃げましたがとうとういたちに押さえられそうになり、前にあった井戸の中に落ちてしまいました。
そして蝎は溺れ始めました。
蝎はこう祈りました。
「ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。」
そうしたら蝎は自分の身体がまっ赤な美しい火になって燃えて、夜の闇を照らしているのを見ました。

つまり蝎の火は、みんなが幸せになるための自己犠牲の愛のお祈りで、「奉仕」の象徴です。
火は天国の入り口にあります。
「奉仕」は天国へ行く条件、天国の入り口にある大事な関所だということを賢治は示しているのです。

青年と少女と弟の3人は、その天国の関所の先にある「サウザンクロス・ステーション(南十字駅)」で降りていきます。
3人は難船した時、自分たちは助かりそうだったのに小さな子供たちにボートを譲って犠牲になって死んでいったので、自己犠牲の愛を実践しているので、ここまで来ることが出来ました。
カムパネルラも友だちを救うために、自分を犠牲にして死んでいます。
だから、天国のお母さんのいる所へ行ける訳です。

(「銀河鉄道の夜」は、青空文庫で全文を無料で読むことができます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/456_15050.html



そもそも自己犠牲の愛は、誰もが持っていたものだと思います。
ただこの弱肉強食の地獄社会を生き抜くために、それを忘れてしまったのです。
宇宙全体と自分が、完全に切り離されてしまっているのです。
だから、この3次元世界がすべてだと考えるのです。
死んでしまったら、意識も消えると・・・。
だから、何をしても構わないと・・・。

目に見えないものが見える人、つまりこの世の真実を知っている人は、死を恐れません。
例え無宗教であっても・・・。
いや、無宗教だからこそ・・・。

高い波動を出していれば、それだけで天国への切符を手にすることが出来るのです。
しかし勘違いしないで頂きたいのは、高い波動を出す人とは、いつもハイテンションでポジティブなことを語る人のことでも、いつも穏やかで正直で親切な人のことでもありません。
周りにそういう印象を与えるためにそうやって自分を作っているのであれば、周りだけではなく自分自身をも騙していることになります。
また、何度もお付き合いして相手の性格も何もかも知り尽くしていた筈だったのに、結婚してみたら相手の悪い性格が目につくようになって「性格・価値観の不一致」を感じて離婚したなんていうのは、まさにその相手は自分を良く見せるために自分を作って人を騙していたことになります。
相手の見た目なんて幻想に過ぎないのに、見た目だけで判断してしまうなんて愚の骨頂です。
騙す方も騙される方も、「鳥捕り」と同じです。
現代人は、目に見えないものが見えるようになるための訓練が必要なのです。

高い波動の人は、他人の喜びを自分の喜びのように感じます。
そして、他人の苦しみや悲しみを自分の苦しみや悲しみのように感じます。
それが、自己犠牲的な愛へと繋がっていきます。
自己犠牲や奉仕の精神というのは、そうしなければならいとかそういう堅苦しいものではなく、野に咲く花のように自然に沸き上がってくるものなのです。
またそうでなければ、それは本物ではありません。
自身が苦しい体験、悲しい体験をしていなければ、決して本物にはなれません。

世の中には様々な人たちがいますが、それは各々の段階が違うに過ぎません。
しかし、いずれはすべての人間が天国行きの切符を手にすることが出来るのだと思っています。
すべての人間が、いずれ還るべき場所へ還らなくてはならないのだと考えます。
もう、この地球の3次元世界消滅のカウントダウンは始まっています。
もういい加減「鳥捕り」は卒業して、その先に進むべきです。



最後に、KAGAYAスタジオ(KAGAYAさん)が宮沢賢治への熱い思いから原作を徹底考察し、忠実に再現したという3DCGのアニメーション映像の予告動画と、冨田勲×初音ミクの「イーハトーヴ交響曲」を引っ張ってきて貼付けておきます。
また、オリラジ中田敦彦さんがわかりやすく「銀河鉄道の夜」を読み解いている動画もあるので、そちらの方も良かったらご覧ください。https://www.youtube.com/watch?v=aNHXq6XPBYE







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ジブリは昔から好きだったのですが、そういえば「思い出のマーニー」はまだ観ていないなと思って、昨日21:00からテレビをつけて観ていたのだけれど、観終わると(いつもジブリを観るとそうなのだけれど)「何故だろう?どうしてだろう?」と頭ん中が悶々としてしまって仕様がなくなります。
ネット検索して誰かの感想やら考察やら都市伝説やらを調べてみたものの、この「思い出のマーニー」に関しては、何だか悶々状態が余計に酷くなってくる感じです。
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「思い出のマーニー」のあらすじ
 
ある夏、喘息の療養のため札幌から離れ海辺の田舎町へやってきた少女、杏奈。

彼女は絵を描くのが好きな女の子ですが、病気がちなことや小さい頃に両親と祖母を相次いで亡くしたことなどから周囲にはなじめず、心配ばかりの養母には苛立ちを感じていました。

親戚の大岩夫妻の家に滞在し海辺での暮らしを始めたある日、杏奈は美しい湿地と、その先にぽつりと立つ古い洋館、「湿っ地屋敷」を見つけます。

地元の人によれば、そこは長いこと誰も住んでいないとのこと。確かに建物は傷み庭は荒れ放題で、もう長いこと空き家になっているようでした。

しかしその後、杏奈は館の窓に明かりが灯っている夢を何度も見かけます。ついに小舟で館まで漕ぎ出した七夕まつりの夜、マーニーと出会うのです。館はきれいに整っていて、マーニーの母や使用人らしき人の姿もありました。 
マーニーは杏奈の実の祖母でした。
杏奈は喘息の治療(ほぼ心の治療)で訪れた土地で湿地帯や屋敷を見たことによって無意識のうちに祖母マーニーが語ってくれた話を思い出し、それを元に少女姿のマーニーを妄想という形で生み出したという解釈は、理論的にはよくわかります。(ブログ参照)
しかし、僕の中ではどうも割り切れません。
それは、僕も杏奈のような不思議な体験を沢山してきたからだと思います。
きっと僕の不可思議体験が、映画の主人公杏奈の体験とダブってしまったのです。

原作は、イギリスの作家ジョーン・ロビンソン(1910―1988)による同名児童文学だそうです。
そういえば僕は幼少の頃、産業革命時代のイギリスの夢をよく見ていました。
おそらく場所はロンドン。
僕は黒い帽子を被った英国紳士になっていて、T型フォード↓のような形をした自動車に乗って運転していました。
ロンドン郊外の田舎道を運転している夢もありました。
きっと僕は、前世の記憶を夢の中で見ていたのだと思います。
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恐ろしいホラー映画の一場面のような夢も見ました。
夜、雨の降りしきるロンドンの街を車で走っていると、雨に濡れながら発狂して泣きわめいている少女を見つけて、僕は急いで車に乗せてあげます。
知り合いの屋敷に少女を一晩あずけてもらうことにして、僕は少女とわかれました。(おそらく僕は仕事か何かの用事があって)
真夜中、外は雷鳴が轟いているのですが屋敷の中は静かで、時計のカチッカチッという不気味な音が屋敷全体に響き渡っています。
知り合いの男が少女を心配して、少女が寝ている部屋のドアをゆっくりと開けて覗き込むと、美しい少女の顔がだんだん皺だらけになっていき老婆のようになったと思ったら、あっという間に骸骨になってしまいました。
知り合いの男はそれを見た後、ゆっくりとドアを締め、自分の部屋に戻って行きます。
翌朝、雨も上がり、僕は少女をあずけておいた知り合いの屋敷へと向かいます。
知り合いの男は、昨晩に少女に起こったことを僕に話し、気をつけた方がいいと忠告します。
しかし昨晩の恐ろしい骸骨の姿はそこにはなく、眠りの森の美女のような美しい少女がベットに横たわっていました。

僕は現世でも数々の不可思議な体験をしてきましたが、ひょとしたらそれは前世から引き継いできているのかもしれません。
イギリスという場所(特にロンドン)は、きっと異次元と繋がりやすい場所なのかもしれません。
そういえば「ハリポタ」も、イギリスの作家による児童文学。
現在も、幽霊屋敷という謳い文句のある宿泊所が沢山あるそうです。
監視カメラにも、よく幽霊が映るそうです。
僕の不可思議体験は、幽霊の本家ともいうべきイギリスで鍛えられていたのかもしれません。

そうした前世の記憶が、この映画「思い出のマーニー」と僕の中で不思議とマッチングしてしまった。
だからマーニーは杏奈の妄想だとする説に、なんだか悶々としたような思いが生じてきてしまうのです。
単なる妄想が主題で、作家はこのような物語を作るだろうかと。
鬱屈した思いを抱える少女が、自分の妄想力だけで自分を肯定していくことなど出来るのかと。
出来たとしても、もしそうだったとしたら、なんとつまらない物語になるのかと。
祖母のマーニーの杏奈への強い想いがあったからこそ(天国からの)、この物語は深い感動に包まれていくのに。

それは、ちゃんと映画の中に示されています。
祖母のマーニーの若い頃の顔を杏奈は知らないのに絵を描いていて、それを見た久子さんが「私が知っていた女の子に似ている」と言っているのです。
杏奈が自分の祖母の若い頃の顔を妄想で描くなんてどうみてもおかしいし(杏奈の記憶の中の祖母マーニーを描く筈)、しかも久子さんは「似ている」と言っているのです。
杏奈が幼い頃に聞かされていた祖母マーニーの想い出話しと、天国で若返ったマーニーから杏奈への(現実的な)メッセージの両方が合わさっているとみるのが僕は妥当だと考えます。


また僕自身の不可思議体験を思い出してしまいました。
もう二十数年前のことですが、箱根のホテルで親戚の人たちと会うことになっていて、そこまで電車に乗ってひとりで行くことにしたのですが、箱根湯本の駅からバスに乗り換えた時のことでした。
満員のバスの後部座席の方から、誰かが僕を呼びました。
「ヒデちゃん、ヒデちゃん」
僕は後ろを振り向くと、とても品の良さそうなおばさんが僕を手招きしていました。
その時、バスの乗客のほぼ全員が、そのおばさんの方に振り向いていました。
僕は周りを見回した後、自分の顔を指差すと、おばさんは頷きました。
「遠い親戚のものなんだけど、誰だかわからないでしょう。」
そう言いながら、乗客をかき分けるようにしておばさんは近づいてきました。
「すみません、どなたでしょうか?」
「いいんです、わからなくて・・・(笑)」
その後におばさんの口から出てきた言葉に、僕は愕然としました
「シェーンベルクの『浄められた夜』・・・でしたっけ、あの曲は良い曲ですね。」
当時、僕は音大に通っていて、シェーンベルクの『浄められた夜』が大好きで毎日のように聴いていたのですが、そのことは誰にも喋っていませんでした。
自分の中だけの秘密でした。
(因みに卒業作品は、『浄められた夜』を研究して作った弦楽六重奏曲でした。)
親にも友達にも言っていない僕だけの秘密を、どうして遠い親戚だと名乗るおばさんが知っているのか?
「私の娘が、この曲良い曲だから一緒に聴こうって言って持ってきたんだけど、聴いてみたら本当に良い曲だったから・・・。」
・・・むすめって・・・誰?
暫く『浄められた夜』の曲について会話をした後、おばさんは買い物があると言って、お辞儀をしてバスから降りて行きました。
周りを見てみると、何処にお店があるのかと思うほどの山ん中・・・。
ホテルに着いてから両親にも訊いてみましたが、箱根に親戚なんて聞いたことがないそうで・・・。
Verklärte Nacht01
この時だけではなくて、似たような体験は山ほどあります。
僕はおばさんが語っていた娘さんに、街で何度か見かけているような気がします。
つい先日、電車の中で僕に声を掛けてきた目鼻立ちのしっかりとした美しい女性は、ひょっとしたらと思っています。(ボサノヴァ歌手の小野リサさんにとてもよく似ていました。訳あって、詳しくは書かないことにします。)
僕はその女性の母親にも父親にも、会っているのだと思います。
彼らは、人間に擬態したスペースファミリー(異星人)なのだと思っています。
異次元から来た人々だと思っています。

マーニーが杏奈のことを想うように、僕も目に見えない沢山の存在たちから想われているのかもしれません。
また、それは僕一個人のことでななく、きっと誰もがそうした目に見えない存在たちに見守られているに違いありません。
ある人は守護霊という言葉を使っていますが、僕はそうではなく天使たちと呼びたいです。
天使たちは、僕ら地上の人間たちが愛おしくて愛おしくて仕方がないのです。
だからその感情が極まった時、居ても立っても居られずに地上に降りてきてその姿を現すのです。
時々姿を現すベルさんも、きっと天使たちの仮の姿です。
ベルさんが姿を現す時、必ず良い何かがある時です。
僕らは誰もが例外なく、異次元の世界の誰かから見守られて生きているのです。
僕らは仮想現実の中で生き、彼らは完成された(異次元)世界で生きているということです。

僕らは盲目ですが、 彼らはすべてを知っています。
しかし僕らの魂を成長させるために、彼らは僕らにそのすべてを伝えようとはしません。
老子やイエスやブッダといった人類の指導者が 、時々真実を知らせるために地上に降りてきます。
けれど、なにも老子やイエスやブッダだけが人類の指導者なのではありません。
彼らも優れた人類の指導者なのです。


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爪木崎から下田市街地に戻ってきた後、下田公園のアジサイを撮りに行ってきました。
6月1日から催されていたアジサイ祭りはもう終わってしまいましたが、7月の始めまで鑑賞することが出来るとのことなので、写真を撮るのはギリギリ間に合った感じです。
アジサイの数は想像を絶するくらいあって、何だかアジサイというより巨大なバラ園に来ているような感覚になります。
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アジサイには不釣り合いの真夏の太陽が差し込んできていて、アジサイの色彩が写真では色褪せて写ってしまいます。
写真を編集する際に、コントラストをかなり下げて、彩度を結構上げました。
撮っている時は上手くいくのか心配だったのですが、編集でなかなかいい感じにはなったかと思います。
何となく、写真が絵画のように見えませんか?
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公園に来ている人は、とても少なかったです。
若い女性がチラホラといて、カップルも1組いました。
男がひとりで来るのは、ちょっと恥ずかしい気もします。
でも、ひとりでなければ感じられない瞬間、見えてこない景色というのがあります。
そういうのが、実は何よりも大事だったりするのです。

最近、戦士見習いさんという方から詩のような不思議なコメントを頂いて、僕も詩のようにして返事を出していたのですが、今、最初に頂いたコメントを思い出しました。
(戦士見習いさん、ありがとうございました。m(_ _)mコメントでの詩のやりとり、とても楽しかったです。また遊びに来てください。)

ある日私はきのこを食べた 
この世は私一人しかいない 
私達は同じ空間を共有しているが共有していない 
この世は存在するが存在しない 
私自身がエゴを創ったんだー 

そして、私は、考えるのをやめた、、、
agisai05
僕が最後に出した返事は、こうです。

謎が謎を呼び、その謎がまた謎を呼び・・・ 
どこまで行っても、堂々巡りを繰り返すだけ 
なぜなら、この世は仮想現実だから 

幻でもあるこの世界に真実を求めたって、そこには何もないのだから意味がない 
本物は私たちの胸の中のみ 
そこには、不死のスピリチュアルな存在がある 
私たちは忘れてしまっているが、その存在は神の火の粉でもある 

だから、貴方は考えるのをやめた 
私も考えるのをやめた 
五感を研ぎ澄まし、第六感というその存在の秘めたるエネルギーを使って真実を知ろうとした 
このナゾナゾは、頭だけを使っていては決して解き明かすことは出来ないのだから

この返事を書いたら戦士見習いさん、コメントを書いてこなくなりました。
shimoda06
砂浜を歩いていたら、葉っぱが一枚、生えていました。
ちゃんと根もあって、こんな過酷な環境なのに健気に生きていました。
ここは多々戸浜海水浴場、サーフィンやマリンスポーツをする人たちの間では特に有名で、ここでサーフィンの全国大会も行われたりします。
そんなとても広い砂浜です。
そんな砂浜のど真ん中に、なぜ葉っぱが生えているのか、いや、生えていられるのか?
それは、奇跡と出逢えた瞬間でした。

アジサイのように皆で一斉に咲く花もあれば、砂浜でひとり懸命に生き延びようとする葉っぱもある。
人の生き方も、人それぞれ。
こうでなければいけないなんてことは、無い。
例外なく、みんな必要だから生きている。
この世に無駄なものなど、何ひとつ無い。
例え、この世がシミュレーションだったとしても・・・。
いや、創造主(=私たち自身)が創造したシミュレーションだからこそ・・・。


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ちょっと3日間ほど旅行に出ていたのですが、僕はiPadやスマモを持っていません。
その間にコメントを頂いていたのですが、旅先で返事を出すことが出来ませんでした。
すみませんでした。
ガラケーでコメを確認することもできましたが、バソコンなどの機械類からしばらく離れることも目的のひとつだったので、まったく確認もしませんでした。

毎日パソコンの前に座っていると機械と同化してしまうかもしれないので、たまには何日か機械類から離れてみるのもいいかもしれません。
特にスマモから離れられない人は・・・。
(機械類から発せられる電磁波をずっと浴び続けていると、身体だけでなく体全体を覆っているオーラも破壊してしまいます。一週間に1日ぐらいは機械類を触らない日を設けてもいいかもしれません。)
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さて、伊豆の下田まで行ってきたのですが、近くの爪木崎という所に俵磯(たわらいそ)と呼ばれる柱状節理が見られる場所があったので見てきました。
写真↑は爪木崎灯台で、台風が近づいて来ていたせいかもの凄い風が吹いていて、飛ばされるのではないかと思うほどで、しかも道の両側は崖だったからとても恐かったです。
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ここら辺の岩石海岸は、柱状節理の他にも赤黒い岩が数多く見られ、ここの地形が形成された時のマグマの迫力が数百万年経った今でも伝わってきます。
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コメントで書かれていたことを思い出していたのですが、柱状節理切り株説は反証できる可能性(反証可能性)があるから、科学的仮説を満たしているといえるとのことでした。
しかし、伊豆半島はハワイ辺りにあった島がフィリピン海プレートに乗っかってきてユーラシアプレートと衝突して出来た訳ですから、溶岩説の方が可能性としては大きいといえます。
しかも、ここの辺りの岩は安山岩が多いです。
安山岩は玄武岩よりも溶岩の粘り気が強く流れにくいので、山の山頂に近づくほど安山岩が多くなるといえます。
ひょっとしたら、ここは昔海底火山の山頂だったのかもしれません。
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しかしこうして眺めていると、確かに植物の繊維にも見えてきますね。
それに、どのようにしてこのように形成されていったのか?
科学的な説明は、僕は未だなされていないと思っています。
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もっと近くに行って見てみたいと思ったら、通行禁止になっていました。
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map↑を見てみると、展望台より少し西側にも下りられる道があるので、そこから海岸に出ることにしました。
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ここにも、これより先通行禁止の看板があったのですが、もっと近くに行って触ってみたいという欲求を抑えられず、細心の注意を払いながら近づいていきました。
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柱状節理をなでなでしていると、ベルさん(UFO)が空に現れました。 
何週間ぶりに見るベルさんです。 
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 やっぱり柱状節理はUFOと関係があるのではないかと、その時より一層強く持ちました。 
ひょっとすると木と同じで、柱状節理は地球の電波塔みたいな役割をしているのではないかと、ふと思ったりもしました。

通行禁止の遊歩道を、恐る恐るもう少し進んでみます。
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疑問なってくるのは、どうして向こうの岩礁↑はただの岩なのに、こっち側の岩は柱状節理になっているのかということです。
岩が形成される前が同じ溶岩だったのだとしたら、このような違いが生じてくるのはいったい何故なのかということです。
片栗粉と水の実験のように柱状節理が出来たのなら、ではどうして写真↑の向こうの岩礁は柱状節理にならなかったのか?
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ここは↑、俵磯から北の方角にある池ノ段という入り江です。
あんなに風が強かったのに、波がまったくありません。
白い砂浜にエメラルドグリーンの静かな海。
そういえば池ノ段という地名は、古事記の伊邪那美命(いざなみのみこと)を葬った場所(現在の広島県の比婆山、1970年代初頭に猿人「ヒバゴン」で有名になった山)と同じ名前です。
静かで美しい場所なので、 命名者は伊邪那美神が眠っているような場所だと思ったのかもしれません。
冬には、野水仙が咲き誇るそうです。

自転車を停めてあるパーキングエリアに戻る途中、変わった雲を見ました。↓
僕はこれは、さっき現れたベルさんが空に絵を描いたとしか思えません。
いったい何が描かれているのでしょうか?
人の顔・・・いや、宇宙人の顔・・・?
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下田駅の近くのレンタサイクルで自転車を借りてここまで来たのですが、普段鍛えているとはいえアップダウンが激しくてかなりキツかったです。
だけど僕はこの後無謀にも、下田よりもっと南の田牛(とうじ)という所の近くまで行ったのだけれど、余りにも険し過ぎて断念しました。
自転車で来るような場所ではなかったです。
自動車でないと無理です。
そもそもレンタサイクルの自転車では無理です。
本当は龍宮窟の写真を撮りたかったのだけれど・・・。

下田市街地に戻った後、下田公園のアジサイを撮りに行ってきました。
その写真は、次回の記事に載せることにします。


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2017063001
昨日サイクリングしていたら、左側から旅客機が低空飛行で近づいてきて、そして右側の遠くの空に消えていきました。
そしてまたすぐに左側に旅客機が現れて、さっきと同じように低空飛行で近づいてきて、そして右側の遠くの空に消えていきました。
そうしたらまたすぐ左側に旅客機が現れて、同じように消えていきました。

家に着くまでの約30分間、旅客機はこのようにずっと現れ続けました。
面白いことに、旅客機は南の方角に自転車を走らせていると東側から、西の方角に走らせていると南側から出現します。
近くに飛行場があったとしても、これだけの数でこのような現れ方をするなんてことは現実的に有り得ないことだと思います。
これはもう、旅客機にシェイプシフトしたUFOに間違いありません。
おそらくシリウスUFOだと思います。
家に着いた後も、しばらく飛行機のエンジンの轟音が途切れることなく鳴り響いていました。

このような旅客機にシェイプシフトしたUFO(100%間違いないと思えるもの)は、以前にも度々目撃して記事にも書いてきましたが、最近は記事に書けるようなものは少なくて、今回のこうした100%間違いないと思えるUFOは久しぶりに見ました。
もちろん、クリスタル・ベル(雲を吐く飛行機形UFO)やヘリコプターにシェイプシフトしたUFOは、最近もよく見かけます。
こういった出現の仕方の違いが異星人の種類によるものなのか、それとも僕へのメッセージの違いによるものなのか、単なる気まぐれなのかははっきりとはわかりません。

彼らが人類に干渉してくることは、滅多にないことなのだと思います。
それでは、こうして人を選んで自分たちの存在をその人だけにわかるようにアピールしてくるというのは、いったい何故なのでしょうか?
僕はこの地球には異星人が沢山住んでいて、DNAを掛け合わせて人類を作ったのも異星人で、この地球を裏で操ったり保護しているのも異星人なのだと確信している人間なのです。
そうした人間にではなく、寧ろ宇宙人など存在しないと思っている人や唯物論者たちの目の前に沢山出現くれた方が、どれだけ世の中が良い方向に進んでいくかとも思うのですが・・・。

しかし、異星人にとっての基本は地球を俯瞰する傍観者に徹することであって、例え地球にカタストロフィー的な大災害が起こったとしても、何かの大きな目的のために、人を助けず観察をし続けるということなのかもしれません。
それは飽くまでも基本であって、その時その時の状態により臨機応変にその基本を変えていくこともあるのかもしれません。
地震が来るだとか、小氷河期が来るだとか、第3次世界大戦が起こるだとか、巷では色々な予言が噂になっていますが、一人ひとりがそうした情報に振り回されずにまっとうな人間として生きていれば、そうしたことは決して起きません。
しかし予言に恐怖心を抱けば、その予言は現実化します。
地球の平和を、多くの人々の心の平和を願っていれば、そうした予言は外れていきます。
なぜなら、傍観者が見ているからです。
2017063002
古代ギリシァの哲学者ディオゲネスは、白昼にランプを灯しながら街を歩き、人々に何をしているのかと問われて「人間を探しているのだ・・・」と答えたといいます。
僕は人間らしく生きるということは、本物の宇宙と繋がることなのだと思っています。
人間が本物の宇宙と繋がるためには、自分の外側ではなく自分の内側に目を向けなければならないのだと思っています。
この世に存在する本物はただひとつ、自分の内側にあるものです。
前回の記事でこの世はマトリックスなのだと書きましたが、この世というのは本物が存在する完成された異次元世界の投影に過ぎません。
人間はおそらく、誰もが元々そうした完成された世界にいたのだと思います。
そしてこの現世での人間社会で生きていく内に、多くの人は完成された世界のことを忘れてしまうのです。
しかし一部の人は自然の美しさを見て、完成された世界のことをきっと思い出すのです。
自然から発せられる波動と完成された異次元世界の波動、高次元異星人の波動はとても近いからだと思います。
2017063004
今日はいつもより短い記事になってしまいますが、これで終わりにします。
ちょっと、これから2泊3日の旅行に出かけてきます。
実に久しぶりの旅行です。(何年ぶりだろうか?)
次回の記事は、旅先で撮った写真でいっぱいになると思います。(笑)
近くの海岸で柱状節理が見られる場所があるので、果たして巨木の切り株なのか、溶岩なのか、将又まったく別のものなのか、見極めてこようと思います。


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