優も劣も上も下もない、完全に調和した世界を普段は瞑想しているのだから、当然オリンピックに興味など持ってはいけないのかもしれないけれど、サッカーだけはいいや、ついでに柔道だけはいいやなんて思っているうちに、しっかりと寝不足になっている今日この頃。
始まる前はメイレレス氏が演出する開会式だけ興味を持っていて、日本がいくつメダルを取れるのかなんてどうでもよかったのだけれど、始まってからの日本のメダルラッシュにはしっかりと涙。

オリンピックなんて分離社会の象徴みたいに思っていた時期もあったのですが、開会式の選手の入場行進を見ていたら、メダルを取ったことのない国が沢山あって、オリンピックに出場できること自体に喜びを感じている人も沢山いて、国の代表として出場して祖国に元気や勇気を届けることの意義の高さを選手の中に感じとっていました。

しかし逆に、メダルを取ると国から一生暮らしていけるほどのお金を貰える国もあって、日本もCM出演などで莫大な出演料を貰っていたりして、やはりそこには大きな差異が生じてきます。
ロシアなど国ぐるみでドーピングをする国もあれば、韓国のように日本にだけはなぜか死にものぐるいで挑んでくる国もあって、時に政治的であったり時に民族的であったり、五輪は公平・平和を謳ってはいますが、その意とは逆の影の部分も濃くなっていきます。

最近は、国際オリンピック委員会(IOC)内での汚職も明るみになっています。(東京も汚職を働いているとの報道もあります。)
それから、ブラジルは貧富の差が大きく、犯罪が絶えることはなく、現在の国の状態を考えれば実はオリンピックどころでないといえます。
現実は、オリンピックで掲げている理想とは大きく掛け離れているということです。

なぜ僕らが生きているのか?
唯物論者は物事を合理的に考え、幸せの源はお金であり、社会的地位や名誉でもあると考えます。
しかし僕の考えでは、そもそも幸せという概念は幻想に過ぎません。
人間は農耕文化を取り入れた時から、幸せという亡霊に取り憑かれてしまったのかもしれません。
戦いに勝利したから幸せ、メダルを取ったから幸せ、お金を得たから幸せという風に。
縄文時代には、そもそも誰かが誰かより優れているといった概念はありませんでした。
この世界に存在するものはすべて、精霊、霊魂、神様が宿るというアニミズムの思想があって、そしておそらく誰もがシャーマンであり、目に見えないものと交信していたに違いありません。
力で人が人を支配する時代に入ってから、人間はその能力を失っていきました。
しかし逆にその能力を失ったことで、本当に大切なことを教えられたともいえます。
悪の存在が、人々の魂を成長させました。

僕らが生きている意味が魂の成長だと考えれば、成功はむしろ失敗で、大金はむしろ人を不幸にするということが分かってきます。
至福というのは、大自然の中にあります。
人間もその大自然の一部です。
実は、人間の身体(肉体)は神殿なのです。
至福とは、この神殿(肉体)の内側に存在するものです。
今現在、そのことを思い出す時期に来ているのかもしれません。

この神殿(肉体)をスポーツなどで鍛えることは大切です。
見えない所で厳しい練習をして、それでも試合に負けて自分の未熟さを知り、次こそは勝とうとさらに自分を磨いて、そうやって切磋琢磨して精神的にも肉体的にも成長していく。
どれほど魂の成長が望めるかしれない。
しかし、その目的が地位や名誉やお金だったら、つまり利己主義的であったら、成功しても失敗ということになるのかもしれません。
逆に、オリンピックでの活躍が人に勇気と感動を与えられるのなら、それは素晴らしいことだと思います。
そして、それが多くの人の助けに繋がるのなら、きっと精霊も霊魂も神様も祝福してくれるでしょう。
リオ五輪、IOCトーマス・バッハ会長のスピーチ(抜粋)

この五輪の世界では、すべての人に普遍的な法則があります。五輪の世界では、皆、平等。人類共通の価値は、私たちを分断しようとする力よりも強いのです。そこで五輪選手の皆様に呼びかけます。自分自身を大切にして下さい。回りの人を大切にして下さい。私たちの住む世界では利己主義が幅を利かせ、一部の人々が他者より優れていると主張します。しかし五輪が示す答えは、連帯の精神に基づき、難民五輪チームを歓迎します。難民選手の方々、世界中の何百万人の難民に希望を与えます。他者とは違うという理由で故郷を離れざるをえなかったものの、素晴らしい才能と精神で社会に貢献しています。五輪の世界において、私たちは多様性を受け入れるだけでなく、私たちは皆様の多様性を結束してくれる存在として受け入れます。 
キプチョゲ・ケイノ氏のスピーチ

この五輪名誉賞を初めてもらい、光栄に思います。私とともに、すべての若者達が人権を得ることができるように、食料、住む場所、教育が得られるように、私と一緒に取り組んでください。
教育は若者の力を支えるだけでなく、より良い市民になり、前向きな変革を起こし、より良い人間になり、より良い世界を作ります。私は何も持たずにこの世に生まれ、何も持たずにいなくなります。神様は偉大です。教育によって、教育を通して、未来の人類を教育で育てていくのです。本当にありがとうございました。

本当に教育は大事ですが、今の日本の教育は間違った方向へと進んでいます。
間違った知識を植え付けられ、間違ったものの価値観を持ち、間違った人生を多くの人が歩んでいます。
なにも縄文時代に還った方がいいとは言いませんが、今こそ、本当は何が正しいのかを問い正すべき時代に入っているのではないかと思うのです。

昨日、ビデオメッセージにて天皇陛下が「お気持ち」を表明されました。
現行憲法では「生前退位」が認められておらず、憲法改正が公然と主張されているようになってきました。 

神社の本宗が伊勢神宮であり、神主のトップが天皇陛下なのですから、天皇は象徴ではあるけれど、実は新嘗祭や神嘗祭などとても大切なお役目がある。
それは米に敬意を示す祀りであって、稲作文化(農耕文化)の象徴といえます。
天照大御神が高天原で穫れた稲を「日本人が食べて生きていくべきもの」として降臨する際にニニギノミコトに持たせて以来、日本人は稲作を生業とし、米を主食としてきました。
(現在の日本人は主食である米をあまり食べなくなり、食生活が欧米化して肉類を多く食べるようになりました。そして唯物論者が多くなり、そうした目に見えないものの役割を軽視する風潮が、皇室の危機へと繋がっているのかもしれません。)

稲作は、人々が集団で生活していかなければ成り立っていきません。
分業制度が発達して、生産性があがり、やがて権力者が生まれます。
人々は集団社会で生きていかなければならず、そこから離脱すれば困難な生活を強いられることになります。
そして縦社会の組織が生まれ、貧富の格差が生じました。
この時、善悪の概念も生まれたのだと思います。
悪を知ることによって、善を知り得ることができたということかもしれません。
狩猟(縄文)文化の時と比べると、農耕(弥生)文化を経て現代に生きる我々の魂は、遥かに成長しているといえます。
(縄文と弥生の関係は、宮崎駿監督の「もののけ姫」によく顕われています。)

この分離社会での修行は、もう終わりに近づいています。
天皇陛下の「お気持ち」表明は、なにかそれを象徴しているようにも感じます。
そして皇太子が天皇になられた時、とてもとても重要なお役目が控えていて、そのお役目こそが新時代の到来の号砲となるのです。


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