また更新がだいぶ滞ってしまいましたが、このブログは自分自身の不可思議な体験を中心に書いているので、何しろネタがないと時々何を書いていいのか分からなくなってしまいます。
外から入ってきたウソかホントかわからない情報は好きではありますが、ブログにはなるべく書きたくありません。
その情報が真実である可能性が自分の中で高くなればなるほど、それを記事にしようという意欲が湧いてきます。
そして意欲だけではなく、やがては目に見えない者たちのお導きまで感じ始めて、そうやって記事は仕上がっていきます。

真実というものは、掴もうとすればするほど遠ざかっていってしまうものです。
そこにまるで意思でもあるかのように・・・。
それは魚釣りに似ていて、自分の予想に反して思わぬ時に掛かったりする。
気長に待つしかありません。
(旅に出て神社めぐりなんかしたら、一発ですが・・・)

こうなってくると、タイムスリップをして昔話でも始めるしかなくなってきます。
しかも今日書こうと考えている話は、下手をするとただのおノロケ話になってしまう。
しかし、ひょっとするとあれも不可思議な体験といえるかもしれないと、つい最近思ったことです。
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朝目覚めると、まるでジグゾーパズルのピースが埋まったかのように、自分が昔体験した不可思議現象の謎が突然解けたような気になっていることがあります。
「あぁ〜あれは、ああだったんだ。これは、こうだったんだ。」という風に・・・。
この間の朝、目が覚めた時にも、何故か遠い昔の記憶が蘇っていて、またひとつの真実が露になっていきました。

あぁ、甘く苦かった高校時代・・・それは、もう二度と体験することのない・・・。

高校ってところは大体、誰もが憧れるようなマドンナ的存在の女の子がひとりやふたりいたりするもので、僕のクラスにもそんな、クラスの半分近くの男子、それだけではなく別のクラスの沢山の男子までもがアタックしたものの、その全員を断ってしまった女の子がいました。
それで、男子たちは一斉に押し掛けていって、彼女にその理由を訊きました。
好きな人がいるからという理由でしたが、その好きな人の名は誰にとっても衝撃的なものでした。

その名を口にしたのは、もう卒業も間近に迫る体育祭のお昼休みの時。
この日の午前中、僕はクラス対抗のバレーボールで大活躍をしました。
アタックがことごとく決まり、ブロックも気持ちがいいほど決まる。
これは信じ難いことでした。
中学の時にバレー部に所属していたというだけの理由で選んだものの(他にもソフトボールやサッカーの選択肢があった)、中学の時はレギュラーになったことは一度もありません。
バレー部は友達に誘われて入ったにすぎず、そもそもスポーツそのものにまったく興味がなく、多少は体力に自信があったものの、毎日鍛えて厳つい身体をしている人に敵う筈もなく・・・。
そんな僕が、この時は信じ難い活躍した。
親しい友達はみんなソフトボールやサッカーの方にいってしまい、僕はチームで孤立していましたが、この時だけは親しくなくてもみんなが僕を祝福してくれました。

そんなみんなの態度が一変したのが、お昼休みの後。
チームで唯一僕と話をしたことがあるのはセッターの人だったのだけれど、そのセッターの人が僕にアタックを打たせないようにトスをあげるようになりました。
「あげてよ!」と僕が言うと「ごめん」とただそう言うだけで、セッターは他の人にトスをあげ続けます。
そして彼だけではなく、チーム全員が僕に対して冷たくなっているのがよく分かりました。
いったい何が起こったのか?
何だか分からないけれど、何かが起こっている?
午後の試合は、一方的な惨敗に終わりました。

気になったのが、例のマドンナがこのチームのすべての試合を見に来ていたこと。
つまり、マドンナの好きな人がこのチーム内にいるということでした。
そしてお昼休みの後、その衝撃的な好きな人の名を口にした後のみんなの僕に対する急変ぶり。
あぁ、まったくなんてことだ。。。
僕はあの時、そんなこととは露ぞ知らなかった。

当時、僕はまったく別の人に恋いこがれていて、マドンナは高嶺の花だと思っていました。
マドンナの僕への熱い視線は驚きであり、ただただ戸惑うばかり。
そんなことがあって以来、クラスのあまり仲の良くない連中に絡まれることしばしば。
それから、僕の当時一番仲良くしていた別のクラスの友達がこのことを知ってか知らずか、マドンナに熱をあげていることを僕に告白。
同じクラスにいる僕にマドンナ情報を随時報告せよという命令がくだされる訳で・・・。

また別の友達が僕に駆け寄ってきて「大変だ大変だ!さっきもっのすごいかわいい子がもっのすごい熱い視線で俺をずっと見てたんだけど。」
友達の言いたいことが分かったので、「それは良かったね。」といって放っておきました。

謎といえば、いったい全体どうしてマドンナは僕なんかを好きになったのだろう?
しかし、今となってはそんなことはどうでもいい訳で、大事なのが、どうして体育祭の午前中の試合であれだけの信じられないようなパワーが出せたのかということです。
今にして思えば、やはりマドンナの影響があったようです。
マドンナの僕を応援する気持ちと、目に見えないキューピットのような力が作用したとしか思えません。
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僕はあの頃のことを鮮明に思い出すとともに、何故だかワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のことも思い浮かべていました。
原初の忘却・・・。
第3幕でトリスタンが語る台詞です。
そこは私がかつて居て、そしていずれまた旅立って行く、世界を覆う夜につつまれた広大な国。
たった一つの知識のみが、そこで我々に与えられる・・・
しかし、その知識とは神々しくも永遠に続く、原初の忘却なのだ!

その忘却への予感はなぜ私から消え去った。
その代わり、憧れに満ちた警告とでも呼ぶべきものが、私をなぜ新たに昼の光のもとに押しやったのだ?

ただひとつ私に残されたもの、死の歓喜のおののきから生まれた熱く燃えさかる愛情が光を見ろと私を駆り立てるが、その光は欺くように明るい黄金色で、なおもあなた、イゾルデを照らしているのだ!
トリスタンはイゾルデの愛の死によって昇天していきますが、何だか僕の体育祭での信じ難いパワーとダブっていました。
似たようなパワーを別の女性からも感じたことがあるのですが、キューピットパワーとでも言うんでしょうか?
そんな途轍もないパワーは、きっとトリスタンとイゾルデのように解脱することさえも可能になってしまうのかもしれません。

原初の忘却とは、ただ単なる死を意味するのではなく、自分が何者なのかということを忘れさせ、すべての記憶を消されて、再びこの地上の人間として生まれてくるための処置ということなのだと思います。
不滅の魂にとって、もっとも辛い拷問は記憶を消されるということ。
しかし、解脱をすることができれば記憶を消されることはなく、自分が何者なのかを思い出すこともできる。
解脱をするには、僧になって辛い修行を積まなければならない訳ではなく、ひょっとするとキューピットパワーでも可能かもしれないと考えてしまうのです。
ワーグナーは、僕はとんでもないサイキッカーだったと思っています。


ところで、解脱というと実は僕は老子を思い浮かべます。
老人となって肉体から去るために、老子は村から離れ森へ入る決心をします。
その時、村の門番がの足を止め、去る前に老子の個人的な哲学を書き留めていってくれるように嘆願しました。
老子が自分自身の魂を発見した「道(タオ)」について書き残したのが、「老子道徳経」です。
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視之而弗見、名之曰微。聽之而弗聞、名之曰希。捪之而弗得、名之曰夷。三者不可致計。故混而爲一。一者其上不悠、其下不忽。尋尋兮不可名也。復歸於無物。是謂無状之状、無物之象。是謂忽芒。隨而不見其後、迎而不見其首。執今之道、以御今之有、以知古始。是謂道紀。


<訓読>

これを視(み)ても見えず。
これを名づけて「微(び)」と曰う。
これを聴(き)いても、聞こえず、
これを名づけて「希(き)」と曰う。
これを捪(な)でても得ず、
これを名づけて「夷(い)」と曰う。

三者は計を致す可からず。
故に束ねて一と為す。

一なる者は、其の上は悠(ゆう)ならず、
其の下は忽(こつ)ならず。
尋尋兮(じんじんけい)として、名づく可からざるなり。
無物に復帰す。

是れを無状の状、無物の象(しょう)と謂う。
是れを忽芒(こつぼう)と謂う。
随うも其の後を見ず、
迎うるも其の首(こうべ)を見ず。

今の道を執り、以て今の有を御(ぎょ)すれば
以て古始(こし)を知る。
是れを道の紀(もとづな)と謂う。

老子道徳経/第十四章


<解釈>

眼を凝らしても見えて来ないものを、名づけて「微(かす)か」と言う。
耳を澄ましても聞こえて来ないものを、名づけて「希(まれ)」と言う。
触(さわ)ろうとしても触れられないものを、名づけて「夷(たい)ら」と言う。

この三つのものは、測り知ることができない。
それで、これを束ねて一つのものにする。

この一つのものは、その上方は遠くはないが、その下方は尽きることがない。
長々と果てしなく続いて、名づけられない程であり、物がその姿を取らぬ世界に復帰する。

これを「はっきりとした形の無い形」「物がその姿を取らぬ状態」と言う。
これを「芒忽(ぼうこつ)(ぼんやりとしていて、定かでない)」と言う。
これに付き従ってもその後ろ姿は見えず、これを迎えてもその先端は見えない。

今の道をしっかりと握り、今の有(存在)を統御すれば、古の始原を知ることができる。
これを「道の紀(もとづな)」と言う。

老子 訳注 帛書「老子道徳経」/小池一郎著より


五感でなんか確かめられないものこそ
ほんとの実在なんだ。

微小すぎるものは
いくら見ようったって見えない。
あんまり幽(かす)かな音というのは
いくら聞こうったって聞こえない。
滑らかすぎる表面は
触ったって感じない。
この三つの微妙きわまる状態は
微細であるだけに、
融けあえるものだ。そしてこの三つが一つに
融けあっている空間───
それは無か空(くう)に見えるけれども
充実したもの、
もっとすごい実在といえるものだ。

そこは
かぎりなく昇ったって
ただ明るいだけじゃないし
かぎりなく下へおりたって
ただ真っ暗じゃあない。
すべてが絶え間なく連続し、変化し、動いていて、
やがてはあの名のない領域に戻る。

そこには形のない形だけが在る、
無いものだけが在る。すべて
捉(とら)えがたい抽象だと言えるところだ。
そいつの後をついて行っても
背中は見えないし
前に廻ってみたって
顔つきなんか分からない。
そいつをどうやったら摑(つか)まえられるかだって?
まあ、
今の自分のなかに、そして
萬物のなかに
タオが働いてると感じることだよ。それは
太古の太古のときから伝わってきている
と想像する。すると
道(タオ)の全体像が
現われてくるだろう。

タオ ─ 老子/加島祥造著より 

マドンナに会うことは、もう二度とない
あの頃、恋いこがれていた人とも会うことはない
しかし、あの時感じていた痛みは、きっと永遠に癒えることはない
時はいったい、僕に何を教える?


「道」の根本とは、ものごとが生じるその始めを知ることであると老子は説きます。
それは見たり、聞いたり、その姿形をとらえることが出来ないものではあるけれど、しかし、それを知ることこそが「道」の根本なのだと老子は言います。

ものごとがこの世に顕れる以前からの道筋を見極めることが出来れば、制御が可能なのだそうです。
見えないもの、聞こえないもの、それらは決して「無い」のではありません。
寧ろ見えないもの、聞こえないものこそが、本当に大切なものだということです。
現代の多くの唯物論者にとっては、きっとこの老子の言葉は理解不能かもしれません。

自分の想いが生じる以前の本来の自己を知るということ。
それが苦の解脱の根本だということ。

キューピットパワーが感じられることなんて、そうそうあることではありません。
そうしたものは、求めれば求めるほど遠ざかっていってしまうものです。
(トリスタンとイゾルデのような死の直前なら、これは究極ということになりますが・・・)
この世は幻想、すべてはマトリックス。
しかし、それでもその先にある、この世の本当の真実を追い求めていくことこそが大切。
いったい、自分が何者であるのかということを・・・。


時とは実に面白いもので、長い長い時間が時としてヒントをもたらすことがあります。
あの頃は生きていること自体が必死で、まったく心に余裕などありませんした。
もちろん今も必死には違いありませんが、あの頃に比べれば幾らかは心に悟りの境地のようなものがあるのかもしれません。
あればいいなとは思いますが・・・。

せめて毎日ガヤトリーマントラを唱えて、世界の平和を祈り続けようと思います。
このマントラには、解脱の力があるような気がするからです。

(写真はすべて水元公園で撮ったものです。)


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