音楽が人の心を狂わすこともあるかもしれない。
ヒトラーはワーグナーの音楽を使いアーリア人至上主義を唱え、隣国を次々と占領していった。
音楽を悪用した典型例だ。
テレビから流れてくるCMソングを何度も聴いて、洗脳されてしまうこともある。
その音楽を思い出す度に、その商品を買いたいという衝動を引き起こさせるのだ。

あまりに悲しすぎる音楽を聴くのも良くないという人がいる。
しかし、これに関しては僕はちょっと違うのではないかと思っている。
悲しい音楽を聴いて、落ち込んで何も手につかなくなるなんてことがあるだろうか?
そもそも音楽は、心の波長のようなもの。
楽しい時には楽しい音楽を聴きたいように、悲しい時には悲しい音楽を聴きたくなるもの。
しかし、悲しみを助長させるなんてことは決してないと思う。

「おすぎとピーコ」のピーコさんが左目のガンの手術をして、抗がん剤で髪が抜け落ちて死にたいと思った時、死ぬほど悲しい音楽を聴いたらいいんじゃないかと思い、あのビリー・ホリデイの「I Am A Fool To Want You」をずっと聴いていたのだそうだ。
死ぬほど辛い経験をしているからこそ、分かることがある。
「その気持ち、私にはわかる。」というような。
それは同情心であると同時に、癒しにもなる。
悲しみというものを知らない人には、きっとこの曲の良さは分からない。

塵も積もれば山となるとは、よく言ったものだ。
一度どん底を味わってしまえば、その体験が塵となって積もり、もう二度と同じようなどん底を味わわなくなる。
塵がどんどん積もって、やがて神界にまで達した時、人はやっと悟ることが出来る。
まったく塵の積もっていない人に、塵が神界にまで達している人の感覚など理解できる筈もない。

神界とはどういう所なのか?地獄界とはどういう所なのか?
僕は神界とは上も下もなく、優も劣もなく、明も暗もない、すべてに均等が保たれていて調和された世界だと思っている。
逆に地獄界とは分離された世界、強い者が勝ち、弱い者が負ける、つまりこの世のことだ。
つまり我々人間は、神界にまで達するための修行を、この世で行っているということになるのだ。
輪廻転生を繰り返し、業を重ねて、人は新しい感覚をマスターしていく。
それこそが、霊的進化だ。
そして、良い音楽を聴くことや良い本を読むということは、この進化にとってとても有効的なことなのだ。
人は体験をしなくとも、歌手や作曲者や物語の主人公の気持ちになり、同情することが出来る。



しかし、なんと美しい演奏なのだろう。
このキース・ジャレットの「祈り(生と死の幻想より)」という曲を聴いてると、ジャズという枠を超え、この地球上にある常識という常識もすべて消え去って、広大な宇宙と一体化してしまったようだ。

キースはこのアルバムで、ピアノ、ソプラノサックス、フルート、パーカッションという4役をこなしているというのだから、何というマルチだろう。
しかしもっと驚くべきことは、彼はすべてが即興演奏だったということ。
自分を巫女(シャーマン)的な媒体として、神の声としての音楽を聴き、それを己の五体を通してピアノを弾くのだそうだ。
そしてやがては霊媒や巫女的なレベルを越えて、自己の魂の叫びとしての音楽を芸術として昇華していく。
キース・ジャレット・創造の秘密という素晴らしい記事を見つけました。ちょっと長い記事ですが、是非最後まで読んで頂きたいです。しばらくその記事に書かれていたことを続けます。)

彼の演奏を聴いていて、どこか禅の世界に通じるようなものを感じていたが、それはあながち間違えではなかった。
「チャンヂィレス(Changeless)」(ECM 1989)というアルバムジャケットには、禅の「円相」で有名な「○」の字が、薄いわさび色の地にポツンと描かれている。
この字は南画で有名な直原玉青(じきはらぎょくせい)の筆とのこと。
そしてこのアルバムは、禅の悟りの境地であるこの「円相」を全体のコンセプトにしているというのだ。

禅の心を伝える図として「十牛図」というものがある。
中国北宋の時代に考えられた、禅の教えを易しく説いている10枚の図のことだ。
1牛を探す(尋牛)→2足跡をみつける(見跡)→3牛を見つける(見牛)→4牛を掴まえる(得牛)→5牛を飼い慣ら す(牧牛)→6牛に乗ってわが家へ帰る(騎牛帰家)→7牛を忘れてわが家に居る(忘牛存人)→8○(人牛倶忘)→9人も牛もいない心に春の花が咲き乱れる (返本還源)→10街で楽しく遊ぶ(入てん垂手)

キースの即興演奏の流れが、この「十牛図」と良く似ているそうだ。
「主題(メロディあるいはモチーフ)の探索→主題の発見→主題の展開→発展→絶頂→昇華→崩壊と混沌→新たな 主題の発見・・・。」というように。
「牛」とは己の心の中にあって心定まらぬものであり、それを見つけ、それを自分の力で飼い慣らし、己の心という牧場に放った時、牛は消えて自己と一体となり、心はまっさらの「○」となる。
「○」は悟った者の心の有り様を指し、これが 「悟り」だというのだ。

また彼は20才の頃から、ギリシャ正教の宗教家G・I・グルジェフ(1877頃〜1949)に傾倒 している。
グルジェフの思想は、「通常、人間本来の意識というものは、眠っている状態に置かれている。習慣に縛られ、その状態を覚醒と思い込んでいる。人間の本質にある意識に目覚めるためには、何事にも激しい願望を持って、意識的(自発的)に行うことが必要である。そのことによって、人間は真の自我、真の自己に覚醒することが叶う」というものだ。
若いキースはグルジェフ体験を通して、自己の内面にある「本来の自分」というものを強く意識するようになった。
キースの音楽のその深い精神性は、おそらくこのグルジェフの思想体験から来ているのかもしれい。

「人間本来の意識」とはなにか?
CG・ユング(1875〜1961)は心の構造を研究し、人間の心には決して意識化され得ない意識領域があることを発見した。
それは潜在意識の奥にある、集合的無意識という言葉で表される。
顕在意識は氷山の一角であり、人間はその下に集合的無意識という巨大な意識の固まりが眠っていることを忘れてしまっている。
キースの即興演奏は、この集合的無意識からのインスピレーションが働いているのではないか?
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「こう見えて、僕も子供の頃は神童といわれたこともあってさあ。」
「へえ〜。」
「いや、ピアノの先生に僕の即興演奏を弾いて聴かせてみたら、天才だ神童だともてはやしてね。」
「それは凄いじゃない。」
「いや、戯れ言だと思って聞いてよ。子供を褒めたら駄目だね。それ以降、僕の人生、まったく駄目だったんだから。」
「褒め方にもよるんじゃない。」
「別のピアノの先生についたら、一からクラシック音楽の基礎を教えないと駄目だと言われてバイエルから始めたんだけど、つまんなくてね。いやんなっちゃってやめたこともあったんだけど、やっぱり僕には音楽しかないと思い至り、また勉強し直して一流の音大までいったんだけれど、あの頃を思い返してみると、僕には何もなかったんだよなぁ。」
「何もなかった?」
「何もないのに成功してしまう人もいて、それはそれで悲劇かもしれないけど、キースのような哲学を僕はちゃんと持っていなかったんだ。なにをどう生きるべきなのか、まったく分からなかった。ココロん中は何もなかった。ただ生きているだけだった。生きながら死んでいた。それこそキースの言う『どう猛さ』など微塵もなかった。だけど瞑想するようになって、『意識を自己の内に集中させて照らす』ようになって、なんだか最近、道が開けてきたような気がしていてね。本来の自己へ辿り着く方法が分かってきたような気がしてるんだ。」
「老子のタオですか。」
「タオ、つまり道の根本とは、ものごとが生じるその始めを知ることであると老子は説いた。子供の頃の即興が僕の原点だったかもしれない。もっと深く探っていけば、それは前世に通じてくるかもしれない。また即興演奏をしたいと思ってる。もちろん、下手すぎて人には聴かせられないと思うけど。けどね、僕はココロん中でキース・ジャレットという旗を掲げ始めてる。大学出た後も時々即興をやってみたりしていたけど、教わってきた基礎をなかなか壊すことが出来なかった。でもキースの演奏を聴いていたらまたやってみたくなった。壊すのではなく、それは本来の自分を思い出すということなのかもしれない。それにはキースの言うように、創造の神から届けられたものを、なし得る限り、俗塵の介入を防ぎ、純粋度を保たねばならないのだと思う。ねえ、ところでマスター、何か食べるものある。」
「ミネストローネとかはいかが?」
「喫茶店なのに、そんなのあるの?」
「ここは今は喫茶店だけど、夜は内装を変えてレストランにしていて、まっその時には家の女房が僕に変わってこの店のシェフになるんだけど、昼間は閑散としてるけど、夜の方は結構人気があって。」
「へえ〜いいねぇ。そうなんだ。するとミネストローネは奥さんの仕込みってこと?ベジタリアンには助かるし、じゃあ、ミネストローネお願いするわ。」
「かしこまりました。」

2003年に発売されたキースの「アップ・フォー・ イット」(副題は「The Triumph Desire」で「願うことの勝利」という意味)のライナー・ノーツには、こんなことが書いてあるそうだ。
「これを2003年2月に書いている。(中略)僕たちの国は、イラクとの戦争に突き進んでいる。今や世界は目立って詩的感性が欠如しているかに見える。その結果、世界はこれ以上喜びや超越性というものが育ち辛い世となってしまった。(中略)若者は内面を見詰めるという自身の仕事を忘れ、金と名声だけがすべての動機となってしまった。この世界に対する誠実さとはいったい何か?その意味とは?何故、音を紡ぎ出すのか?創りあげたものの違いとは何か。」
非常に興味深いと共に、心が震えるほどの共感を持って僕はこれを読んだ。
キースの演奏は集合的無意識の具現化であると同時に、極めて高次元的な願いなのだろう。
世界はこれからどこへ向かうのか?
それは、我々の潜在意識の奥にある集合的無意識に掛かっているのかもしれないが、キースの創りあげたものは、世界を良い方向に向かわせていると信じたい。




これはデューク・エリントンの弾く、蓮の花(ロータス・ブロッサム)という曲。
ビリー・ストレイホーンの代表作だ。
亡きビリーを偲ぶ演奏会も終わり、ミュージシャンがガヤガヤしゃべりながら帰り支度をしていた時、エリントンはまだピアノのそばにいたのだそうだ。
「何かはじめるに違いない」と技師はテープをまわし続けていると、雑談と雑音の中でデュークは静かにこの曲を弾きだしたそうだ。
だんだんと力がこもるにつれ、うるさかったスタジオも静まりかえっていった。
後になって、デュークは言ったそうだ。
「この曲を弾くと、いつもビリーはとても喜んだ。」
 
これは、その時の実際の演奏。
後半にジョニー・ホッジズのアルトが加わってくる。
デューク・エリントンの片腕として約30年間もアレンジャー、そして楽団を支えてきたビリーの死は、デュークにとってどれほどの悲しみであったことか?

実にシンプルなメロディ、実にシンプルな構成、それなのに何故こんなにも心を激しく揺さぶられるのか?
ビリーの人間性、そしてデュークの思いが、これほどにまで凝縮されたような美しい演奏が、他にあるのだろうか?
キース・ジャレットの即興のような神性を感じる。
ひょっとしたら、ビリーの魂が降りてきていたのかもしれない。
塵も積もって山となり、やがて神界にまで達すれば、まさしく俗塵の介入を許さない高純度な美がそこに顕われる。
それが「悟り」であり、それはまた「愛」ともいえるのかもしれない。
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キース・ジャレットの「祈り(Prayer)」を収録したアムバムCD『生と死の幻想』はこちら↓
Death And The Flower
https://www.amazon.co.jp/生と死の幻想-キース・ジャレット/dp/B00008KKTQ


デューク・エリントンの「蓮の花(ロータス・ブロッサム)」のMP3ダウンロードはこちら↓
Tribute To Duke Ellinton
https://www.amazon.co.jp/ロータス・ブロッサム/dp/B00P2EAGEE/ref=sr_1_1?s=music&ie=UTF8&qid=1478808995&sr=8-1&keywords=デューク・エリントン%E3%80%80ロータス・ブロッサム


(写真はみさと公園で撮りました。尚、この物語はフィクションです。)


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