(追記あり)

いい加減、そろそろ作曲を仕上げないとと思うのですが、なかなか前に進みません。
やっとコーダに入ったのですが、そのコーダもすごく大きなコーダになりそうで、もうちょっと時間がかかるので、今日は一呼吸置いて更新が滞っているブログを書こうと思います。
作曲の目標は、今総仕上げにかかっている「月下の幻想」という曲(「宇宙創造」という題でしたがやっぱり変えました)の他に、途中で放り投げてしまったのが2曲ほどあるので、それを最後まで仕上げるのと、あと「月下の幻想」のオーケストレーションに挑戦したいと思っています。

hana03

さて、自分の不可思議体験を元にこの世の真実を探求しているこのブログですが、今日は体験というより、「仏教」に対する僕の考え方について書いていきたいと思います。
仏教については、以前にも「ワーグナーによる「輪廻転生」表現をめぐって〜未来永劫に一体となって、そして愛に包まれて」という記事に、インドの古典「シャールドゥーラカルナ・アヴァダーナ」に書かれている仏陀の弟子アナンダの英雄伝のことなどを書きました。

現在の日本の仏教とインドの初期の頃の仏教とでは、まるで教えも考え方も違います。
僕が毎日行っている瞑想やガヤトリーマントラなどは、初期の仏教に近いのではないかと思っています。(もちろん違う部分も多いのですが・・・)
初期の仏教とは、つまり上座部(小乗)仏教のことです。
日本やその他のアジア諸国の仏教徒の殆どは大乗仏教です。
現在、上座部仏教はスリランカなど、ほんの一部の地域でしか行われていないようです。

そもそも、それこそ初期の仏教はすべて上座部仏教でした。
食べ物は托鉢以外は食べてはならず、また一日の殆どの時間を瞑想に費やし、そして日々の暮らしは200以上の厳しい戒律に定められています。
大乗仏教との一番の大きな違いは、偶像崇拝を禁じているということです。
拝んでもいいのは、法輪だけです。

しかし大乗仏教は、そんなに厳しい修行を積まなくても、仏像を拝んだりお布施をしたりすれば誰でも救われるという教えです。
その大乗仏教の極致といってもよいのが浄土宗や浄土真宗で、南無阿弥陀仏と唱えれば誰もが極楽浄土へ行くことができるという教えです。

余談ですが、日本のお坊さんは随分と逞しい体格をされている方が多く、肌の色つやも良く、普段からよっぽど美味しいものを召し上がられているような気がします。
最近のお坊さんの食事は精進料理とはほど遠く、肉食も多いと聞きます。
ベンツにも乗れるようなお金持ちも多いそうです。(神道系の方は逆にまったく儲からないそうですが・・・。)
驚くべきことに「あの世は存在しない。死んだらそれまでだ。」と考えているお坊さんもいるそうです。
仏陀の教えとは、何から何まで正反対のような気がします。 
そんな大乗仏教が、いったいいつ、どこで、どんな風に広がっていったのか?
それが解れば、現在の日本の仏教の現状が見えてくると思います。

大乗仏教が広まったのは、今から1900年前のガンダーラ。
約2500年前(紀元前5世紀)にインドで生まれ、数多くの宗教のひとつに過ぎなかった仏教は、1900年前のガンダーラの地で多くの人々が信仰する世界宗教へと驚くべき変貌をとげていきます。
現在の仏教信仰の拠り所として欠かすことの出来ない仏像も、この頃に初めて作られました。
日々の暮らしの中で、お経を読んだり祈りを捧げたりする分かりやすい信仰の形は、民衆の心を捉え、世界中に広まっていきました。
その礎を築いたのが、中央アジアからガンダーラにかけて広大な帝国を築いた遊牧騎馬民族、クシャン人でした。

クシャン人は卓越した馬術で中央アジア一帯を席巻し、標高6000m級の山々が連なるヒンズークシ山脈を越えて、カブール、そしてガンダーラを激しい戦いの末占領します。
やがてインド南西部まで手中に収め、ローマと後漢を繋ぐシルクロードの要衝の地を悉く抑えたクシャン帝国のカニシカ王は、カニシカ金貨という独自の貨幣を作り、その金貨を広めることによって帝国は巨万の富を得ていきます。
カニシカ王は様々な民族の宗教を認め、そうすることによって多くの異なる民族を治めようとしました。
それが、ガンダーラ仏教に大きな変革を齎すこととなります。

クシャン人は、死んであの世に行っても、天国に行けるかどうかはお金があるかどうかで決まるのだと考えていました。
その為、死者の口に貨幣をくわえさせるという風習がありました。
しかし仏教の教えでは、あの世に行ったらお金はまったく関係がなく、生きている時の行いが重要でした。
では、生きている時に何をすれば良いのか?
それはお布施をし、仏塔を建て、仏像を拝み、祈りを捧げれば誰でも天国に行ける、という教えでした。
そうした教えはクシャン人に受け入れられ、多くのクシャン人が競ってお布施をし仏塔を建てるようになりました。
そうやってクシャン帝国の巨万の富は、仏教を広めることに使われるようになりました。
大乗仏教の誕生です。

考えてみると、大乗仏教は死者の口に貨幣をくわえさせるあの風習と然程変わりないような気がしてきます。
死者の口に貨幣をくわえさせる代わりに、仏塔を建てるようになっただけの話です。
いや寧ろ、以前よりも死者の為に莫大なお金を使うようになりました。
あの世に行ったら、お金などまったく関係がないのに・・・。
そうやって、僧侶たちは私腹を肥やしていきました。
今の日本のお坊さんの姿、そのままではありませんか?
戒名によって、あの世の霊位など変わる筈もありません。
唯物論者が多く蔓延っている日本なのに、こういうものにはお金を惜しまない。
まったく不思議なものです。

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ブラフマン(梵)とアートマン(我)が同一であることを知ることで、永遠の至福に到達しようとする思想が「梵我一如(ぼんがいちにょ)」です。
ブラフマンは元々は「ヴェーダ」の教典の「賛歌」「呪句」を表していましたが、やがてそれらに内在している「神秘力」という意味で用いられるようになり、更にはその力が宇宙を支配すると理解されていって「宇宙を支配する原理」となりました。
(「ヴェーダ」とは「知識」という意味で、「グノーシス」はここから来ているのではないかと思います。それから、ガヤトリーマントラは「ヴェーダ」に書かれていたものを、サイババが現代に復活させたものです。)
アートマンはドイツ語のAtem「息、呼吸」と語源が同じで、ここから「生気」「霊魂」「身体」「自己自身」「自我」という意味が派生して、やがては「個体を支配する原理」とみなされて、更には「ものの本質・本体」という意味でも用いられるようになりました。
(つまり「梵我一如」思想は、ワンネスという考え方と同じだといっても良いかもしれません。この思想は、実は大日如来の観想による即身成仏など密教の中にも見受けられます。)

古代インドのバラモン教は、この「梵我一如」を発展させたものでした。
バラモン教は「ヴェーダ」、そして祭儀を執り行う祭司階級であるバラモンを頂点として、クシャトリヤ(王侯・武士)、ヴァイシャ(庶民)、シュ―ドラ(隷民)という身分制度を生み出し、それはヒンドゥー教のカースト制度の母体となっていきました。
つまり、祭儀を司るバラモン階級のみが「ヴェーダ」を学ぶ資格があり、これを学ぶことで輪廻から解脱できると考えられていたので、ここにブラフマン的思想を源泉として分泌される祭司階級を頂点とした身分社会、圧倒的かつ論駁不可能な不平等、逆立ちしてもひっくり返すことができない「格差社会」が君臨していきました。

仏陀は、祭儀を司るバラモン階級、バラモンを頂点とする身分社会、これらは「空(一切皆空)」(つまりマトリックス)であって、輪廻から解脱する機会はバラモン階級だけではなく、全ての人に開かれているのだと説きました。
自分の身体を取り巻くあらゆる実在を否定し、我執に苦しむ個もまた否定し、ひたすら自らの「道」を全うすべく修行に励めば、いかなる人も涅槃(ニルヴァーナ)に至り解脱できると説きました。
(これは、老子の道「タオ」に繋がってきます。)

自分の外側、つまり自分の周りの環境によって与えられる社会的な役割や肩書きや他者から評価というあたかもブラフマンのような実在に惑わされる必要はなく、自身の虚栄心も乗り越えて、自分の内側、つまり自己(アートマン)が本当に良いと思う行いをし、本当に美しいと思うものを追求していくことが、やがては本物のブラフマン(宇宙を支配する原理)と一体化すること(解脱)に繋がっていくのだと思います。
自分を他力によって救済してくれる神など存在せず、頼るべきものはすべて自分の内側に既に備わっているという仏陀の教えは、瞑想やガヤトリーにも繋がってきます。
例え上座部仏教のような厳しい修行を積まなくても、そのように考え方を改めさえすれば日々の生活こそが修行になっていくのだと僕は考えます。

ブラフマンとアートマンが同一であることを知り、永遠の至福に到達するには瞑想するしかありません。
「梵我一如」の思想の背景にヴェーダ祭式の「同一視の論理」というのがあって、例えば獲物の足跡に傷をつける猟師のまじないがあるそうです。
足跡を獲物の足と同一視して、それに傷をつければ獲物は遠くへ逃げられないのだそうです。
祭式の場にあるものを神話の世界や自然界の事物と同一視することによって、祭場にある祭具などを操作し自然を支配しようとしました。
ウパニシャッド(ヴェーダの「奥義書」または「秘教」)の哲人たちは、それを瞑想で用いました。
瞑想でAをBと同一のものとみなして意識の集中し、分別による知を乗り越えて、対象が直観され、主観は対象の中に入り、対象と融和し、対象そのものになり、同化します。
こうして瞑想によって対象そのものになり、その対象のもつ力を得ることができます。
瞑想とは、それほどの力を持ちます。 

お布施がどうの、戒名がどうのと言っているようなレベルでは、先が思いやられます。
仏像を拝むということは、仏陀を神格化していることに他なりません。
浄土宗や浄土真宗など殆どの日本の仏教は、伝搬する過程で土着の宗教を次々と取り込んでいき、本来の仏教とはほど遠いものになってしまいました。
それは知識などではなく、迷信です。
そもそも本来の仏教とは宗教ではなく、道(タオ)なのです。
老子は、「道」の根本とは、ものごとが生じるその始めを知ることであると説きました。
ものごとがこの世に顕れる以前からの道筋を見極めることが出来れば、制御は可能だと説きました。
自分の想いが生じる以前の本来の自己を知るということを。
それが苦の解脱の根本だということを。
それらは既に、自分の内側にすべて備わっているということを。
迷信ではなく、本物はそこに存在します。

hana05

(写真は水元公園で撮りました。)


(追記)

ひとつ、重要なことを書き忘れていました。
何も、僕は神様を全否定している訳ではありません。
僕は共産主義者でもニヒリストでもありません。
夢の中でイエスに会ったり、マリアが僕の肩に降りてきたり、弘法大使が仏壇の向こう側に座っておられたり、天狗が僕の家に訪問してこられたり・・・そんな奇跡を何度も経験してきました。
悪魔の様な存在にも、何度も遭遇してきました。
そのような目に見えない存在たちがいることを、僕はこのブログで訴えかけてきました。

だから僕は神社や神棚や仏壇にいる彼らに祈りを捧げ、感謝をします。
僕は彼らは神様というより、天使、先輩方という見方をしています。
5次元以上の高次元から僕らを見守り、僕らを指導してくださる方たちです。
時に彼らは猫の姿で現れたり、鳥の姿で現れたり、また人間の姿で現れたりもします。
(もちろんベルさんも、僕は天使の化身だと思っています。)
天使たちは、いつも僕らに寄り添っています。

しかし僕らの心が清くないと、彼らは決して姿を現しません。
だから外側がどうとかではなく、心の内側が重要になってくるということなのです。
彼らとの交流は、心の内側の状態によって可能になるのです。
5次元チューナーを増設できるかどうかは、そこが鍵になってくるのです。

「ウパニシャッドの創造神話では、一切はプルシャ(原人)の姿をしたアートマンであった。世界には、彼しか存在していなかった。彼は、「ここに私がいる」と言った(アートマン=自我)。
プルシャは、一人でいるのは怖いと思い、楽しくないと感じた。そこでプルシャは自らを半分に分けた。こうして、夫と妻が生じた。夫は妻を抱き、人類が生まれた。妻は、もともと私は夫から生まれたのに、どうして夫は私を抱くのかと思って、隠れることにした。妻は牝牛となった。しかし夫は牡牛となって妻を抱き、それから牛が生まれた。このようにして、夫婦は人間や、動物や、神々など、一切のものを創造した。」

僕らも、動物たちも、僕らが神様と呼んでいる天使たちも、こうしてプルシャによって創造されていきました。
重要なのが、すべては元はプルシャというアートマンであったということ。
それこそが「梵我一如」思想の原点です。
僕らはプルシャの一部なのです。

この3次元物質世界は、完全に分離してしまっている世界です。
個(アートマン)が宇宙(ブラフマン)から切り離されてしまっている世界です。
僕らの生きる目的は、如何にしてブラフマンと繋がるか、そして一体化できるのかということを知るということです。
自分の外側に神を求めるのではなく、頼るべきものは自分の内側に既にすべて備わっているというのは、そういうことなのです。
なぜなら、僕らはプルシャの一部なのだから・・・。


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