本物の神様は、自分のことを神様と呼ばれるのを嫌っているのかもしれない。
ずっと前からそんな気がしていたのだけれど、 今日太陽を見ていた時にまたそんな感覚がありました。
随分と威張っている神様もおられますが、そういう神様はおそらく本物ではない。
古事記で最初に登場してくる天之御中主神は、最高神でありながら天地創世の後にすぐに隠れてしまいました。
極めて謙虚なのか?
ただの恥ずかしがり屋なのか? (笑)

明日と明後日は台風が来そうなので、今日の内にいっばい太陽に浴びてこようと思って、またいつものように水元公園までサイクリングしてきました。
ベルさん(UFO)は登場してきませんでしたが 、どうも僕の感覚がいつもと違っていてなぜかすごく敏感になっていました。
森の中にいくつかテーブルと椅子があって、そこはだいたい人が沢山いるのだけれど、今日は空いている席もあったので、そこに座ってしばらく周りの木々の美しい景色を眺めていました。


昔から僕は、木というのは地球の電波塔で、神聖なものだという感覚がありました。
旧約聖書の『創世記』には、生命の木と知恵の木という2本の木が登場してきます。
生命の木(タロットやカバラのセフィロトの樹と同じ)の実を食べると、神に等しい永遠の命を得るとされました。
神(ヤハウェ・エロヒム)が知恵の木の実を食べるのを禁じたのは、知恵の木の実を食べた人間が、生命の木の実までも食べて永遠の生命を得て、唯一絶対神である自身の地位が脅かされることを恐れたためだといわれています。
知っての通り、蛇に唆されてイヴが知恵の木の実を食べ、そしてイヴの勧めでアダムも知恵の木の実を食べたことによって善悪の知識を得て、それを知った神はアダムとイヴをエデンの園から追放してしまいます。

しかし考えてみると、蛇の誘惑によって人間は善悪の知識を得ることができたのだから、実は蛇は人間を助けた良い存在なのではないかという感じもしてきます。
それはギリシャ神話に登場してくるプロメテウスに準えることもできます。
ゼウスの反対を押し切り、プロメテウスは天界の火を盗んで人類に与えました。
そのお陰で人類は暖をとることができ、調理もできるようになりました。
しかし、製鉄の発展などによって兵器を用いた争いの原因にもなりした。
それが現代でも、核の脅威となってしまっている訳です。
神の知恵を授かるには、人類はまだ幼すぎるということなのかもしれません。

キリスト教では、知識を悪としています。
しかしこれは、核の脅威とはまったく別の意味で使われます。
上部の僧侶のみが知識を得ることが許され下部の者が知識を持つことを許さないとしたのは、支配者が支配しやすくするためでした。(カースト制度もそうです。)
考えてみると、それは今も昔も変わりありません。
テレビで、真実が伝えられることはありません。
闇の勢力が世界を牛耳っているなんて真実は、誰だって口が裂けてもテレビでは言えません。
しかし偽情報ではなく、真実を知ることこそが人類の進化に繋がっていくことは言うまでもありません。


生命の木と知恵の木というのは象徴的なものなのかもしれませんが、僕は木というのは無闇に切り倒してはならない神聖なものだと思っています。
木は、多次元にまたがって存在しているのではないかと・・・。
(もちろん、山を守るための伐採(間引き)などは必要ですが)

諏訪大社の御柱祭は象徴的です。
久保有政氏の著書「日本の中のユダヤ文化」では、「この諏訪大社に伝わる“柱(ハシラ)”信仰とは何なのか。古代イスラエルには“アシラ”信仰と言うのが有った。これはアッシリアから来た異教信仰で、女神アシラを崇拝するもので、そのシンボルは“柱”であった。」とあります。

また小石豊氏の著書「古代出雲イスラエル王国の謎」では、「柱を山から滑り落とす儀式は、ユダヤ王国のソロモン王が神殿を立てるとき、(レバノンの)ツロのヒムラ王からレバノンの杉の木を買い取って、遠路エルサレムまで運んだ大事業の伝承に由来するのだろう。巨木を積んだ筏はツロの辺りから海路を下り、ヨッパから陸揚げされて、陸路を延々とエルサレムまで運ばれ、ソロモンの宮殿に建てられたのだ。(列王記I第5章2節、8~10節に記述)」とあります。

僕は一神教のユダヤ教は悪神の宗教だと思っています。
木は地に生えているからこそ神聖なのであって、木を切り倒して神殿を建てるなんてことを本物の神は要求しないと思います。
イエスは神殿の両替商を見て、憤って商人たちの机をひっくり返しました。
リン・ピクネット他著「マグダラとヨハネのミステリー―二つの顔を持ったイエス」(三交社)には、こう書かれています。
「このイエスの行動は、神聖な場所が金融取引で汚される戦慄感によると説明されるのが普通であるが、これはきわめて西洋的で現代的な見方である。エルサレム神殿に捧げる動物を買うために両替するのは、腐敗でも悪弊でもなく、この場所での礼拝に欠かせない要因であった。これは『エルサレム神殿の存在そのものに対する攻撃・・・この神殿が表わすものすべてに対する象徴的な拒絶』である。」

またこの本では、イエスはユダヤ人には違いないけれどユダヤ教徒ではなく、エッセネ派だったとしています。
エッセネ派というとクムラン教団が書いた死海文書を思い出しますが、イエスはそこで魔術を学んだと書かれています。
エッセネ派はユダヤ教とはまったく別のミトラ教の流れを汲んでいたとされます。
そういえば、ミトラ教はキリスト教と瓜二つの宗教でした。
不思議なことですが、まったく同じことが2回あったということです。
しかし重要なのは、イエスはユダヤ教とはまったく関係がなかったということです。
それだけではなく、イエスはエルサレム神殿が表わすものすべてに対して拒絶していた訳です。

聖書は色々な人たちの手によって書き換えられ、悪魔の書となってしまいました。
イエスがエルサレム神殿を拒絶したように、現在のすべての教会も汚れた存在だといえるのかもしれません。
そういえば、隠れ切支丹で有名な長崎の大浦天主堂が世界遺産の候補になっていますが、これも不思議な話しです。
なぜ、豊臣秀吉や徳川家康はキリスト教を禁止したのか?
また家康の跡を継いだ秀忠や家光の時代になって、なぜあれほどますます厳しくなっていったのか?
当時のキリスト教は次々と他国を植民地化し、他国の文化や宗教を壊していったからというのもありますが、それだけではないと思います。

徳川家康は賀茂氏の出の可能性が高いです。
賀茂氏のもとは、秦氏です。
秦氏はヘブライで、原始キリスト教を日本に持ってきました。
それ以前に日本にいた物部氏は、旧約聖書を持っていました。
つまり、物部氏はユダヤの血の儀式をずっとやっていました。
諏訪大社の御頭際は、その名残です。
御柱祭も前述したように、古代イスラエルの女神アシラを崇拝する儀式の名残です。
秦氏は、物部氏のユダヤの血の儀式を禁止しました。(諏訪大社だけは許された)
そして、血の儀式をやっている所がないかを監視する役目をする秦氏が、賀茂氏になりました。
それを、賀茂祢宜(かもねぎ)といいます。
賀茂氏でもある徳川家康は、どうもそれを知っていた可能性があります。
ユダヤ教は悪魔崇拝教であり、キリスト教カトリックもそのユダヤ教の流れを汲んでいると考えたのでしょう。
神道が原始キリスト教だということも、知っていたかもしれません。
神道はアニミズム信仰で、植物や動物や岩や土地にも神聖なものが宿ると考えます。
イエスは、実はアニミズム信仰を広めようとしていたのだと僕は考えています。
つまりイエスの教えを忠実に守っているのが、神道なのです。
2017082509
今日はどうも僕の感覚が敏感になりすぎてしまっているのか、森の中のテーブルの席について辺りを見回していたら、木の一本一本が生きた御柱となってとてもとても神聖なものに感じられるようになりました。
しばらくそうしていると、一羽のカラスが僕の近くをゆっくり歩いて横切っていきました。
そのカラスを可愛いなと思いながら見ていたのですが、何だか急に更に敏感になってきて、周りの景色に異次元的なのもの感じた瞬間、僕の頭上にとんでもない数のカラスが飛んできて、もう周りはカラスだらけになりました。
僕以外にも人が何人かいたのですが、周りにいた人たちもみんな突然こんなに沢山のカラスが飛んできたので、不思議そうに辺りを見回していました。
どうやら僕は、カラスたちを呼び寄せてしまったらしい。

僕は席を立って、カラスたちに奇跡を起こしてくれたことを感謝しながら、また自転車に乗りました。
森の中をサイクリングしていても、木々から放出されるエネルギーが感じられます。
運転中に危険だけれども、メガネを取ってみました。
景色がボヤけることによって、目から入ってくる映像に誤摩化されることなく、より強く木々のエネルギーを感じることができます。
(もちろん、草やキレイな花からも感じていました。)


レンズを通していない、直に入ってくる光の心地よさ
そして、まるで生きているような意志を持った風が、僕の身体を包み込む
今この時を、この瞬間を、強く意識する
さっきのカラスの奇跡をどう捉えよう

カラスは神の使いだと、ある人は言う
神でなく、極めて謙虚な・・・大いなる宇宙の意志とでも言おうか
そういえば、それをサムシング・グレートと呼んだ方もいた

カラスはあの世とこの世を行き来しているのだという
カラスはすべてのことを知っている
カラスは地球の本当の歴史を知っている
木ともサムシング・グレートともコミュニケーションがとれるカラスたちに、きっと知らないことはない


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