
いすみ鉄道で大原までいきましたが、大原にもビジネスホテルぐらいあるだろうと思っていたのですが、駅周辺は住宅街になっていて何もありませんでした。
どうやら勝浦まで行かないとないようなので、とりあえず外房線に乗りました。
旅をすると今までは携帯でホテルの予約をしていたのですが、HPが全部スマモ用に変わってしまっていて、携帯では予約が取れないようになっていました。
スマモは人間をロボット化させようとする闇の勢力の陰謀だと僕は思っているので、スマモを持っていません。
額に666の刻印をしていないものは、物の売り買いが出来なくなる・・・みたいなことが聖書に書かれていると思いますが、666とは獣を表していて、その獣とはまさにコンピュータのことを表しているのだと思います。
携帯も機械ですが、スマモは更に強力な人間を管理する強力なツールなのです。
だから、僕はスマモを持ちません。
しかし、聖書に書かれているようなことを僕は今体感しているんだなと思うと、逆に愉快な気持ちになったりもします。
勝浦に着くと、時刻は5時をちょっと回ったぐらいになっていました。
観光案内所は、前に旅をした時は確か7時ぐらいまで開いていたと思うのですが、なんと4時半に閉まることが観光案内所の前の看板に書かれていました。
「ちょっとあまりに早すぎやしないか?」なんてぶつぶつ言いながら、最後の手段で交番に相談してみました。
「ひとつスッゲー汚くて、おばあさんがひとりで経営している民宿があるんですけれど、そこでいいですか?本当にスッゲー汚いんですけれど。」
「泊まれればどこでもいいです。」
そんな感じで、そんなスッゲー汚いという民宿に泊まりました。
おばあさんは昔は海女さんをしていたのですが、旦那さんに先立たれて、今はひとりで民宿を経営しているとのことでした。
学生さんが泊まるのに、ちょうどいい感じの宿です。
おばあさんがひとりで何もかもやらなければならないので、これは大変です。
だけど、交番の人が言うほどそんなスッゲー汚くもありませんでした。
建物は古くて、廊下を歩くとギシギシと音がしますが・・・
でも本当に、泊まれただけでもありがたい気持ちでした。
夜寝ていると、だいたい1時半をまわった頃だったと思いますが、外から妙なエンジン音が聞こえてきました。
最初は漁船かなんかの音だろうと思っていたのですが、だんだん音が大きくなってきて、泊まっている人がみんな起きてしまうのではないかと思うほど、もの凄い音量になりました。
間違いなく、UFOが来ていました。
ひょっとしたら、UFOの光で外が明るくなるのではないかと思っていましたが、そうなることはありませんでした。
たぶん、何かのメッセージを僕に伝えたがっていたのでしょう。
僕がしようとしていることは、とても危険なことだという警告だったのかもしれません。
朝5時半ぐらいに起きて歯を磨いていると、学生さんが眠そうな声で「おはようございます。」と言いながら、僕の隣で歯を磨きはじめました。
僕の後ろにも、学生さんが待っていました。
たぶんみんな、UFOの音で眠れなかったのだと思います。
申し訳ない・・・
6時半ぐらいに宿を出ましたが、この日は大多喜城跡に行って、それから館山駅のひとつ前の九重駅で降りて稲村城跡(いなむらじょうせき)に行く予定でいたからです。
外房線で大原まで戻り、いすみ鉄道に乗って大多喜駅に着きました。
大多喜駅から大多喜城跡まで、結構な距離を歩きました。
「本多忠勝・忠朝」を大河ドラマに・・・なんてのぼり旗がいたるところにありました。
もし大河ドラマにでもなったら、街は活気ずくんだろうなー

因みに僕のご先祖様は本多正信(本多佐渡守、ほんださどのかみ)らしいのですが、忠勝は正信のことを「佐渡の腰抜け」と陰口するくらい嫌っていたようです。
他の多くの家臣からも嫌われていて、榊原康政にいたっては正信のことを「腸(はらわた)の腐った者」とまで言われていたようです。
今でいえば、笑点の円楽師匠みたいなものでしょうか?(笑)
しかし、徳川家康とは「友」と呼ぶほどの仲だったようです。
大多喜城は、真里谷信清が築いた小田喜城(おだきじょう)を元にして、本多忠勝が築き直したものと考えられています。
惣無事令違反を理由に上総国を没収された里見氏の北上を防止するための拠点として、重要な役割を果たしていたそうです。
この城からは、まったく霊的なものは感じませんでした。
まあ正信の子孫がやってきたので、本多忠勝が「何しにきたー」みたいに思っているかもしれませんが・・・(笑)
いや、失礼致しました。

さて、またいすみ鉄道に乗って大原まで戻って、また外房線に乗りました。
いったい何やってんだかといった感じではありますが、最終的に目的が達成されればそれでいいということにします。
予定通りに、館山駅のひとつ前の九重駅で降りました。
小さな無人駅だったので観光案内所がある筈もなく、駅前の交番で稲村城跡がある場所を聞いてみました。
「いやー、私もね、ここに来たばかりでわからないのですよ。そういえば、駅の看板に稲村城跡まで西に0.4kmとか書いてありましたよね。私も稲村城跡に行ってみたいと思っているのですけれど、どこにあるのかわからないのですよ。まったくそれらしき標識もなくてね。今スマモで探してみているのですけれど、ないですねー」
仕方なく「西に0.4km歩いて探してみます。」と言って、お礼をして交番を出ました。
次の館山方面の電車が何分だったのか、覚えていたのだけれど稲村城跡の場所ことで完全にすっ飛んでしまって、また駅まで行って時刻表を確認してからまた交番の前を通ると、交番の人が「ありました、ありました。」と行って飛び出してきました。
その場所を教えてもらい、稲村城跡の山の麓あたりに着きました。
地元の農家しか歩かないような細い山道をしばらく登って行くと、正木様という標識がありました。
「おお、正木様とは、里見氏の重臣で槍大膳と称された正木時茂(時綱子)に違いない。」
そこには祠が祀ってありました。

お参りしようと財布を開けて5円玉を探しましたがなくて、50円玉があったので取り出して祠の中の小さいお賽銭箱に入れて拝みました。
穴の開いた硬貨が霊を救うことになるので、僕は必ずお賽銭箱には穴の開いた硬貨を入れます。
お金の枚数だとか値段とかは、霊にはまったく関係ありません。
なぜか穴の開いた硬貨が、霊にとってはとても有り難いようなのです。
5円玉も50円玉も、効果は同じようです。
正木時茂は、稲村の変(里見氏の内紛)の時に父の時綱と兄が戦死したため、家督を相続しました。
稲村の変とは、1534年に当時の里見氏当主・里見義豊が、当主の座を脅かそうとする叔父の里見実堯を誅殺します。
稲村の変とは、1534年に当時の里見氏当主・里見義豊が、当主の座を脅かそうとする叔父の里見実堯を誅殺します。
すると実堯の子、里見義堯(さとみよしたか)は義豊を仇討と称して謀反を起こし、稲村城を包囲して義豊を討ち、里見氏の家督を奪います。
翌年には、北条氏綱が扇谷上杉家と戦った際に北条方の援軍として派遣されています。
その後に里見氏と北条氏の関係が対立関係に転じると、今度は第一次国府台合戦の時に里見方として参陣しています。
そして、真里谷朝信を討って小田喜城(後の大多喜城)を奪い居城しています。
因みに、嫡男の正木信茂や養子の正木憲時は、第二次国府台合戦の時に戦死しています。
僕の霊的な体験と、ここで繋がってきます。

このような石垣↑があったりして、所々に城跡の雰囲気を醸し出しています。

こんな山道を、ひたすら登って行きます。

途中、こんな横穴墓があります。
誰の墓なのかは、わからないようです。

さっきまで晴れていたのですが、いつの間にかガスに覆われていました。
桜は綺麗に咲いていました。

稲村城は、南総里見八犬伝で有名な里見義実によって、1486年に築城されたといわれています。
僕の今回の旅の目的は、彷徨える里見氏の霊を解放するというのと、あと里見八犬伝を探るという目的もありました。
これは曲亭馬琴の小説ですが、幾つもの本当にあった話しを繋ぎ合わせて作られているような気がするのです。
伏姫と八房の話しは、本当にあった話しだと思っています。
つまり、モデルがいたということです。
次回は、館山城と伏姫が生まれ育ったという滝田城、そして里見忠義(さとみ ただよし)の悲劇などについて書きたいと思います。
つづく
僕の今回の旅の目的は、彷徨える里見氏の霊を解放するというのと、あと里見八犬伝を探るという目的もありました。
これは曲亭馬琴の小説ですが、幾つもの本当にあった話しを繋ぎ合わせて作られているような気がするのです。
伏姫と八房の話しは、本当にあった話しだと思っています。
つまり、モデルがいたということです。
次回は、館山城と伏姫が生まれ育ったという滝田城、そして里見忠義(さとみ ただよし)の悲劇などについて書きたいと思います。
つづく
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