ニュースは連日、自然災害の脅威を伝えています。
先週は大雨で鬼怒川の堤防が決壊し、多くの家屋が水に浸りました。
それから東京湾で最大震度5弱(M5.3)の地震があったり、阿蘇山で噴火が発生して警戒レベルが3に引き上がりました。
昨日はチリ中部沖でM8.3の地震が発生して、日本でも津波注意報が発令されました。
日本の国土の面積は、全世界のたった0.28%しかありません。
それにも関わらず、例えばスイスの再保険会社スイス・リーが2013年にまとめた「自然災害リスクの高い都市ランキング」では東京・横浜が世界1位となり、他にも大阪・神戸が5位、名古屋が6位と、トップ10に3つのランクインとなっています。
注目すべきは、9位のロサンゼルスを除けば全てアジアということです。
逆に、イギリスの様に全く自然災害がない国もあります。(因みにイギリスでは、たまに小さな地震がある程度)
この日本という国は、古の頃よりこうした自然災害が多くありました。
何も今にはじまったのではなく、古文書の中にも沢山の自然災害の記述が残されています。
むしろ、ここ数年は安定していたのだと語る学者もいます。
あの3・11以来、日本はどうやらまた活動期に入ったということらしいです。
先日の東京湾の地震も最大震度が5弱だったから良かったものの、もっと大きな地震になっていた可能性はある訳です。
その可能性は科学的にもずっと以前から示唆されてきた訳で、むしろ起こらない方が不思議なくらいなのです。
日本人は古代の頃から自然災害に遭ってきたので、DNAにもきっとそれが組み込まれていて、それが日本人の性質を作り出していると言ってもいいのかもしれません。
大和(やまと)という国は読んで字の如く「大いなる和」であって、皆で助け合い支え合いながら生きていくという意味が込められていると思うのです。
それがこの日本の風土で培われてきた日本人独特の気質だと思うのです。
でもこれは、今の日本人が忘れかけていることでもあります。
ひょっとしたらこれらの災害は、その「大いなる和」を思い出せという天からのメッセージなのかもしれません。
ところで僕は霊能者ではないので何とも言えないのですが、スピ系ブログを覗いてみると、案の定どのブログも今回の自然災害に霊的な意味合いを持たせています。
僕のブログもひょっとしたらスピ系に入ってくるのかもしれませんが、ただひとつ違うとすれば、それは「信じる」というのはとても危険なことで、常に「疑う」姿勢が大事だということを念頭において記事を書いているということかもしれないです。
無闇矢鱈に人の話を鵜呑みにするのは、危険極まりないことです。
本当にこの自然災害は神様からの警告なのか・・・?
もしかしたら自然災害を巧みに利用して、人々を恐怖に煽り立てているだけかもしれません。
そうした情報の9割以上はガセネタだと思った方がいいかもしれません。
なぜなら、真実は社会に浸透していかないからです。
この社会は、真実をひた隠しに隠そうする社会だからです。
しかし、我々は常に真実の探求者でなければなりません。
自分の心に訊いて何も響かないのであれば、そこには真実が存在しない可能性があります。
真実は自分の外にではなく、自分の中にあります。
神様にも、色々な神様が存在します。
そもそも、僕には神様の定義がよく分かりません。
日本の神道では、人は死ねば例外なく全ての人の魂が神様となって崇められます。
アニミズム信仰では、生きとし生けるものだけではなく石でさえも神様になってしまいます。
正反対に一神教のカトリックでは、キリストのみが神様です。
神様は宇宙人だったという説もあります。
因みに僕は、この宇宙人説がもっとも納得がいくのですが・・・(体験上)
もちろん、深いところでアニミズムも・・・(所謂ワンネス)
カタリ派によれば、この世は悪神が創ったとされています。
だから天上界の霊に戻る為にはこの世のものに執着せず、精神の世界に生きるべきだとしています。
「ブラジルで1匹の蝶が羽ばたくとテキサスで竜巻が起こるか?(バタフライ効果)」と気象学者のエドワード・ローレンツは問いかけました。
この世は蜘蛛の巣の様に繋がっていて(次元を超えて)、たったひとりの何でもない様な思いや行動が、やがて宇宙の隅々にまで影響を与えていくということです。
「千里の道も一歩から」と老子は言いました。
マニ教に伝えられている「光と闇の戦い」は、今現在でも続けられています。
その戦いは、ずっとずっと歴史を辿って行くと、シュメールに繋がっていきます。
つまり、エンキとエンリルの戦い。
それがメーソンとカトリックに繋がります。
「光と闇の戦い」や「エンキとエンリルの戦い」は、言わば「精神と物質の戦い」だと言ってもいいかもしれません。。
前回の記事で、僕は「平和への祈りは必ず通じる」というタイトルを付けました。
人ひとりの「平和への祈り」は小さな一歩ですが、それはやがて大河の様に変わるのです。
この間久しぶりにTSUTAYAに行ったら懐かしいタルコフスキーの映画のDVDが棚に列んでいて、思わず「ノスタルジア」と「サクリファイス」の2本を借りてきました。
何年前だったか忘れましたが、確か新宿かどこかの映画館でタルコフスキー祭りみたいなのをやっていて、僕はその時に全作品を観てきました。
「ノスタルジア」と「サクリファイス」はその時に上映されなかったのだけれど、いつかは観たいと思っていました。
でも、ずっと観る機会に恵まれませんでした。
だから本当に、実に久しぶりに世にも不思議なタルコフスキーの世界に触れることができて感無量でした。
しかし、あまりにも難し過ぎてよく分からない。
観終わった後、ネットでタルコフスキーの映画を解説している記事などを探して読みました。
特に面白かったのが、作曲家の故武満徹氏のインタビュー記事です。
感性というか、霊性というか、食べ物とメディアによる洗脳もあるのだろうけれど、近頃は本当に人間の退化を著しく感じます。
もちろんこれは映画の技術のことを言っているのだけれど、それ以外のところでも感じます。
タルコフスキーの映画は、とても霊的です。
その為、現代人にはなかなか受け入れられないのかもしれません。
友人がタルコフスキーの「ストーカー」という映画を散々に酷評していたのを思い出しましたが(笑)、確かに僕もあの映画には理解不能な箇所がありました。
僕や友人だけでなく、おそらく多くの人が理解不能に陥ったと思うのですが、タルコフスキーはそんなことはまったく気にせずに自分の内なる真実を撮り続けた。
外にではなく、自分の中にあるものを表現し続けた。
それで成功しているのだから、彼は紛れもなく真の天才だった。
僕は幼い頃に、何度かタルコフスキーの映画のワンシーンだと思われる夢を見ました。
例えば建物の中に池があって、僕はその池の真ん中に立っているという夢。
その池は、まさに「ノスタルジア」や「ストーカー」などに出てくる、あの「象徴的な水」でした。
あの夢の中の水は自分自身の心に関係していると長い間思っていたのですが、タルコフスキーの映画を観た瞬間に、あぁ、あの夢はタルコフスキーの心の中を表していたんだと分かりました。
僕は時々、赤の他人の心の中を夢で見てしまうことがあるんです。
他にも、「ストーカー」に出てくる「水が滝の如く流れ落ちる乾燥室」や「鏡」の炎のシーンも夢で見ました。
まだタルコフスキーの名前も知らない幼い頃に・・・。
滝や炎の夢は、映画の中の静から動へ、あるいは暗から明へという変化そのもので、夢の中とはいえもの凄い衝撃があったので、今でも鮮明に覚えています。
「象徴的な水」の正体はいったい何なのだろうと不思議に思っていたのですが、きっとあれは何かもの凄く悲しいことがあって、その悲しみを癒す為の泉なのではないかと、今では直感的に思っています。
その悲しみは誰々のものということではなくて、人類に共通して存在しているもの、つまり潜在意識的な何かなのです。
タルコフスキーの映画は極めて個性的だと思われがちですが、実はその根底にはそうした潜在意識的なものが流れていて、それが未だに多くの人を魅了して止まない理由なのだと考えています。
故武満徹氏は「彼の映画が音楽的」と評していますが、本当にそう思います。
しかし、僕はもっとそれ以上のものを感じていて、音がとても霊的なのです。
その霊的な音は、幼かった頃のことを思い出してしまいます。
家の外から聞こえてくる「カーンカーン」という工事の音や飛行機の「ゴォー」という音に、僕には何だかその音自体に命がある様に感じていました。
言霊という言葉がありますが、音霊とでも言うんでしょうか?
地下鉄の駅のホームにいると、暗くて何も見えないトンネルの向こうから聞こえてくる「ガァー」という音。
何か怪獣の様な恐ろしいものを感じて震えていたのを思い出します。
タルコフスキーの映画で使われている音はどれも、まったく幼い頃に僕が不安げに聞いていた音そのものなのです。
3次元の世界に生きていながら、4次元の世界を感じている様な・・・。
遺作となったこの「サクリファイス」↑という映画は、1986年のチェルノブイリ原発事故の年に作られました。
この枯れてしまった生命の木は日本を表していて、この日本の木を再生させようとする子供の姿は実は「救世主」を表現しているそうです。
この枯れたしまった木は、東日本大震災で奇跡的に残った「奇跡の一本松」を彷彿とさせます。
国会は安保関連法案の審議の真っ最中。
国会前では、今日も安保法案に反対するデモ集会が開かれています。
タルコフスキーの言う様に日本から「救世主」が現れるのだとしたら、まさに今この瞬間なのかもしれません。
人の生きる目的はずばり、霊性の向上です。
宇宙は次元を超えて繋がっています。
恐れずに、ひたすら祈り続けましょう。
先週は大雨で鬼怒川の堤防が決壊し、多くの家屋が水に浸りました。
それから東京湾で最大震度5弱(M5.3)の地震があったり、阿蘇山で噴火が発生して警戒レベルが3に引き上がりました。
昨日はチリ中部沖でM8.3の地震が発生して、日本でも津波注意報が発令されました。
日本の国土の面積は、全世界のたった0.28%しかありません。
それにも関わらず、例えばスイスの再保険会社スイス・リーが2013年にまとめた「自然災害リスクの高い都市ランキング」では東京・横浜が世界1位となり、他にも大阪・神戸が5位、名古屋が6位と、トップ10に3つのランクインとなっています。
注目すべきは、9位のロサンゼルスを除けば全てアジアということです。
逆に、イギリスの様に全く自然災害がない国もあります。(因みにイギリスでは、たまに小さな地震がある程度)
1.東京・横浜(日本)2.マニラ(フィリピン)3.珠江デルタ(中国)5.大阪・神戸(日本)5.ジャカルタ(インドネシア)6.名古屋(日本)7.コルカタ(インド)8.上海(中国)9.ロサンゼルス(米国)
何も今にはじまったのではなく、古文書の中にも沢山の自然災害の記述が残されています。
むしろ、ここ数年は安定していたのだと語る学者もいます。
あの3・11以来、日本はどうやらまた活動期に入ったということらしいです。
先日の東京湾の地震も最大震度が5弱だったから良かったものの、もっと大きな地震になっていた可能性はある訳です。
その可能性は科学的にもずっと以前から示唆されてきた訳で、むしろ起こらない方が不思議なくらいなのです。
日本人は古代の頃から自然災害に遭ってきたので、DNAにもきっとそれが組み込まれていて、それが日本人の性質を作り出していると言ってもいいのかもしれません。
大和(やまと)という国は読んで字の如く「大いなる和」であって、皆で助け合い支え合いながら生きていくという意味が込められていると思うのです。
それがこの日本の風土で培われてきた日本人独特の気質だと思うのです。
でもこれは、今の日本人が忘れかけていることでもあります。
ひょっとしたらこれらの災害は、その「大いなる和」を思い出せという天からのメッセージなのかもしれません。
ところで僕は霊能者ではないので何とも言えないのですが、スピ系ブログを覗いてみると、案の定どのブログも今回の自然災害に霊的な意味合いを持たせています。
僕のブログもひょっとしたらスピ系に入ってくるのかもしれませんが、ただひとつ違うとすれば、それは「信じる」というのはとても危険なことで、常に「疑う」姿勢が大事だということを念頭において記事を書いているということかもしれないです。
無闇矢鱈に人の話を鵜呑みにするのは、危険極まりないことです。
本当にこの自然災害は神様からの警告なのか・・・?
もしかしたら自然災害を巧みに利用して、人々を恐怖に煽り立てているだけかもしれません。
そうした情報の9割以上はガセネタだと思った方がいいかもしれません。
なぜなら、真実は社会に浸透していかないからです。
この社会は、真実をひた隠しに隠そうする社会だからです。
しかし、我々は常に真実の探求者でなければなりません。
自分の心に訊いて何も響かないのであれば、そこには真実が存在しない可能性があります。
真実は自分の外にではなく、自分の中にあります。
神様にも、色々な神様が存在します。
そもそも、僕には神様の定義がよく分かりません。
日本の神道では、人は死ねば例外なく全ての人の魂が神様となって崇められます。
アニミズム信仰では、生きとし生けるものだけではなく石でさえも神様になってしまいます。
正反対に一神教のカトリックでは、キリストのみが神様です。
神様は宇宙人だったという説もあります。
因みに僕は、この宇宙人説がもっとも納得がいくのですが・・・(体験上)
もちろん、深いところでアニミズムも・・・(所謂ワンネス)
カタリ派によれば、この世は悪神が創ったとされています。
だから天上界の霊に戻る為にはこの世のものに執着せず、精神の世界に生きるべきだとしています。
「ブラジルで1匹の蝶が羽ばたくとテキサスで竜巻が起こるか?(バタフライ効果)」と気象学者のエドワード・ローレンツは問いかけました。
この世は蜘蛛の巣の様に繋がっていて(次元を超えて)、たったひとりの何でもない様な思いや行動が、やがて宇宙の隅々にまで影響を与えていくということです。
「千里の道も一歩から」と老子は言いました。
マニ教に伝えられている「光と闇の戦い」は、今現在でも続けられています。
その戦いは、ずっとずっと歴史を辿って行くと、シュメールに繋がっていきます。
つまり、エンキとエンリルの戦い。
それがメーソンとカトリックに繋がります。
「光と闇の戦い」や「エンキとエンリルの戦い」は、言わば「精神と物質の戦い」だと言ってもいいかもしれません。。
前回の記事で、僕は「平和への祈りは必ず通じる」というタイトルを付けました。
人ひとりの「平和への祈り」は小さな一歩ですが、それはやがて大河の様に変わるのです。
この間久しぶりにTSUTAYAに行ったら懐かしいタルコフスキーの映画のDVDが棚に列んでいて、思わず「ノスタルジア」と「サクリファイス」の2本を借りてきました。
何年前だったか忘れましたが、確か新宿かどこかの映画館でタルコフスキー祭りみたいなのをやっていて、僕はその時に全作品を観てきました。
「ノスタルジア」と「サクリファイス」はその時に上映されなかったのだけれど、いつかは観たいと思っていました。
でも、ずっと観る機会に恵まれませんでした。
だから本当に、実に久しぶりに世にも不思議なタルコフスキーの世界に触れることができて感無量でした。
しかし、あまりにも難し過ぎてよく分からない。
観終わった後、ネットでタルコフスキーの映画を解説している記事などを探して読みました。
特に面白かったのが、作曲家の故武満徹氏のインタビュー記事です。
僕が映画を好きなのは、映画は音楽だ、と思っているからなんです。タルコフスキーの映画には音楽が少ない。これは一貫してるんだけど、それは彼の映画が音楽的だからなのであって、ことさら音楽が入る意味がないんだろうと思うんです。限りなく音楽というものに近づこうとしている映画だ。
そのヴィジョンは他人に見せたいというものではなくて、何よりも自分が見たいんですよね。そこが彼の素晴らしい芸術家たるゆえんでしょうね。人に見せることが巧い映画監督は、いっぱいいますからね。
僕たちは、いまなんとなく他人の顔を気にして生きていく状況に置かれている。それがソビエトだとさらにそのスケールも大きいわけですね。日本では、まあ他人の顔を気にしているとは言っても、せいぜい上司や親の顔を気にしている程度のなまぬるさなんでしょうね。そのために、厳しく自分を凝視(みつめ)る監督は、日本ではごくわずかしかいない。
近ごろ人間の音に対する感性は、鈍ってきていて、とくに映画の場合、音が大きくなってきたということもあるんですけど、無神経になってきている。かならずしもドルビー・システムが悪いわけじゃないけどね。その無神経さと、タルコフスキーの感性は、対極にある。映画が音を手にしたときは、人間みな音に対してある驚きをもって、無垢な態度で、その音を聞き出そうとしたと思うんです。それがいつか機械の方が先に進んだために、人間が聞き出さなくてはいけない音を、機械に任せきりにしてしまった。人間の感性というフィルターを通さずにね。
退化していると言ってもいいでしょうね。技術は進歩して、昔だったら到底再生できないような音まで、フィルムで出せるようになっているけど、残念ながら、それと同時に人間の感性は鈍くなってきている。その中で、ブレッソンやタルコフスキー、『情事』を撮っていた頃のアントニオー二といった人たちは、素晴らしい感受性を持っていた。本当にタルコフスキーは最後までみずみずしい耳を持っていた。彼は音楽家になりたかったようですね。
(武満徹インタビュー/アンドレイ・タルコフスキー──芸術家の避けられない宿命より抜粋)
感性というか、霊性というか、食べ物とメディアによる洗脳もあるのだろうけれど、近頃は本当に人間の退化を著しく感じます。
もちろんこれは映画の技術のことを言っているのだけれど、それ以外のところでも感じます。
タルコフスキーの映画は、とても霊的です。
その為、現代人にはなかなか受け入れられないのかもしれません。
友人がタルコフスキーの「ストーカー」という映画を散々に酷評していたのを思い出しましたが(笑)、確かに僕もあの映画には理解不能な箇所がありました。
僕や友人だけでなく、おそらく多くの人が理解不能に陥ったと思うのですが、タルコフスキーはそんなことはまったく気にせずに自分の内なる真実を撮り続けた。
外にではなく、自分の中にあるものを表現し続けた。
それで成功しているのだから、彼は紛れもなく真の天才だった。
僕は幼い頃に、何度かタルコフスキーの映画のワンシーンだと思われる夢を見ました。
例えば建物の中に池があって、僕はその池の真ん中に立っているという夢。
その池は、まさに「ノスタルジア」や「ストーカー」などに出てくる、あの「象徴的な水」でした。
あの夢の中の水は自分自身の心に関係していると長い間思っていたのですが、タルコフスキーの映画を観た瞬間に、あぁ、あの夢はタルコフスキーの心の中を表していたんだと分かりました。
僕は時々、赤の他人の心の中を夢で見てしまうことがあるんです。
他にも、「ストーカー」に出てくる「水が滝の如く流れ落ちる乾燥室」や「鏡」の炎のシーンも夢で見ました。
まだタルコフスキーの名前も知らない幼い頃に・・・。
滝や炎の夢は、映画の中の静から動へ、あるいは暗から明へという変化そのもので、夢の中とはいえもの凄い衝撃があったので、今でも鮮明に覚えています。
「象徴的な水」の正体はいったい何なのだろうと不思議に思っていたのですが、きっとあれは何かもの凄く悲しいことがあって、その悲しみを癒す為の泉なのではないかと、今では直感的に思っています。
その悲しみは誰々のものということではなくて、人類に共通して存在しているもの、つまり潜在意識的な何かなのです。
タルコフスキーの映画は極めて個性的だと思われがちですが、実はその根底にはそうした潜在意識的なものが流れていて、それが未だに多くの人を魅了して止まない理由なのだと考えています。
故武満徹氏は「彼の映画が音楽的」と評していますが、本当にそう思います。
しかし、僕はもっとそれ以上のものを感じていて、音がとても霊的なのです。
その霊的な音は、幼かった頃のことを思い出してしまいます。
家の外から聞こえてくる「カーンカーン」という工事の音や飛行機の「ゴォー」という音に、僕には何だかその音自体に命がある様に感じていました。
言霊という言葉がありますが、音霊とでも言うんでしょうか?
地下鉄の駅のホームにいると、暗くて何も見えないトンネルの向こうから聞こえてくる「ガァー」という音。
何か怪獣の様な恐ろしいものを感じて震えていたのを思い出します。
タルコフスキーの映画で使われている音はどれも、まったく幼い頃に僕が不安げに聞いていた音そのものなのです。
3次元の世界に生きていながら、4次元の世界を感じている様な・・・。
遺作となったこの「サクリファイス」↑という映画は、1986年のチェルノブイリ原発事故の年に作られました。
この枯れてしまった生命の木は日本を表していて、この日本の木を再生させようとする子供の姿は実は「救世主」を表現しているそうです。
この枯れたしまった木は、東日本大震災で奇跡的に残った「奇跡の一本松」を彷彿とさせます。
国会は安保関連法案の審議の真っ最中。
国会前では、今日も安保法案に反対するデモ集会が開かれています。
タルコフスキーの言う様に日本から「救世主」が現れるのだとしたら、まさに今この瞬間なのかもしれません。
人の生きる目的はずばり、霊性の向上です。
宇宙は次元を超えて繋がっています。
恐れずに、ひたすら祈り続けましょう。
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