piabuの不思議blog

オカルトでも陰謀論でもなく、この世界に隠されている本当の真実を自分自身に起こった不可思議な体験を元に探求しています。人間はなぜ生きなければならないのか?異次元世界はどうなっているのか?知れば知るほどに、この世界が摩訶不思議なもので溢れていることに気づくのです。

2015年09月

ニュースは連日、自然災害の脅威を伝えています。
先週は大雨で鬼怒川の堤防が決壊し、多くの家屋が水に浸りました。
それから東京湾で最大震度5弱(M5.3)の地震があったり、阿蘇山で噴火が発生して警戒レベルが3に引き上がりました。
昨日はチリ中部沖でM8.3の地震が発生して、日本でも津波注意報が発令されました。

日本の国土の面積は、全世界のたった0.28%しかありません。
それにも関わらず、例えばスイスの再保険会社スイス・リーが2013年にまとめた「自然災害リスクの高い都市ランキング」では東京・横浜が世界1位となり、他にも大阪・神戸が5位、名古屋が6位と、トップ10に3つのランクインとなっています。
注目すべきは、9位のロサンゼルスを除けば全てアジアということです。
逆に、イギリスの様に全く自然災害がない国もあります。(因みにイギリスでは、たまに小さな地震がある程度)

1.東京・横浜(日本)
2.マニラ(フィリピン)
3.珠江デルタ(中国)
5.大阪・神戸(日本)
5.ジャカルタ(インドネシア)
6.名古屋(日本)
7.コルカタ(インド)
8.上海(中国)
9.ロサンゼルス(米国)
 
この日本という国は、古の頃よりこうした自然災害が多くありました。
何も今にはじまったのではなく、古文書の中にも沢山の自然災害の記述が残されています。
むしろ、ここ数年は安定していたのだと語る学者もいます。
あの3・11以来、日本はどうやらまた活動期に入ったということらしいです。
先日の東京湾の地震も最大震度が5弱だったから良かったものの、もっと大きな地震になっていた可能性はある訳です。
その可能性は科学的にもずっと以前から示唆されてきた訳で、むしろ起こらない方が不思議なくらいなのです。

日本人は古代の頃から自然災害に遭ってきたので、DNAにもきっとそれが組み込まれていて、それが日本人の性質を作り出していると言ってもいいのかもしれません。
大和(やまと)という国は読んで字の如く「大いなる和」であって、皆で助け合い支え合いながら生きていくという意味が込められていると思うのです。
それがこの日本の風土で培われてきた日本人独特の気質だと思うのです。
でもこれは、今の日本人が忘れかけていることでもあります。
ひょっとしたらこれらの災害は、その「大いなる和」を思い出せという天からのメッセージなのかもしれません。



ところで僕は霊能者ではないので何とも言えないのですが、スピ系ブログを覗いてみると、案の定どのブログも今回の自然災害に霊的な意味合いを持たせています。
僕のブログもひょっとしたらスピ系に入ってくるのかもしれませんが、ただひとつ違うとすれば、それは「信じる」というのはとても危険なことで、常に「疑う」姿勢が大事だということを念頭において記事を書いているということかもしれないです。
無闇矢鱈に人の話を鵜呑みにするのは、危険極まりないことです。
本当にこの自然災害は神様からの警告なのか・・・?
もしかしたら自然災害を巧みに利用して、人々を恐怖に煽り立てているだけかもしれません。
そうした情報の9割以上はガセネタだと思った方がいいかもしれません。
なぜなら、真実は社会に浸透していかないからです。
この社会は、真実をひた隠しに隠そうする社会だからです。
しかし、我々は常に真実の探求者でなければなりません。
自分の心に訊いて何も響かないのであれば、そこには真実が存在しない可能性があります。
真実は自分の外にではなく、自分の中にあります。

神様にも、色々な神様が存在します。
そもそも、僕には神様の定義がよく分かりません。
日本の神道では、人は死ねば例外なく全ての人の魂が神様となって崇められます。
アニミズム信仰では、生きとし生けるものだけではなく石でさえも神様になってしまいます。
正反対に一神教のカトリックでは、キリストのみが神様です。
神様は宇宙人だったという説もあります。
因みに僕は、この宇宙人説がもっとも納得がいくのですが・・・(体験上)
もちろん、深いところでアニミズムも・・・(所謂ワンネス)


カタリ派によれば、この世は悪神が創ったとされています。
だから天上界の霊に戻る為にはこの世のものに執着せず、精神の世界に生きるべきだとしています。
「ブラジルで1匹の蝶が羽ばたくとテキサスで竜巻が起こるか?(バタフライ効果)」と気象学者のエドワード・ローレンツは問いかけました。
この世は蜘蛛の巣の様に繋がっていて(次元を超えて)、たったひとりの何でもない様な思いや行動が、やがて宇宙の隅々にまで影響を与えていくということです。
「千里の道も一歩から」と老子は言いました。
マニ教に伝えられている「光と闇の戦い」は、今現在でも続けられています。
その戦いは、ずっとずっと歴史を辿って行くと、シュメールに繋がっていきます。
つまり、エンキとエンリルの戦い。
それがメーソンとカトリックに繋がります。
「光と闇の戦い」や「エンキとエンリルの戦い」は、言わば「精神と物質の戦い」だと言ってもいいかもしれません。。
前回の記事で、僕は「平和への祈りは必ず通じる」というタイトルを付けました。
人ひとりの「平和への祈り」は小さな一歩ですが、それはやがて大河の様に変わるのです。



この間久しぶりにTSUTAYAに行ったら懐かしいタルコフスキーの映画のDVDが棚に列んでいて、思わず「ノスタルジア」と「サクリファイス」の2本を借りてきました。
何年前だったか忘れましたが、確か新宿かどこかの映画館でタルコフスキー祭りみたいなのをやっていて、僕はその時に全作品を観てきました。
「ノスタルジア」と「サクリファイス」はその時に上映されなかったのだけれど、いつかは観たいと思っていました。
でも、ずっと観る機会に恵まれませんでした。
だから本当に、実に久しぶりに世にも不思議なタルコフスキーの世界に触れることができて感無量でした。

しかし、あまりにも難し過ぎてよく分からない。
観終わった後、ネットでタルコフスキーの映画を解説している記事などを探して読みました。
特に面白かったのが、作曲家の故武満徹氏のインタビュー記事です。

僕が映画を好きなのは、映画は音楽だ、と思っているからなんです。タルコフスキーの映画には音楽が少ない。これは一貫してるんだけど、それは彼の映画が音楽的だからなのであって、ことさら音楽が入る意味がないんだろうと思うんです。限りなく音楽というものに近づこうとしている映画だ。


そのヴィジョンは他人に見せたいというものではなくて、何よりも自分が見たいんですよね。そこが彼の素晴らしい芸術家たるゆえんでしょうね。人に見せることが巧い映画監督は、いっぱいいますからね。


僕たちは、いまなんとなく他人の顔を気にして生きていく状況に置かれている。それがソビエトだとさらにそのスケールも大きいわけですね。日本では、まあ他人の顔を気にしているとは言っても、せいぜい上司や親の顔を気にしている程度のなまぬるさなんでしょうね。そのために、厳しく自分を凝視(みつめ)る監督は、日本ではごくわずかしかいない。


近ごろ人間の音に対する感性は、鈍ってきていて、とくに映画の場合、音が大きくなってきたということもあるんですけど、無神経になってきている。かならずしもドルビー・システムが悪いわけじゃないけどね。その無神経さと、タルコフスキーの感性は、対極にある。映画が音を手にしたときは、人間みな音に対してある驚きをもって、無垢な態度で、その音を聞き出そうとしたと思うんです。それがいつか機械の方が先に進んだために、人間が聞き出さなくてはいけない音を、機械に任せきりにしてしまった。人間の感性というフィルターを通さずにね。


退化していると言ってもいいでしょうね。技術は進歩して、昔だったら到底再生できないような音まで、フィルムで出せるようになっているけど、残念ながら、それと同時に人間の感性は鈍くなってきている。その中で、ブレッソンやタルコフスキー、『情事』を撮っていた頃のアントニオー二といった人たちは、素晴らしい感受性を持っていた。本当にタルコフスキーは最後までみずみずしい耳を持っていた。彼は音楽家になりたかったようですね。


武満徹インタビュー/アンドレイ・タルコフスキー──芸術家の避けられない宿命より抜粋)

感性というか、霊性というか、食べ物とメディアによる洗脳もあるのだろうけれど、近頃は本当に人間の退化を著しく感じます。
もちろんこれは映画の技術のことを言っているのだけれど、それ以外のところでも感じます。
タルコフスキーの映画は、とても霊的です。
その為、現代人にはなかなか受け入れられないのかもしれません。
友人がタルコフスキーの「ストーカー」という映画を散々に酷評していたのを思い出しましたが(笑)、確かに僕もあの映画には理解不能な箇所がありました。
僕や友人だけでなく、おそらく多くの人が理解不能に陥ったと思うのですが、タルコフスキーはそんなことはまったく気にせずに自分の内なる真実を撮り続けた。
外にではなく、自分の中にあるものを表現し続けた。
それで成功しているのだから、彼は紛れもなく真の天才だった。

僕は幼い頃に、何度かタルコフスキーの映画のワンシーンだと思われる夢を見ました。
例えば建物の中に池があって、僕はその池の真ん中に立っているという夢。
その池は、まさに「ノスタルジア」や「ストーカー」などに出てくる、あの「象徴的な水」でした。
あの夢の中の水は自分自身の心に関係していると長い間思っていたのですが、タルコフスキーの映画を観た瞬間に、あぁ、あの夢はタルコフスキーの心の中を表していたんだと分かりました。
僕は時々、赤の他人の心の中を夢で見てしまうことがあるんです。
他にも、「ストーカー」に出てくる「水が滝の如く流れ落ちる乾燥室」や「鏡」の炎のシーンも夢で見ました。
まだタルコフスキーの名前も知らない幼い頃に・・・。
滝や炎の夢は、映画の中の静から動へ、あるいは暗から明へという変化そのもので、夢の中とはいえもの凄い衝撃があったので、今でも鮮明に覚えています。
「象徴的な水」の正体はいったい何なのだろうと不思議に思っていたのですが、きっとあれは何かもの凄く悲しいことがあって、その悲しみを癒す為の泉なのではないかと、今では直感的に思っています。
その悲しみは誰々のものということではなくて、人類に共通して存在しているもの、つまり潜在意識的な何かなのです。
タルコフスキーの映画は極めて個性的だと思われがちですが、実はその根底にはそうした潜在意識的なものが流れていて、それが未だに多くの人を魅了して止まない理由なのだと考えています。

故武満徹氏は「彼の映画が音楽的」と評していますが、本当にそう思います。
しかし、僕はもっとそれ以上のものを感じていて、音がとても霊的なのです。
その霊的な音は、幼かった頃のことを思い出してしまいます。
家の外から聞こえてくる「カーンカーン」という工事の音や飛行機の「ゴォー」という音に、僕には何だかその音自体に命がある様に感じていました。
言霊という言葉がありますが、音霊とでも言うんでしょうか?
地下鉄の駅のホームにいると、暗くて何も見えないトンネルの向こうから聞こえてくる「ガァー」という音。
何か怪獣の様な恐ろしいものを感じて震えていたのを思い出します。
タルコフスキーの映画で使われている音はどれも、まったく幼い頃に僕が不安げに聞いていた音そのものなのです。
3次元の世界に生きていながら、4次元の世界を感じている様な・・・。







遺作となったこの「サクリファイス」↑という映画は、1986年のチェルノブイリ原発事故の年に作られました。
この枯れてしまった生命の木は日本を表していて、この日本の木を再生させようとする子供の姿は実は「救世主」を表現しているそうです。
この枯れたしまった木は、東日本大震災で奇跡的に残った「奇跡の一本松」を彷彿とさせます。

国会は安保関連法案の審議の真っ最中。
国会前では、今日も安保法案に反対するデモ集会が開かれています。
タルコフスキーの言う様に日本から「救世主」が現れるのだとしたら、まさに今この瞬間なのかもしれません。

人の生きる目的はずばり、霊性の向上です。
宇宙は次元を超えて繋がっています。
恐れずに、ひたすら祈り続けましょう。


ランキングに参加しています。 
↓クリックのご協力をお願い致します。↓


 

このブログの前回の更新とその前の更新が約1ヶ月半も空いてしまったのですが、その間に携帯の方にもの凄い量の迷惑メールが来ました。
昼間だけでなく真夜中でも届くので、結構困りました。
一度に2〜3通来ることもありました。
中身は全部英語で読めません。
しかもかなり文章が長い。
「これってひょっとして、ワケのわからないことばっかりブログに書いているからそれに対する嫌がらせ?」なんて思ったりもして・・・。
(別に僕はワケのわからないことなどこれっぽっちも書いているつもりもなく、いつだって超まじめなのだけれど・・・もちろん非科学的なブログなので、一般社会人的にみればワケがわからないかもしれませんが・・・)

でも以前にも、ずっと更新していなかった時に似た様なことがあったので、ひょっとしたら更新をしたら治まるかもしれないとも思って、それを期待しました。
そうしたら、本当に前回の更新の後あたりからピタリと来なくなりました。
本当にキレイにピタッと。

ということは、誰かがブログの更新を促していたと・・・。
あるいは、僕の作曲と何か関係が・・・。
・・・なんて思っていたら、たった今また迷惑メールが2通立て続けに来ました。
「ひょっとしたら、僕は誰かに監視されているのかもしれない。メールが来るタイミングがスゴ過ぎる。コレ、送り主が地上の人間とは限らないかもしれない。」
などなどと思ってしまったのですが、考え過ぎだと怒る方ももちろんいるでしょうが、僕の直感はよく当たります。

何があっても、どんなことがあっても、腹を立てないこと。
でも無理に感情を押さえつけるのはもっと良くないので、腹の立つことは全部その時に吐き出してしまい、いつまでもその感情を抱え込まないこと。
悲しい感情もそうで、そういった負の感情をいつまでも抱え込んでいると低い周波数に慣れてしまい、その周波数がさらに追い打ちをかける様にさらなる負のスパイラルへと入っていってしまう。
だからいかに負の感情が沸き起こった時の対処の仕方が大事かということなのですが、今は僕はその訓練の時期なのかもしれません。
迷惑メールには、そんなメッセージが隠されている様な気がするのです。
なんて書いている内に、また迷惑メールが立て続けに2通・・・。
コレ、ただのサギメール・・・?
(イヤやっぱり、例えば朝に目が覚めた後に「おはよう」とでも言っているかの様に実にタイミングよく来るので、どうみてもパラレルワールドから来たメールとしか思えないのだけれど・・・。)

(追伸:実験的にわざとアドレスを変えなかったのだけれど、ちょっと限界を感じてきたのでアドレスを変えました。当然といえば当然なのだけれど、迷惑メールは完全になくなりました。今まで子供の癇癪みたいに煩かったケータイが今では死んだ様に静か。もしパラレルワールドからのメールだったら、アドレスを変えたとしても来ているだろうに・・・。しかし、あたかもタイミングを計ったかの様に、目が覚めて10秒も経たない内にメールが来るというのは、やっぱり今考えてみても不思議・・・。)



さて、ブログお休み期間中、世間では色々なことがありました。
川内原発1号機の再稼働、そしてよりにもよって、そこからわずか52キロしか離れていない桜島の警戒レベル4への引き上げ。(昨日3に引き下がりましたが)
鳩山元首相の土下座に、東京オリンピックのエンブレムの使用中止。
相次ぐ爆発事故に、JR東日本での不審火。
それから衆議院で安保法案の可決、そして全国で一斉に反対デモ。
小沢一郎氏や坂本龍一氏もデモに参加していたみたいです。

安保法案は僕も反対ですが、ただ幾つか気になることがあります。
安保法が必要だと考えておられる方々はおそらく以下のことを心配しているのだと思うのですが、ちょっとだけ簡単に書きますと、今のこの日本の平和はアメリカの核の傘の下にあります。
しかしそのアメリカは年々弱まってきています。
核軍縮と叫びながらオバマは軍事費を増やしている訳ですが、しかしそれとは逆行する様に経済や外交では大変な凋落ぶりを見せています。
アメリカは世界の警察という役割を持っていた訳ですが、もはや国内がこの様な状態なのでそれどころではなく、今は完全に警察という役割を捨ててしまっています。
ロシアのウクライナ侵攻、マレーシア航空機の墜落事故、シリア内戦、IS問題、中国の南シナ海の軍事基地化などでも、アメリカはなんら有効な手を打つことはありませんでした。

日本を守る「核の傘」が完全になくなってしまったら、日本は当然自分で守るしかなくなってくる訳です。
例えば原発が必要なのは電気が不足するからとか何とかと言っているのは口実で、本当の目的はその時に原発から核兵器を作れる様にしておくことにあるのです。
その分野での日本の技術は、実は世界一なのだそうです。
つまり恐ろしいのが、その時に原発は抑止力になるという政治家や官僚の思い込みなのです。
だから、この狭い日本の国土に54基(アメリカ、フランスに続く世界の第3位)も作ってしまった。
この人たちは広島や長崎のことなど、もはやどうでもいいらしい。
少なくとも、電力不足を補うのにこれ程の原発が必要だというのがまったくの嘘だというのは、猛烈に暑かった今年の夏に一度も電力不足にならなかったことが証明しています。

今や、日本にとって気になるのが中国やロシアの台頭です。
世界の嫌われ者、習近平やプーチンは日本贔屓な所があるから今の所は安心だと僕は思っているのですが、中国はバブルが崩壊した後に何を仕出かすか分からないし、プーチンの後にまたメドヴェージェフが就任でもしたら、今度は北方領土だけでは済まなくて北海道辺りまで攻め込んで来るかもしれません。
北朝鮮と韓国もなにやら緊迫した状況が続いているし、日本の近隣諸国がとてもとても危険な状態にあるのは間違いありません。
だから強力な抑止力が必要だと考えるのは至って普通なことですし、とてもよく分かります。
戦争反対は綺麗事だというのもその通りだと思います。

しかしそれでも、僕は戦争反対です。
核というのは一度に何万人もの人間を殺すことのできる、最大の悪の権化ともいうべきものです。
その悪の権化に守られている平和が、本当に真の平和だといえるのでしょうか?

その辺の所を上手くバランスを取りながら政治家は国を動かしていかなければならないのだけれど、今のその場しのぎの政治家たちにいったい何ができるというのでしょうか?
我々は、もっと上の平和を目指すべきなのです。



鳩山元首相の土下座に対するもの凄いバッシングも気になります。
正直、彼はあまりにも純粋過ぎるのかもしれません。
僕の目から見ると彼は決して間違ったことはしていないのだけれど、今の日本の社会の現状を見れば、彼の行動が非難の的となるのは当然です。

彼を非難しているのは、日本の利益を第一に考える人たちです。
つまりナショナリズムな人たちです。
彼はフリーメイソンとして当然のことをしたまでです。
彼は「友愛」を掲げ、ナショナリズムを否定します。
世界市民である彼にとっては、日本のナショナリズムも韓国のナショナリズムも同等なのです。
彼にとって国家の威信とはヤクザの面子の様なもので、その様なものがあってはいつまで経っても本当の平和は訪れない。
だから、この危機的な状況に世界を救いたい一心でこの様な行動を取ってしまう。
特に明確なビジョンがある訳でもなく・・・自身が首相だった頃にやりたいことが何一つできなかった様に・・・。

しかし僕が問題だと感じるのは、むしろナショナリズムな人たちなのです。
なぜ違う民族というだけで、こんなにも歪み合うのでしょうか?
これではナチスドイツや戦前の日本と同じではないでしょうか。
一時期流行語にもなった養老孟司氏の「バカの壁」を思い起こします。
バカの壁
 我々人間は、自分の脳に入ることしか理解できない。学問が最終的に突き当たる壁は自分の脳である。著者は、この状態を指して「バカの壁」と表現する。知りたくないことは自主的に情報を遮断し、耳を貸さないというのも「バカの壁」の一種。その延長線上には民族間の戦争やテロがあるという。

 現代人はいつの間にか、自分の周りに様々な「壁」を作ってしまった。例えば、情報は日々刻々変化し続け、それを受け止める人間は変化しないという思い込みや、個性や独創性を礼賛する風潮などはその典型例で、実態とは「あべこべ」だという。

 「バカの壁」は思考停止を招く。安易に「わかる」「絶対の真実がある」と思い込んでは、強固な「壁」の中に住むことになると戒めている。
(メディア掲載レビューほか )
この「バカの壁」は完全な唯物論者にも通じる所があります。
この世界のあらゆる事象はすべて科学的に解明できると信じ込んでいて、非科学的なことを言う人を鼻で笑っているのです。
高学歴で博識な人程そうです。
しかし実際には、この人たちの思考回路の方がずっと危険なのです。
そしてこの世界は、この人たちが考えているよりももっとずっとずっと・・・想像を絶する程深いのです。

ナポレオン・ヒルは「思考は現実化する」と解きました。
多くの人の祈りによって、未来は変えられます。
いや、祈りによって未来は変えられてきたと言うべきかもしれません。
ひょっとしたら、東京は大地震で火の海と化していたかもしれません。
ひょっとしたら、人類は核戦争によって滅んでいたかもしれません。
しかしそうならなかったのは、人の祈りがあったからなのかもしれません。
そしてこれからも、そんなことは起こらないのでしょう。
色々と不安を掻き立てる様な情報が錯綜していますが、99%そんなことが起こる可能性はないと言えます。
祈りのその先には、真の平和があるから・・・。
唯物論者には、まったく理解できないことでしょうが・・・。
(もっとも99%の人が唯物論者なので、1%の瞑想者の祈りが大変重要だということ。)


ちょっとだけ簡単に書くつもりが、ついついこんなにも長くなってしまいました。
政治のことを書くと必ず誰かの批判に繋がってしまうので、人をジャッジしないと決めている僕としてはとても不本意な記事となってしまいました。
次回はもうちょっと不可思議な記事にしたいと思っています。


ランキングに参加しています。 
↓クリックのご協力をお願い致します。↓

 

↑このページのトップヘ