piabuの不思議blog

オカルトでも陰謀論でもなく、この世界に隠されている本当の真実を自分自身に起こった不可思議な体験を元に探求しています。人間はなぜ生きなければならないのか?異次元世界はどうなっているのか?知れば知るほどに、この世界が摩訶不思議なもので溢れていることに気づくのです。

2016年08月

日本のメダルラッシュに湧いた今回のオリンピックでしたが、約2週間半におよぶ熱戦もとうとう閉幕しました。
麻薬と暴力が渦巻くにスラム街で生まれ育ったという柔道のラファエラ・シルバ選手の金メダルや難民五輪チームの活躍など、オリンピックの意義を感じることができました。
それから、吉田沙保里選手は負ける悔しさを味わうことができたのだから、負けて寧ろ良かったのではないかと思っています。
人は負けることによって人の痛みを知り、優しくなれます。
そして、勝ち続けることの苦しみからも解放されました。

メダルメダルとあまり言い続けるのは、それこそナショナリズムの思う壷です。
IOCトーマス・バッハ会長の開会式でのスピーチを、もう一度思い出してみます。
「五輪の世界では、皆、平等。人類共通の価値は、私たちを分断しようとする力よりも強いのです。」
五輪の意義は、ここになくてはならない筈。
しかし目に見えてくるものは、やっぱりメダルを取った者とそうではない者との大きな差。


そういえば、誰の言葉だったか・・・「群衆についていってはいけない」という言葉を最近よく思い出します。
それでも、まあオリンピックぐらいはイイやと思ったのが運の尽きだったかもしれない。
応援疲れと、それとこの夏の熱さに完全にやられしまっているので、もとの自分に戻るには時間がかかりそう・・・(このブログの更新が滞っていたのもその所為です。m(_ _)m)
アウトドア派なので旅に出れば乗ってゆけるのだろうけれど、それも事情により許されず、近くの公園をサイクリングしたりはしていますが、100%の大自然の景色に出逢いたいという欲求は日々増すばかり。
一泊でもいいから、どこかへ行ってきたい。。。

もう限界に近づいてきているのかもしれない。
群衆から離れて、ひとりになって、誰もが自分を見つめ直す必要があるのかもしれません。
SMAPの「世界に一つだけの花」の歌詞が思い浮かびます。
SMAPは解散することが決まってしまいましたが、良い曲を世に残しました。
(因みに木村拓哉くん一人だけ悪者扱いされていますが、彼は大変良い人ですよ。)
これからこの世の中はヒエラルキーというものがなくなって、個々が自立する時代に入って行くのだと思われます。
重要なのが独自性です。

今までは、それは社会の敵でした。
人間はあたかも工場で作られる製品のように教育され、もし独自性を持っていれば不良品とされて社会から爪弾きにされてきました。
なぜそのように教育されてきたかといえば、そうすれば権力者がコントロールしやすくなるからです。
今はその洗脳が解けて、気づきの時代に入ってきているような気がします。
頭の良い人、感覚の鋭い人は、もう既に次の時代の生き方をしています。
外からの影響を極力抑えて、自分の世界に没頭し、自然を愛し、太陽に感謝をして生きています。

益々、世界は二極化しています。
コインの表と裏のように。
オリンピックが終わったと同時に、凶悪な事件が立て続けに起きたりしています。
瞑想して、ガヤトリーマントラを毎日唱えて、新時代への架け橋となる人が多く必要です。
闇の権力者は必死であの手この手を使って、人が橋の向こう側へ行くのを阻止しようとしています。
食品添加物やワクチンなどで身体を汚したり、テレビなどで人をネガティブにさせる波動(デビルス・トーン、悪魔の音、440Hz)を多く浴びせたり、ケム・トレイルのように空から毒を撒いたり・・・。
そんな馬鹿なと思う人は、もう既に闇の権力者のロボットかもしれません。
もし竹下雅敏さんの言う通り、99%の人が第3チャクラ(マニプーラ)以下のチャクラしか開いていないのであれば、殆どの人がまだ覚醒できていないということになります。
(因みに僕は作曲する時、キーボードを444Hzにしたり純正律にしたりと試行錯誤してやっています。)

僕は座禅を組んで瞑想する時、まず第1チャクラ(ムーラーダーラ)と赤い色をイメージして、第2(スワーディシュターナー、橙)、第3(マニプーラ、黄)、第4(アナーハタ、緑)、第5(ヴィシュダ、青)、第6(アージェナー、紫)、第7(サハスラーラ、金)という風に順番にチャクラを意識していきます。
そして、もう一度ムーラーダーラの赤から始めてアージェナーの紫に達する頃には、額(第三の目)の辺りが痛くなってきます。(エネルギーを強く感じた時は1回だけにしています。)
さらにサハスラーラの神界の黄金の光を感じてきたら、心を込めて竹下雅敏さん方式にガヤトリーマントラを唱えます。
唱え終わったら、自分の周りの空気が極めて新鮮なものになっているのを感じながら、もうしばらく瞑想を続けて、最後にクリエーターへの感謝と世界の平和を祈って終わります。
(この瞑想は教わったのではなく、僕独自の方法です。マントラ意外ということですが。)

僕は1日1回、寝る前にしかやっていなかったのだけれど、これからは朝と夜の2回やろうと思います。
時代がそれだけ混沌としてきているような気がするからです。
イタリアの地震、それから台風10号が気になります。
台風10号が来ないように、皆で祈りましょう。



この瞑想を始めてから、感性がとても研ぎすまされてきたように思います。
今日も水元公園までサイクリングしてきましたが、晴れた日もいいですが、今日のような小雨が降り続くような日はなお一層緑が美しく感じられました。
僕が子供の頃、山登りをしていると森の中に少しだけ木が生えていない場所があって、そこの部分の下には雑草が生えていたのですが、その雑草の緑の美しさを忘れることができません。
あの時の感性は、大人になるにしたがって無くなっていくものだと思っていたのですが、瞑想を始めてからというもの、なんだか子供の頃以上に感性が鋭くなったような気がします。
今日、あの時見た雑草を感じることができました。
太陽が出ていないのに、雑草が光り輝いていました。
雑草は雨に濡れて、生き生きとしていました。
僕は今天国にいる、そう思いました。
今この瞬間を、もっともっと感じたい。
そういう新たな欲求が生まれました。

毎日水元公園に来ていると、季節の微かな変わり目を感じます。
行く道を、落ち葉が僅かに黄色く染めていました。
雨粒が池の水面に落ちる度に、水輪の花を一瞬だけ咲かせます。
傘もカッパも着ないで家を飛び出してきたのだけれど、ハンドルを握る手に雨粒が落ちる瞬間、僕という人間と手に落ちてくる雨粒を強く意識したりします。
そうやって五感をすべて研ぎすまし、第六感も使って今この瞬間を強く意識します。

そんなことをやっていたら、何やら一カ所に人が集まってきていたのでびっくりしました。
雨だから人が少なかったのだけれど、この人だかりは何?と思ってキョロキョロしていると、みんな下を向いてスマホを操作している。
もう社会現象と化しているポケモンGO。
公園に暮らしているカラスたちも、きっと何事かとびっくりしているかもしれない。
僕はスマホを持っていないのでポケモンGOはやったことがないのだけれど、確かポケモン(妖精?)を捕まえて育てて強くしていくゲーム。
ポケモンなんか捕まえなくても、この世は妖精のような目に見えない不思議なもので溢れているのに・・・。
なんだか大多数の人たちは、僕が願っているのとは正反対の方向へ動いているように思えて仕方がありません。
これも闇の権力者の仕業?
「群衆についていってはいけない」・・・そういえば、この言葉を言っていた人が誰だったか思い出しました。
宇宙人に拉致されたというミシェル・デマルケ氏でした。
やっと思い出しました。


最近は、写真を撮らずに心に留めておくことにしているのですが、先日の台風9号の後の台風一過はとても気持ちがよくて、景色もすばらしかったので思わず携帯で撮りました。
葛飾橋から撮った江戸川の写真。↓
スカイツリーも見えます。
mizumoto03
これは↓同じ日の水元公園の雑草の緑が、あまりに美しくて撮ったもの。
mizumoto02

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優も劣も上も下もない、完全に調和した世界を普段は瞑想しているのだから、当然オリンピックに興味など持ってはいけないのかもしれないけれど、サッカーだけはいいや、ついでに柔道だけはいいやなんて思っているうちに、しっかりと寝不足になっている今日この頃。
始まる前はメイレレス氏が演出する開会式だけ興味を持っていて、日本がいくつメダルを取れるのかなんてどうでもよかったのだけれど、始まってからの日本のメダルラッシュにはしっかりと涙。

オリンピックなんて分離社会の象徴みたいに思っていた時期もあったのですが、開会式の選手の入場行進を見ていたら、メダルを取ったことのない国が沢山あって、オリンピックに出場できること自体に喜びを感じている人も沢山いて、国の代表として出場して祖国に元気や勇気を届けることの意義の高さを選手の中に感じとっていました。

しかし逆に、メダルを取ると国から一生暮らしていけるほどのお金を貰える国もあって、日本もCM出演などで莫大な出演料を貰っていたりして、やはりそこには大きな差異が生じてきます。
ロシアなど国ぐるみでドーピングをする国もあれば、韓国のように日本にだけはなぜか死にものぐるいで挑んでくる国もあって、時に政治的であったり時に民族的であったり、五輪は公平・平和を謳ってはいますが、その意とは逆の影の部分も濃くなっていきます。

最近は、国際オリンピック委員会(IOC)内での汚職も明るみになっています。(東京も汚職を働いているとの報道もあります。)
それから、ブラジルは貧富の差が大きく、犯罪が絶えることはなく、現在の国の状態を考えれば実はオリンピックどころでないといえます。
現実は、オリンピックで掲げている理想とは大きく掛け離れているということです。

なぜ僕らが生きているのか?
唯物論者は物事を合理的に考え、幸せの源はお金であり、社会的地位や名誉でもあると考えます。
しかし僕の考えでは、そもそも幸せという概念は幻想に過ぎません。
人間は農耕文化を取り入れた時から、幸せという亡霊に取り憑かれてしまったのかもしれません。
戦いに勝利したから幸せ、メダルを取ったから幸せ、お金を得たから幸せという風に。
縄文時代には、そもそも誰かが誰かより優れているといった概念はありませんでした。
この世界に存在するものはすべて、精霊、霊魂、神様が宿るというアニミズムの思想があって、そしておそらく誰もがシャーマンであり、目に見えないものと交信していたに違いありません。
力で人が人を支配する時代に入ってから、人間はその能力を失っていきました。
しかし逆にその能力を失ったことで、本当に大切なことを教えられたともいえます。
悪の存在が、人々の魂を成長させました。

僕らが生きている意味が魂の成長だと考えれば、成功はむしろ失敗で、大金はむしろ人を不幸にするということが分かってきます。
至福というのは、大自然の中にあります。
人間もその大自然の一部です。
実は、人間の身体(肉体)は神殿なのです。
至福とは、この神殿(肉体)の内側に存在するものです。
今現在、そのことを思い出す時期に来ているのかもしれません。

この神殿(肉体)をスポーツなどで鍛えることは大切です。
見えない所で厳しい練習をして、それでも試合に負けて自分の未熟さを知り、次こそは勝とうとさらに自分を磨いて、そうやって切磋琢磨して精神的にも肉体的にも成長していく。
どれほど魂の成長が望めるかしれない。
しかし、その目的が地位や名誉やお金だったら、つまり利己主義的であったら、成功しても失敗ということになるのかもしれません。
逆に、オリンピックでの活躍が人に勇気と感動を与えられるのなら、それは素晴らしいことだと思います。
そして、それが多くの人の助けに繋がるのなら、きっと精霊も霊魂も神様も祝福してくれるでしょう。
リオ五輪、IOCトーマス・バッハ会長のスピーチ(抜粋)

この五輪の世界では、すべての人に普遍的な法則があります。五輪の世界では、皆、平等。人類共通の価値は、私たちを分断しようとする力よりも強いのです。そこで五輪選手の皆様に呼びかけます。自分自身を大切にして下さい。回りの人を大切にして下さい。私たちの住む世界では利己主義が幅を利かせ、一部の人々が他者より優れていると主張します。しかし五輪が示す答えは、連帯の精神に基づき、難民五輪チームを歓迎します。難民選手の方々、世界中の何百万人の難民に希望を与えます。他者とは違うという理由で故郷を離れざるをえなかったものの、素晴らしい才能と精神で社会に貢献しています。五輪の世界において、私たちは多様性を受け入れるだけでなく、私たちは皆様の多様性を結束してくれる存在として受け入れます。 
キプチョゲ・ケイノ氏のスピーチ

この五輪名誉賞を初めてもらい、光栄に思います。私とともに、すべての若者達が人権を得ることができるように、食料、住む場所、教育が得られるように、私と一緒に取り組んでください。
教育は若者の力を支えるだけでなく、より良い市民になり、前向きな変革を起こし、より良い人間になり、より良い世界を作ります。私は何も持たずにこの世に生まれ、何も持たずにいなくなります。神様は偉大です。教育によって、教育を通して、未来の人類を教育で育てていくのです。本当にありがとうございました。

本当に教育は大事ですが、今の日本の教育は間違った方向へと進んでいます。
間違った知識を植え付けられ、間違ったものの価値観を持ち、間違った人生を多くの人が歩んでいます。
なにも縄文時代に還った方がいいとは言いませんが、今こそ、本当は何が正しいのかを問い正すべき時代に入っているのではないかと思うのです。

昨日、ビデオメッセージにて天皇陛下が「お気持ち」を表明されました。
現行憲法では「生前退位」が認められておらず、憲法改正が公然と主張されているようになってきました。 

神社の本宗が伊勢神宮であり、神主のトップが天皇陛下なのですから、天皇は象徴ではあるけれど、実は新嘗祭や神嘗祭などとても大切なお役目がある。
それは米に敬意を示す祀りであって、稲作文化(農耕文化)の象徴といえます。
天照大御神が高天原で穫れた稲を「日本人が食べて生きていくべきもの」として降臨する際にニニギノミコトに持たせて以来、日本人は稲作を生業とし、米を主食としてきました。
(現在の日本人は主食である米をあまり食べなくなり、食生活が欧米化して肉類を多く食べるようになりました。そして唯物論者が多くなり、そうした目に見えないものの役割を軽視する風潮が、皇室の危機へと繋がっているのかもしれません。)

稲作は、人々が集団で生活していかなければ成り立っていきません。
分業制度が発達して、生産性があがり、やがて権力者が生まれます。
人々は集団社会で生きていかなければならず、そこから離脱すれば困難な生活を強いられることになります。
そして縦社会の組織が生まれ、貧富の格差が生じました。
この時、善悪の概念も生まれたのだと思います。
悪を知ることによって、善を知り得ることができたということかもしれません。
狩猟(縄文)文化の時と比べると、農耕(弥生)文化を経て現代に生きる我々の魂は、遥かに成長しているといえます。
(縄文と弥生の関係は、宮崎駿監督の「もののけ姫」によく顕われています。)

この分離社会での修行は、もう終わりに近づいています。
天皇陛下の「お気持ち」表明は、なにかそれを象徴しているようにも感じます。
そして皇太子が天皇になられた時、とてもとても重要なお役目が控えていて、そのお役目こそが新時代の到来の号砲となるのです。


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