piabuの不思議blog

オカルトでも陰謀論でもなく、この世界に隠されている本当の真実を自分自身に起こった不可思議な体験を元に探求しています。人間はなぜ生きなければならないのか?異次元世界はどうなっているのか?知れば知るほどに、この世界が摩訶不思議なもので溢れていることに気づくのです。

2017年08月

2017082514
今日は、僕個人のことについて書きます。(いつもそうかもしれませんが・・・m(_ _)m)
あさひさんという方から、不思議なコメントを頂きました。
「あなたは神子です。清いまま受肉し両親の穢れをもち自信を失い生きるのだそうです。イエスも神子で父と呼ぶ神を降ろします。一般の魂ではありません。あなたもそうです。 」
このコメントを頂いてからというもの、僕は次のブログがなかなか書けなくなってしまいました。
「自信を失い生きる」というのは心当たりがあるのだけれど、「神子」というのはどこか選民思想にも聞こえてきて危険を感じたりします。
どこかの新興宗教の勧誘か?
それとも僕がどんな反応をするのか試しているのか?
もちろん、あさひさんという方が本物の審神者(さにわ)である可能性はある訳ですが、しかし、これだけのコメントだけでは本物かどうかは僕にはまったくわかりません。
兎に角、コメントを頂いてからというもの何だか興奮してしまって「ああかもしれない、こうかもしれない」と色んなことが頭を駆け巡って、なかなか定まらなくなってしまいブログが先に進みませんでした。

例えば「清いまま受肉し」とありますが、「清い」というのは2つの可能性があると思います。
生きていれば、必ず罪を背負うことになります。
食べるという行為自体、生命を奪って自分のエネルギーにするということなので必要悪になります。
ベジタリアンであっても、植物の命を奪うことには違いありません。
仏陀は、托鉢で貰った食物以外は口にしてはいけないと弟子たちに言いました。
これは、食べるために自分が生物の命を奪ったり料理したりすると穢れてしまうけれど、誰かによって料理されたものを口にするのならば穢れることはないということなのでしょうか?
それは兎も角、「清いまま受肉」するためには、前世で仏陀やその弟子たちのような修行を積んできたか、将又まったく前世というものが無くて初めてこの地球クラスの星に生まれてきたか、そのどちらかということになります。
しかし、続いて「イエスも神子で父と呼ぶ神を降ろします。一般の魂ではありません。あなたもそうです。 」とある訳です。

また「両親の穢れをもち」とありますが、それだけではなく新たにまた自分で作った罪を背負いながら、今僕は生きている訳です。
おそらく「穢れ」を知り、「穢れ」を体感し、そしてその「穢れ」を清める術を探求していく。
そのために、僕は生まれてきたかもしれません。
2017082510
前述したコメントは後半の部分で、前半はこうでした。
「私もヲシテを学べと神から言われ、あた(あなた?)にメッセージを送るように言われました。”神武”の項を読んでほしい。自分を自覚せよ。」
そもそもヲシテ文献が、本当に縄文時代に書かれた書物かどうかもわからない訳ですが(江戸時代にはさまざまな文字が創作されていて⦅当時、漢語の伝達以前に日本独自の文字が存在したという説が流行った⦆、ヲシテもその1つではないかと言うのが定説となっています。)、逆に偽書説を裏付ける決定的な証拠もまだ見つかっていないともいえます。

アカデミズムが日本最古の書物だとする古事記と、3つあるヲシテ文献のひとつの「ホツマツタヱ(記紀原書)」は似ていますが、よくよく照らし合わせてみるとかなり違っています。
古事記は一般的には、壬申の乱後も各地の豪族たちが争い続けていたため、天武天皇が天皇の正統性を位置づけるために各々の民族の語る神話をまとめて編纂した書物ということになっています。
しかし、もし「ホツマツタヱ」が古事記より前、つまり縄文時代に書かれた書物なら、古事記は「ホツマツタヱ」を改竄するために作られたということになります。
では、いったいなぜ改竄する必要があったのかということになる訳ですが・・・。
(「ホツマツタヱ」は本物なのか?偽書なのか?神武天皇東征の時に詠まれた和歌を記紀と比較しているブログ⦅Kokoroのブログ⦆を見つけました。有り難いです。とても参考になりました。)

頂いたコメントには「”神武”の項を読んでほしい。自分を自覚せよ。」とありました。
早速、池田満氏の「ヲシテ」とかを買ってみたりしたのですが難しすぎてわからなくて、ネットで調べたら解りやすいHPがあったので、読んでいたら逆に面白すぎて完全に嵌まってしまいました。
日本翻訳センターが「ホツマツタヱ」の現代語訳と英訳、仏訳を紹介しているのですが、興味をもたれた方は是非読んでみてください。http://www.hotsuma.gr.jp/index.html

「”神武”の項」とは、人の巻、29「タケヒト(神武)大和(やまと)討ちのアヤ」のことだと思いますが、いったいこの項が自分とどう関わりがあるのかがさっぱりわかりません。
僕の前世と何か関係があるのでしょうか?
(出来ればあさひさん、もう少し詳しく教えて頂きたいです。)
2017082513
写真は、水元公園とみさと公園で昨日撮ってきたものですが、自転車で来る途中、ベルさん(UFO)が何度か姿を現してくれました。
大概、このブログ記事に書いていることが的を射ているか、自分の魂が磨かれている時に、ご褒美としてベルさんは姿を現してくれます。
2017082501
ただの飛行機雲のように見えますが、よく見ると機体が透けています。
大概ベルさんは白い煙りを吐き出して飛んでいますが、この間、
煙りを出していないベルさんを見ました。
僕の真上を飛んでいるのにも関わらずエンジン音はまったく聞こえず、ゆっくりとすぅーと飛んでいきました。
写真↑のベルさんのように機体が透けていて、翼も左右対称ではなくてどことなく歪んで見えました。
白い煙りを出していないので、あたかも天使が空を飛んでいるようにも見えました。
普通の飛行機だったらこのようには撮れないので、写真↑のベルさんも明らかに飛行機形ホログラムUFOです。
2017082503
僕は最近、宮沢賢治の影響でもう少し仏教のことを知りたいと思い、色々と調べていました。
そのせいで、仏が自分の近くに降りてきているような感覚がずっとありました。
ベルさんが姿を現したのは、そのことと関係があるような気がしています。
2017082506
彼らは高次元世界に存在していて、地上の人間をいつも観察しています。
そしてこのように時々3次元世界と5次元世界の中間まで降りてきて、自分たちの存在を示します。
彼らの姿を目撃する度に、僕は異次元世界(パラレルワールド)を体感します。
そして、現れてくれたことに対して感謝します。
太陽に感謝して、月に感謝して、自然に感謝して、育ててくれた父母に感謝して、ご先祖様に感謝して、そしてベルさんに感謝します。

神様が「”神武”の項を読んでほしい。自分を自覚せよ。」と言われたのなら、ひょっとしたら悠久の時を越えてきたものを僕は受け継いできているのかもしれない。
1万年という闇に葬り去られた縄文の歴史が蘇りつつある今、自分が生まれてきた意味を今こそ思い出させるために、ベルさんは姿を現すのかもしれません。

きっと時空が歪み、現代と縄文が繋がりつつあるのだと思います。
戻るのではなく、先に進むために・・・


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ここの所、宮沢賢治に関する記事が続いていますが、その内容を簡単に要約すれば、宇宙意志が「あらゆる生物をほんたうの幸福に齎したいと考へてゐる」のだから、生物を殺したり食べるという行為は宇宙意志に反することだということになるかと思います。
だから賢治はベジタリアンになって、法華経に改宗しました。

しかし、植物だって生物です。
完璧なベジタリアンも、植物を殺して食べていることには違いありません。
ナスやキューリを食べるのも牛肉や豚肉を食べるのも生物を殺して食べていることには違いないのだから、ベジタリアンの主義主張はおかしいと人から言われてしまえば、それまでです。
結局、その線引きはどこかということになります。
その線引きは各々の心が判断すべきであって、ベジタリアンになることを人に勧めるべきではありません。

僕もベジタリアンで、牛肉と豚肉と鶏肉を食べません。
しかし、魚介類や卵は食べたりしています。
僕の中では、「近くて遠いもの」を食べるのが基本になっています。
「近い」というのは近くで穫れたもの、つまり地元で穫れたもの(国産のもの)を食べるようにして、輸入ものはなるべく控えようということです。(完全には無理ですが)
そして「遠い」というのが、種(DNA)が遠いものを食べようということです。
牛や豚は人間と同じ哺乳類で、種が近すぎるから食べるのはよそうということです。

昔、パプアニューギニアの奥地に住む原住民たちは、戦争で倒した敵の部族の人間の肉を食べる文化(カニバリズム)があったそうで、その人たちは狂牛病に似た症状が現れていたそうです。
つまり、共食いや種(DNA)が近い動物の肉を食べると、非常に身体に悪いといえるかと思います。
自分の身体だけではなく、魂をも汚してしまうのだと僕は考えます。
そしてそれは当然、地球の次元上昇の大きな妨げになっているのです。
もちろんベジタリアンになることを人に勧めるべきではありませんが、このことを人に伝える必要はあると思います。

僕は魚貝類は食べますが、魚貝類は人間からだいぶ離れた種なので、人間が食べても身体には支障はないと思っています。
青魚は血液をさらさらにするしマグロはDHAが豊富なので、身体にとてもいいのは言うまでもありません。
それから、貝類には動脈硬化を予防する亜鉛が豊富に含まれているので、最低一週間に一度は貝類を食べるべきです。
(心配なのが、フクイチから流れ出る放射能ですが・・・僕はやっぱり、三陸産や東京湾などで穫れた魚貝類はなるべく買わないようにしています。) 
そして、もちろんこれらは僕個人の考えでやっていることであって、そのことで誰かに批判をされるいわれもありません。 

実をいうと、僕の家庭も賢司と同じ浄土真宗で仏壇には阿弥陀様を祀っていて、僕以外の家族は肉を食べます。
だから僕以外はカツを食べて、僕は別の料理なんとこともよくあります。(一週間に一度ぐらい)
豚肉や卵を食べると長生きするといわれているので、父母にベジタリアンを勧めることなんてできません。
僕は買い物や料理もするので、僕が魚介類や卵まで自分に禁じてしまうと父母がたいへん困ってしまうので、線引きを比較的甘くして魚貝類などは食べてもいいことにしているのです。
宇宙意志に反しているのかもしれませんが、仕方ありません。
今現在、僕が出来ることをしているまでです。

ベジタリアンは、外に出てもとても生きずらいです。
この国で肩身の狭い思いをしているのは、何も喫煙者だけではありません。
特に一番困るのが、ホテルなどに泊まって夕食に肉が出る時です。
もちろんチェックイン時に肉が食べられないことをフロントに伝えますが、自分だけ別の料理を用意してもらわなければならないので、何だか色んな人に迷惑をかけてしまっているようで、とても居心地が悪いです。
実際、それで人から嫌われたこともあるくらいで・・・。

ベジタリアン発祥の地のイギリスを始め、外国ではベジタリアンのためのスーパーやレストランが当たり前のように建ち並んでいるというのに、日本という国はそういう部分では何と遅れた国なのだろうと思ってしまいます。
そういう部分というのは、例えば、色々な考え方があっていいのに「こうでなければ駄目、ああでなければ駄目」という風に枠を作って、その枠からはみ出して生きている人を見下したり仲間はずれにしたりしていることです。
日本人のそうした性格が、世界から遅れをとるのです。
日本の科学界も、権威を持っている人は自分より下の人をまったく相手にしません。
外国では権威のある人もない人も関係なく平等に議論しあうので、完全に封建社会化してしまっている日本の科学界が遅れてしまうのも当然です。

これもテレビによる洗脳でしょうか?
GHQの策略でしょうか?
それに、日本人には昔から「赤信号、皆で渡れば恐くない」的思想があるのかもしれません。
「みんなで一緒に肉を食えば恐くない」とでもいう風に・・・。
しかし、それは今の時代に逆行しています。
今は誰かに左右されることなく、個人個人がそれぞれに塔を建てていかなくてはならない時代なのです。
メディアなどに踊らされていてはいけないのです。



日本人は、ずっと何千年もお米と魚介類と根菜類をだけを食べてきました。
欧米人に比べると日本人は腸の長さが短いのだそうですが、それは肉類をあまり食べなかったからだといわれています。
牛乳を飲む習慣もなかったので、牛乳を飲むとお腹を壊す人も多いです。
肉類を食べたり牛乳を飲むことが習慣になったのは、1万年という長い日本の歴史の中でほんのつい最近のことです。
このように日本人の食生活が変わってしまったのも、GHQの策略があったからだといっても差し支えないと思います。
GHQは日本が二度と立ち上がれないように、食生活を変えたりや3S政策やメディアを使って国民を洗脳したりして、あの手この手と日本人を骨抜きにしようとしてきました。
そして、それは現在進行形です。
闇の勢力によって・・・。
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写真↑は青森県の下田代納屋遺跡から出土した縄文時代早期の尖底土器(せんていどき)です。
縄の文ではなく、貝殻が使われているので貝殻文土器ともいいます。
なぜ底が尖っているのかは今現在も謎なのだそうですが、実は土器を地面に刺して使っていたのではないかという説があります。

医学博士で日本考古学協会理事などを歴任している大島直行氏は、縄文人は月信仰だったのではないかとしていて、満月の夜に土偶を並べて土器の中に夜露を溜めて、溜まった水を飲むことによってそれを月からの贈り物と称して穢れを祓う液体としたのではないかという説を立てています。
尖底土器を土に刺すことによって土の温度で土器が冷え、夜露を溜めやすくしたのではないか?

縄文人が食べていた料理を再現するために、よく土器に貝やキノコなどの具材を入れて火をおこして煮込んで、子供たちに食べさせたりしているのを見ますが、土器というものは実はまったく違う目的で作られたのではないかとずっと思っていました。
例えば火焔土器(かえんどき)のあの装飾は、何の意味もないただの飾りとは到底思えないからです。
土器が信仰の目的で作られていたのだとしたら、それらのすべての謎が繋がってきます。

注目すべきは、縄文人は月信仰だったのではないかという説です。
僕もずっとそのように考えていて、「自作曲「月の幻影」〜セントラル・サンの意志」の記事のところに、「セントラル・サン(銀河の中心)は意志を持っている セントラル・サンの意志はそれぞれの恒星に伝えられ、太陽にもそれは伝えられる その意志は太陽により光に変換され、地球上のすべての生物に行き渡っていく 光は月にも届き、月に反射された光は、意志がより濃縮されて地球に届く」と書きました。
「ひょっとしたら、卑弥呼の銅鏡の儀式は、太陽ではなく月の光を利用していたかもしれない」とも書きました。
それは何かの本を読んだ訳でもなく、誰かから聞いた訳でもなく、なんとなく自分の中でそんな気がしていたまでです。
今では、そのなんとなくが確信に変わりつつあります。

つまりそうなってくると、縄文人が月信仰だったのだとしたら、満月の夜に土器に溜まった夜露を飲むことによって「セントラル・サン(銀河の中心)の意志」を聞いていたということになります。
そういえば、ヲシテ文献の「ト」という字の意味を思い出しました。

古代ヲシテ文献研究家、池田満氏によれば、約6千年前の縄文時代にはヲシテと呼ばれる古代文字が存在していて、何とその頃の日本には「トコヨ」という国号まであったそうです。
「トコヨ」の「ト」は憲法を表しているそうで、「ト」はヲシテではYと口が重なったような文字なのですが(画像↓)、Yは天皇が両手を広げて天からの恵みを受け取っている姿を表し、口は地面を表していて、その恵みを国民のすべてに行き渡らせる姿を表しているのだそうです。
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この「トコヨ」の「ト」という字、どこか尖底土器に似ていませんか?
満月の夜に土器の底に溜まった夜露を飲むことこそ、月からの贈り物をいただいて、セントラル・サンの意志を知るということの象徴であって、それを「ト」という字で表し、また「トコヨ」という国号にしてしまった。
これこそが、日本のアニミズムの原点だったのではないか?
神社にお参りをする前に手水舎で手を洗ったりするのも、その名残なのではないかと思うのです。
神道は、まさに水信仰だった訳です。 

日本という国は、戦後のGHQの策略によってだいぶ骨抜きにされてしまいましたが、僕はやがて近いうちに、この「トコヨ」の時代が復活するのではないかと思っています。
宇宙意志が、それを望んでいるのではないかと思っています。
ひょっとしたら、宮沢賢治は「トコヨ」の次元を感じていたのかもしれません。
あの童話の数々は、「トコヨ」の次元、つまり5次元世界を表しているのかもしれません。
5次元世界とは、宇宙意志が滞ることなく隅々まで行き渡っていく世界であり、あらゆる生物が本当の幸福に齎らされる世界なのかもしれません。
ベジタリアンが増えれば増えるほど、言うまでもなく「トコヨ」の時代は復活しやすくなってくる筈です。

以前にも記事に載せましたが、スウェーデンボルグの霊界日記に書かれていることを、最後にここでもう一度載せることにします。
地上の万物は霊界の投影であり、型に過ぎない。
霊界には地上にある一切のものが、不完全を取り去られた美しさをもって存在する。
山も川も草木、獣にあたるものみなが存在し、地上に比類のない遙かに多くの物があって一切が調和し、何ものにもさえぎられず神の栄光を現している。


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前回、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のことについて書きましたが、今回は賢治の人物像について書いていきたいと思います。
現在は宮沢賢治を知らない人はいないほど有名になり、前回の記事の最後に載せた動画(イーハトーヴ交響曲など)のようなイベントも行われるほど人気があります。
賢治に関する本も沢山出回るようになって、今まであまり知られていなかったことも明らかになってきています。

僕がもっとも興味を惹かれるのが、なぜ父親の質屋を継がなかったのか?なぜ浄土真宗から法華経(日蓮宗)に改宗したのか?ということです。
そこが、賢司という天才童話作家が生み出されていった原点だったといってもいいかもしれません。
宗教が入ってくると、何やら世の文学の専門家たちは忌み嫌うところがありますが、しかしそれは賢治という人物を知る上で絶対に欠かしてはならないものです。

賢治がごく普通のありふれた人物だったのなら、父親の良き質屋の跡取り息子になっていた筈です。
実際に賢司もそうしようと努力はしていたのかもしれませんが、しかし結果的に父親へ猛烈に反発することとなります。
貧しい農民から借金を取り立てている父親の姿を見て、社会の非道徳性を感じ取っていたのかもしれません。
それだけではなく、賢司の家は浄土真宗を熱心に信仰していました。
賢司も始めのうちは父親に従い浄土真宗を信仰していましたが、法華経(南無妙法蓮華経)に触れて深い感銘を受けます。
そして法華経に改宗して、父親にも改宗を迫ります。
もちろん父親は激怒しますが、それにしてもなぜ賢司はそのような行動を起こしたのでしょうか?

浄土真宗というのは大乗仏教の宗派のひとつで、宗祖は親鸞です。
「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば、誰もが阿弥陀如来によって救われるというものです。
だから戒律というものはなく、僧侶は肉食妻帯さえ許されます。
大げさな話し、人殺しをしても唱えさえすれば天国へ行ける訳です。
(大乗仏教のことは、以前に「ブラフマンとアートマンが同一であること〜ガンダーラ仏教の変革」という記事に書きました。)

一方、法華経とはどんな宗教なのでしょうか?
賢治は遺書の中で「私の使命はこのお経を広めることでした。」と告白していて、その童話は法華主義の広報宣撫だとしています。
もちろん法華経も大乗仏教ですが、なぜ賢治は法華経にそれほどまでに傾倒していったのでしょうか?

実は法華経という経典は、教えを説かない経典なのだそうです。
法華経のどこを読んでも教義らしきものは書かれていなくて、書かれているのは法華経の根本教義と殆ど関係のない壮大なファンタジーな世界であったり、たとえ話であったりするのです。
そういえば、賢司の童話も似たものを感じます。

例えば、長者窮子(ちょうじゃぐうじ)というたとえ話があります。
幼少の時にかどわかされて家を出たまま、困窮して諸国を放浪していた長者の息子が、ある日運命に導かれて、父である長者の城に至って、その城で長者の子供であることを知らずに掃除夫として働くことになります。
長者は勿論初めて見た瞬間に自分の息子と分かったのですが、黙ってその成り行きを見守ったのです。
息子は二十年間、真面目に仕事をして信用を得、長者の財産の管理を任せられるまでになります。
そのうち臨終の近づいた長者は親族・国王・大臣などの前で、この息子が自らの子供であることを明かし、一切の財産を譲ることを宣言します。
これは人間誰でも凄い能力を持っているのに、そのことを気がつかずに一生を終えてしまうことが多いというたとえ話です。
「貴方も長者の息子なのだよ。それに気がつかないだけなんだよ。早く気づいて長者の道を歩みなさい。」と仏陀は教えているのだそうです。

また、衣裏繋珠(えりけいしゅ) というたとえ話はこうです。
放浪の旅をしている貧しい青年が、富豪の仲間のもとに遊びに行きました。
仲間は、その貧しい青年を歓待し酔いつぶれるまで飲み明かしました。
しかし富豪は、その夜に商用で遠くに旅立たなければならなりませんでした。

その酔いつぶれた青年を富豪は哀れに思い、誰にも知らせずそっと青年の衣服の裏に宝珠をいくつか縫い付けて旅立ちました。
明くる朝、目覚めた青年は富豪が旅立ってしまったことを聞かされてすごすごとそのお屋敷を後にして、また放浪の旅を続けるしかありませんでした。

衣の裏にとても高価な宝珠が縫い付けてあることなど露知らず、諸国を彷徨って、乞食同然になって再び富豪の住む御屋敷の前を通りかかった時でした。
彼を見つけた富豪は驚いて呼び止め、「一体君は何をしてるんだ。僕が君のために服の裏地に縫い付けた宝珠に気がつかなかったのかね?あれを売れば一生でも十分なお金になろうというのに」と告げたのでした。
人というのは、どんな人でも衣の裏にとんでもない宝珠が隠されているのに、それに気づかずに貧しく一生を終えてしまうものだということを語っているのだそうです。
「あなたはまだ気が付かないかもしれないが、実はあなたの中には無限の宝が内臓されているんだよ」
と教えるお経は、他には見当たりません。
心のそこから信じるのなら、何でも出来てしまうのだとお経は説いています。
もし観音様を信じるのなら、例え刀で切られても一切傷つかず、例え海に落ちても溺れず、例え火に焼かれてもまったく平気なのだと・・・。
しかし、もしほんの少しでも疑念を抱いたら、それらは達せられないと・・・。

何だか、最近流行の「引き寄せの法則」とか「思考は現実化する」といったものを連想してしまいます。 
観音様を信じていなくても、法華経のことを知らなくても、似たようなことを語っているスピ系ブログは山ほどありますが・・・。

兎に角、このように教えを説かない法華経故に様々な解釈がなされていき、後に法華経は創価学会、立正佼成会という風に分派して行く訳ですが、賢司が生きていた頃の法華経は今とはまったく違ったものだったのかもしれません。
賢司が今も生きていたら、きっとそうした新興宗教には入らなかったと思います。
賢司は人間のもっとも根源的な、もっとも純粋な部分で法華経を信じていたのだと思います。
人がなかなか気付くことのない高価な宝珠のことを、賢司は「きれいにすきとほつた風をたべ」とか「桃いろのうつくしい朝の日光」、それに「びろうどや羅紗や宝石いりのきもの」という風に表現したのかもしれません。
つまり高価な宝珠とは目に見えるものではなく、そのように感じる心こそが宝珠なのだと・・・。


精神科医の福島章氏によれば、賢司は躁鬱病だったとのことです。
鬱状態の時は、離人感やメランコリーに苛まれるそうです。
離人感とは、例えば普通の人が美しいと思うような音楽を聴いてもまったく美しく感じなかったり、普通の人が美味しいと感じる料理を食べてもまったく美味しく感じなかったりすることです。
目の前に何があっても、その色や形が眼に入ってくるだけで「ある」という感じがまったくしないのだそうです。

賢司はこの離人感から逃れるために、肉食療法みたいなことを試みていたりします。
関徳弥宛の書簡に、こうあります。
「七月の始め頃から二十五日へかけて一寸肉食をしたのです。それは第一は私の感情があまり冬のやうな工合になってしまって燃えるやうな生理的の衝動なんか感じないやうに思はれたので、こんな事では一人の心をも理解し兼ねると思って断然幾片かの豚の脂、塩鱈の干物などを食べた為にそれをきっかけにして脚が悪くなったのでした。然るに肉食をしたって別段感情が変わるわけでもありません。今はもうすっかり逆戻りをしました。」

躁状態の時は、その正反対になります。
この時は「共感覚」という、万物が生命感を持って迫ってくるような感覚になるのだそうです。
また、白いものを見ると同時に甘さを感じたり、音楽を聴くと黄色や青といった色彩を感じたりするのだそうです。
それは幻覚といったようなレベルのものではなく、賢司がよく使う「ほんとう」という言葉が示すように、「共感覚」とは高次元の世界を味わっている状態なのかもしれません。

心象スケッチ「春と修羅」の序に、こうあります。(冒頭の画像↑)
「わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です」
僕はこれは、「共感覚」ならではの面白い表現だと思います。
私というこの存在は、ひとつの青い照明のようなただの移ろいやすいひとつの現象に過ぎなくて、そして五官の働きによる感覚でそう仮定されているに過ぎないのだけれど、しかし「いかにもたしかにともりつづけ」ていて、しかもこの大生命体の一部で「ともりつづけ」ている。

高瀬露宛の書簡の下書きには、こうあります。
「たゞひとつどうしても棄てられない問題はたとへば宇宙意志といふやうなものがあつてあらゆる生物をほんたうの幸福に齎したいと考へてゐるものかそれとも世界が偶然盲目的なものかといふ所謂信仰と科学とのいづれによつて行くべきかといふ場合私はどうしても前者だといふのです。すなはち宇宙には実に多くの意識の段階がありその最終のものはあらゆる迷誤をはなれてあらゆる生物を究竟の幸福にいたらしめやうとしてゐるといふまあ中学生の考へるやうな点です。ところがそれをどう表現しそれにどう動いて行つたらいゝかはまだ私にはわかりません。」

なぜ賢司は、法華経に傾倒していったのか?
もし共感覚を持っていたのだとしたら、その道筋が見えてきます。
賢司の童話をアニミズム的と捉えることもできますが、実はそれだけではなく、共感覚の時の体験に裏付けられているのだと考えることができる訳です。
その体験から賢司は、法華経は誠に理にかなったお経なのだと感じるようになったのかもしれません。

法華経では、この宇宙を唯一の大生命体であると考えるそうです。
僕は度々このブログで、それを「ワンネス」という言葉で表現してきました。
また先々月に「この世はマトリックス(仮想現実)〜仏教と量子論」という記事を書きましたが、僕はここで「この宇宙全体は、たったひとつのコンピューターの内部に過ぎない」と書きました。

それから「自作曲「月の幻影」〜セントラル・サンの意志」という記事では、僕はこんな風に書いています。
「セントラル・サン(銀河の中心)は意志を持っている
セントラル・サンの意志はそれぞれの恒星に伝えられ、太陽にもそれは伝えられる
その意志は太陽により光に変換され、地球上のすべての生物に行き渡っていく
光は月にも届き、月に反射された光は、意志がより濃縮されて地球に届く・・・」

この世界は、ひとつの宇宙意志で繋がっている。
生きとし生けるものすべてが・・・この地球も太陽も月も、すべての星たちも・・・。
そして「あらゆる生物をほんたうの幸福に齎したいと考へてゐる」のだと・・・。
だから、賢司はベジタリアンになった。
だから、戒律がなく肉食を許す浄土真宗が許せなかった。
「注文の多い料理店」序

 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
 わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。
 ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。
 ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。
 なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。

 大正十二年十二月二十日
宮沢賢治  
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