今日は、僕個人のことについて書きます。(いつもそうかもしれませんが・・・m(_ _)m)
あさひさんという方から、不思議なコメントを頂きました。
「あなたは神子です。清いまま受肉し両親の穢れをもち自信を失い生きるのだそうです。イエスも神子で父と呼ぶ神を降ろします。一般の魂ではありません。あなたもそうです。 」
このコメントを頂いてからというもの、僕は次のブログがなかなか書けなくなってしまいました。
「自信を失い生きる」というのは心当たりがあるのだけれど、「神子」というのはどこか選民思想にも聞こえてきて危険を感じたりします。
どこかの新興宗教の勧誘か?
それとも僕がどんな反応をするのか試しているのか?
もちろん、あさひさんという方が本物の審神者(さにわ)である可能性はある訳ですが、しかし、これだけのコメントだけでは本物かどうかは僕にはまったくわかりません。
兎に角、コメントを頂いてからというもの何だか興奮してしまって「ああかもしれない、こうかもしれない」と色んなことが頭を駆け巡って、なかなか定まらなくなってしまいブログが先に進みませんでした。
例えば「清いまま受肉し」とありますが、「清い」というのは2つの可能性があると思います。
生きていれば、必ず罪を背負うことになります。
食べるという行為自体、生命を奪って自分のエネルギーにするということなので必要悪になります。
ベジタリアンであっても、植物の命を奪うことには違いありません。
仏陀は、托鉢で貰った食物以外は口にしてはいけないと弟子たちに言いました。
これは、食べるために自分が生物の命を奪ったり料理したりすると穢れてしまうけれど、誰かによって料理されたものを口にするのならば穢れることはないということなのでしょうか?
それは兎も角、「清いまま受肉」するためには、前世で仏陀やその弟子たちのような修行を積んできたか、将又まったく前世というものが無くて初めてこの地球クラスの星に生まれてきたか、そのどちらかということになります。
しかし、続いて「イエスも神子で父と呼ぶ神を降ろします。一般の魂ではありません。あなたもそうです。 」とある訳です。
また「両親の穢れをもち」とありますが、それだけではなく新たにまた自分で作った罪を背負いながら、今僕は生きている訳です。
おそらく「穢れ」を知り、「穢れ」を体感し、そしてその「穢れ」を清める術を探求していく。
そのために、僕は生まれてきたかもしれません。
前述したコメントは後半の部分で、前半はこうでした。
「私もヲシテを学べと神から言われ、あた(あなた?)にメッセージを送るように言われました。”神武”の項を読んでほしい。自分を自覚せよ。」
そもそもヲシテ文献が、本当に縄文時代に書かれた書物かどうかもわからない訳ですが(江戸時代にはさまざまな文字が創作されていて⦅当時、漢語の伝達以前に日本独自の文字が存在したという説が流行った⦆、ヲシテもその1つではないかと言うのが定説となっています。)、逆に偽書説を裏付ける決定的な証拠もまだ見つかっていないともいえます。
アカデミズムが日本最古の書物だとする古事記と、3つあるヲシテ文献のひとつの「ホツマツタヱ(記紀原書)」は似ていますが、よくよく照らし合わせてみるとかなり違っています。
古事記は一般的には、壬申の乱後も各地の豪族たちが争い続けていたため、天武天皇が天皇の正統性を位置づけるために各々の民族の語る神話をまとめて編纂した書物ということになっています。
しかし、もし「ホツマツタヱ」が古事記より前、つまり縄文時代に書かれた書物なら、古事記は「ホツマツタヱ」を改竄するために作られたということになります。
では、いったいなぜ改竄する必要があったのかということになる訳ですが・・・。
(「ホツマツタヱ」は本物なのか?偽書なのか?神武天皇東征の時に詠まれた和歌を記紀と比較しているブログ⦅Kokoroのブログ⦆を見つけました。有り難いです。とても参考になりました。)
頂いたコメントには「”神武”の項を読んでほしい。自分を自覚せよ。」とありました。
早速、池田満氏の「ヲシテ」とかを買ってみたりしたのですが難しすぎてわからなくて、ネットで調べたら解りやすいHPがあったので、読んでいたら逆に面白すぎて完全に嵌まってしまいました。
日本翻訳センターが「ホツマツタヱ」の現代語訳と英訳、仏訳を紹介しているのですが、興味をもたれた方は是非読んでみてください。http://www.hotsuma.gr.jp/index.html
「”神武”の項」とは、人の巻、29「タケヒト(神武)大和(やまと)討ちのアヤ」のことだと思いますが、いったいこの項が自分とどう関わりがあるのかがさっぱりわかりません。
僕の前世と何か関係があるのでしょうか?
(出来ればあさひさん、もう少し詳しく教えて頂きたいです。)
写真は、水元公園とみさと公園で昨日撮ってきたものですが、自転車で来る途中、ベルさん(UFO)が何度か姿を現してくれました。
大概、このブログ記事に書いていることが的を射ているか、自分の魂が磨かれている時に、ご褒美としてベルさんは姿を現してくれます。
ただの飛行機雲のように見えますが、よく見ると機体が透けています。
大概ベルさんは白い煙りを吐き出して飛んでいますが、この間、煙りを出していないベルさんを見ました。
僕の真上を飛んでいるのにも関わらずエンジン音はまったく聞こえず、ゆっくりとすぅーと飛んでいきました。
写真↑のベルさんのように機体が透けていて、翼も左右対称ではなくてどことなく歪んで見えました。
白い煙りを出していないので、あたかも天使が空を飛んでいるようにも見えました。
普通の飛行機だったらこのようには撮れないので、写真↑のベルさんも明らかに飛行機形ホログラムUFOです。
僕は最近、宮沢賢治の影響でもう少し仏教のことを知りたいと思い、色々と調べていました。
そのせいで、仏が自分の近くに降りてきているような感覚がずっとありました。
ベルさんが姿を現したのは、そのことと関係があるような気がしています。
彼らは高次元世界に存在していて、地上の人間をいつも観察しています。
そしてこのように時々3次元世界と5次元世界の中間まで降りてきて、自分たちの存在を示します。
彼らの姿を目撃する度に、僕は異次元世界(パラレルワールド)を体感します。
そして、現れてくれたことに対して感謝します。
太陽に感謝して、月に感謝して、自然に感謝して、育ててくれた父母に感謝して、ご先祖様に感謝して、そしてベルさんに感謝します。
神様が「”神武”の項を読んでほしい。自分を自覚せよ。」と言われたのなら、ひょっとしたら悠久の時を越えてきたものを僕は受け継いできているのかもしれない。
1万年という闇に葬り去られた縄文の歴史が蘇りつつある今、自分が生まれてきた意味を今こそ思い出させるために、ベルさんは姿を現すのかもしれません。
きっと時空が歪み、現代と縄文が繋がりつつあるのだと思います。
戻るのではなく、先に進むために・・・