僕の部屋の窓辺に、色々な鳥が遊びに来ます。
今日もシジュウカラが「ツィーピーツィーピー」と鳴きながら、僕の部屋の中を覗きにやって来ます。
「キィー」と甲高い声で鳴きながらヒヨドリが毎日のように庭にやって来て、つくばいで水浴びをします。
ちょっと体の大きめなヒヨドリが去っていくと、今度は雀よりも小さなメジロが数羽やって来て、やっぱり窓から僕の様子を窺っていたりします。
もうすぐ庭にウグイスがやって来て、天使のような歌声を聴かせてくれるかもしれません。
まだまだ寒いですが、そんな季節ももう間近です。
きっとどんな音楽も、鳥たちの歌声には敵いません。
(シジュウカラ
pet pedia)
僕もその昔、音楽家を目指していました。
音楽大学に行くために高い月謝を払って良い先生について、何浪かしてやっと音大に合格して、そしてまた高い授業料を払って・・・でも、いったい何のために・・・?
本来楽しむべきもののために、なぜ競い合わなければならなかったのだろう?
約30年経った今でも、そんなことを考えてしまうのです。
そもそも僕は、この社会に対する反発心とか厭世的なものへの憧れが、音楽の世界へと向かわせたのです。
それがたまたまロックではなく、クラシックというだけのことでした。
だからこそ、音楽で生計を立てていくという発想自体が、僕にはまるで理解ができなかったのです。
僕にとって音楽は、物質的な次元を超えた存在のものだったのです。
音楽はまさに、今の僕の自称不可思議現象研究家の礎となっていたのです。
ブラームス、マーラー、ワーグナー、シベリウス、ラヴェル、ドビュッシー、ストラヴィンスキー、シェーンベルク・・・後期ロマン主義から印象主義、そして現代音楽まで、今まで色々と聴いてきました。
誰が特別に好きだとか、そんなのはとてもじゃないけど選べなくて、どの作曲家も独特の特徴があって、知れば知るほどどの作曲家ものめり込んでいってしまいます。
なぜって、マーラーの交響曲第5番の第4楽章「アダジェット」ほど天国的な音楽があるでしょうか?
ドビュッシーの『海』ほど見事に、自然を描写した音楽はあるでしょうか?
シェーンベルクの『浄められた夜』ほど、感情が溢れ出る音楽があるでしょうか?
どれも皆、神の手が触れたとしか思えないような音楽だと、僕にはそう思えるのです。
それは非現実的であり、反社会的であったりもあります。
しかし人類は、そんな音楽を学問にしてしまった。
イエスの宇宙の教えを、カトリックという宗教にしてしまった如くに・・・
音楽は学問ではなく、鳥のさえずりなのに・・・
僕は長い間、音楽学という世界で、象牙の塔をよじ登るようにしてずっと生きてきました。
そうやって何事もなく、ただ真っ直ぐに生きてこれたのなら、たぶん今でも象牙の塔を登り続けていたと思います。
きっと、たとえ地べたを這いつくばってでも、目指すべき何かに向かって歩み続けていたかもしれません。
僕はずっと、音楽で何とか飯が食えるようにしなければならないと焦っていました。
ポップスに転向してみたり、先生をやってみたり・・・社会に認めてもらうために、いつしか形というものにこだわる人間になってしまっていて、それなのに人にはとても話すことができないほどカッコ悪くて恥ずかしい失敗を何度もしてしまい、そしてプツンと糸が切れるように僕の中の何かが切れたのです。
そして、ふと気がつきました。
いったい僕は何をこだわっているのだと・・・
鳥だって歌っている・・・秋には虫たちがいっせいに奏ではじめる。
そう、彼らは飯が食えるかどうかなんて、そんなことは一切考えない。
今のこの瞬間を、めいっぱい生きている。
形ではない。
知名度や肩書きなんていうものは、むしろ無い方がいい。
いや、あってはならないのだ。
すべては、その瞬間瞬間に沸き上がってくる感情、それに尽きるのだ。
それには、なにも音楽にこだわる必要もない。
ダンスだっていい。
写真を撮ることや、絵を描くことだっていい。
( ウイラプルー)
https://www.youtube.com/watch?v=mfkuYFvWut8
https://www.youtube.com/watch?v=juqN1KhMqKU
https://www.youtube.com/watch?v=29vzKx0mNqU → 6:35〜 Uirapuru Verdadeiro
https://www.youtube.com/watch?v=a5gXsxNvObQ →(求愛ダンスもスゴい!!)
総合研究大学院大学の研究で、シジュウカラは単語を組み合わせて文にして、仲間へ伝達する能力を持っていることが明らかになっています。
チンパンジーなど知能が高い一部の動物で異なる鳴き声を繋げる例は見られるそうですが、語順を正確に理解して、音声を理解する能力は他に例がないのだそうです。(wikipediaより)
また、アマゾンに生息するウイラプルーという鳥は、音楽家が研究対象にするくらい歌が上手く、バッハのスケールと同じスケールで歌うのだそうです。
ただ繁殖するためだけなのなら、なぜそこまで発達する必要があるのでしょうか?
動物学者なら、こういうでしょう。
そうやってメスはより優れたオスを選ぶことで、より優良な遺伝子を残そうとしているからなのだと・・・
そのために、バッハのスケールを・・・?
ではいったい、バッハのスケールが遺伝子にどんな影響を及ぼすというのでしょうか?
山羊のオス2頭がメスを巡って角をぶつけ合って争うというのは、それは強い方が生存競争で生き残れる可能性が高くなるので、遺伝子に影響があるかもしれません。
しかし、ウイラプルーは競争している次元がまるで違います。
いくらバッハのスケールで上手く歌えたからって、それで生き残れる可能性が高くなる訳ではないのです。
強さや力で競うのではなく、美的センスで競い合うというのは、僕はそこに次元の高さというものを感じてしまうのです。
フランスの作曲家、オリヴィエ・メシアン(1908年〜1992年)は、自宅でピアノを弾いていると、鳥たちが演奏を聴きに飛んでくるのだと語っていました。
僕も似たような経験を何度もしているので、メシアンが語っていたことがもの凄くよくわかります。
メシアンは作曲家、神学者であるだけではなく、鳥類学者でもありました。
また、共感覚の持ち主でもあったのだそうです。
僕は『メシアンに捧ぐ』というピアノ小品集を作ったことがあるのですが、YouTubeに投稿してから確認のために聴いていたら、なんとカワセミが僕の部屋の窓のところでホバリングをしていて、僕と視線が合うと「ギギギギギィ〜ギギギギギィ〜」と奇妙な声を出しながら部屋の中に入りたいという素振りを見せたのです。(このことは以前にも何度か記事にしました。)
それ以来、僕は水元公園に通うようになりました。
水元公園にはカワセミの里という場所があるのですが、あの日、僕はあのカワセミから水元公園へ招待されたのだと思うことにしています。
(宇宙人のシェイプシフト、もしくは神の化身かもしれませんが・・・)
音楽というものは、物質的に空気振動で伝わる音の芸術として人の心に響いていくだけではなく、実はもっともっと音楽という世界は底知れぬ程に深くて、非物質的、精神世界において宇宙全体に響き渡っていくものなのではないかと思っているのです。
名ピアニストがコンサートホールで歴史に残るような名演奏をした時、そのホールで聴いていた聴衆だけがその瞬間に立ち会えるのではなく、実はその瞬間に宇宙全体が震えていたりするのです。
たとえ名の知られたピアニストの演奏ではなかったとしても、歴史に残るような名演奏どころか、それこそ自宅のPCで打ち込んだ音であったとしても、その音が宇宙全体を震わすような音になることも有り得るのです。
僕のPCで流れた自作曲の音が宇宙に響き渡り、数キロ離れた水元公園のカワセミにも届いて共鳴し、僕の部屋の窓のところまで飛んできてホバリングしたのです。
そしてカワセミは僕の目を見ながら、何かを伝えたのです。
その後も、あの「ギギギギギィ〜ギギギギギィ〜」という鳴き声を何度か耳にしました。
きっと鳥に限らず人間以外の動物は皆宇宙と繋がっていて、宇宙の声を聞いているのです。
ワーグナーは曲が出来ると、まず愛猫にピアノで弾いて聴かせて、曲の良し悪しを判断していたといいます。
僕もそうしていたので、とてもよくわかります。(記事に何度も書きました。)
鳥や猫は、ひょっとしたら音楽を理解する能力が人間以上にあるのかもしれません。
そして共感覚を持っている人も、同じように宇宙の声を聞くことが出来るのだと思います。
共感覚を持っていなくても、瞑想したりチャクラを開けたりして修行を積めば、誰でも宇宙と繋がることが出来るようになるのだと思います。
古代人たちはきっと、皆で宇宙の声を聞いていたのです。
日本各地に残っている磐座は、その名残なのです。
(オオバン
水元公園にて)
僕は正直、音楽がこれ程までに異次元世界と繋がっていたなんて、数年前までは思いもしませんでした。
無調の現代音楽でも、意外と高次元と繋がっていたりするのです。
逆に、アマゾンの奥地に暮らしている原住民たちにロックを聴かせると、これは悪魔の音楽だと口を揃えて言います。
演歌を外国人に聴かせると、地獄の底から聞こえてくるうめき声のようだと言ったりします。
テレビから聞こえてくるCMソングなどは、僕には魔界の音楽に聞こえてきます。
最近流行の音楽も、殆どがそうです。
ちょっと昔には、歌謡曲でもいい音楽があったのですが・・・
現代人は、もっと鳥のさえずりに耳を傾けるべきです。
宇宙の声を敏感に感じ取れるようになるべきです。
そして、宇宙に響いていくような音楽を、心震わせながら聴くべきです。
自称、不可思議現象研究家が辿り着いた先に、自分の原点でもある音楽があったのです。
音楽と不可思議現象、多くの人がこの2つを結びつけるのを嫌っていますが(学問であって、スピリチュアルではないと・・・)、実は切っても切り離せない関係にあったということです。
音楽は人と宇宙、いや、人と神を繋ぐ、現代人の磐座だったのです。
水元公園を歩いていたら、もう蝶々が飛んでいたので早速写真を撮ろうと思ったのですが、動きがすばしっこくて撮れませんでした。
残念に思いながら下を見ていたら、ナナホシテントウムシが草の上で忙しなく動き回っていました。(写真↑)
辺りを見回すと、オオイヌノフグリの可憐な青い花が至るところに咲いていて、そこにハチが蜜を吸いにやって来ていました。(写真↑)
写真を撮り終えて自転車のところに戻ると、自分の心が踊っているのがわかりました。
こんなに楽しい気持ちになったのは、本当に久しぶりな気がしました。
ここは鳥の天国です。
カモやオオバン、カワウ、ムクドリ、サギやセキレイの仲間たち。
それにユリカモメ(写真↓)
みんな、人間をあまり怖がりません。
ここは本当に東京なのでしょうか?
しかし何だか、いい音楽が聴こえてきそうです。
朝忙しくなる前に、ちょっと一杯だけブラックコーヒーでも飲みながら、宇宙に響き渡るようないい音楽に触れてみるのもいいもんです。
僕はカフェインをずっと摂らないようにしていたのですが、最近は朝食後に一杯だけ自分で淹れて飲むのが習慣になっています。
最後にまた、音楽を載せたいと思います。
Claude Debussyの"Reflets dans l'eau"という曲です。↓
https://www.youtube.com/watch?v=nnnKmQ-wXZw
この曲の日本名は、ドビュッシーの『水の反映』です。
『水に映る影』とも訳されますが、『映像』第1集というピアノ曲集の第1曲目になります。
この曲は、ラヴェルの『水の戯れ』と比較されることが多いです。
ラヴェルは1900年、25才の時に「ローマ賞」というコンクールに挑戦しますが、3位という結果に終わってしまいます。
ラヴェルは、その1年後にその『水の戯れ』というピアノ曲を発表します。
その『水の戯れ』も、サン=サーンスに「全て不協和音に満ちている」と酷評されてしまう程、散々たるものでした。
その4年後に、ドビュッシーは『映像』第1集を発表します。
その第1曲目の『水の反映』は、おそらくラヴェルの『水の戯れ』を研究し尽くして作られたのだと思います。
ドビュッシーは、当時の「ローマ賞」の審査委員でした。
ドビュッシーはきっと、ラヴェルの『水の戯れ』に前衛的なものを見出していたに違いありません。
もうすでに世間では高い評価を受けていたラヴェルが予備審査で落選するということは、これは事件でした。
「なにか政治的な力が働いて彼は拒否された」という抗議の声が、先輩や同僚の作曲家や芸術家、一般市民の中からもあがりました。
そして、パリ音楽院の当時の院長デュボワは、それによって辞任にまで追い込まれます。
こういう話を聞いてしまうと、日本人はどうしてもラヴェルを贔屓目に見てしまうのでしょう。
日本人は、弱いものの味方をしますから・・・
当時は散々に酷評されていた『水の戯れ』も、1世紀を経た今では評価が180度変わって、CMや映画などでもよく使われるようになりました。
逆に、ドビュッシーを嫌う日本人は多いです。
特に、印象主義の象徴ともいわれる『水の反映』を苦手とする日本人はとても多いです。
ラヴェルはとても親しみやすい旋律を作るのに対し、ドビュッシーは短いフレーズのバリエーションが多くてわかり難いというのもあるのでしょう。
しかし正直にいうと、僕はドビュッシーの『水の反映』を初めて聴いた時、こんな美しい曲が世の中にあるのかと思ったのです。
ドビュッシーの交響詩『海』を聴いた時にもそう思ったのですが、 ドビュッシーという人は自然や宇宙の声を敏感に感じ取れる人だったのはないかと思うのです。
ラヴェルの音楽を聴いていてもとても強い霊的なものを感じるのですが、ドビュッシーはそれ以上に波動の高さを感じます。
ラヴェルは「スイスの時計職人」のように精緻で繊細で男性的であるのに対し、ドビュッシーは霧がかかったようにどこか謎めいていて、なんとなく女性的な感じがします。(変な意味ではなく)
そんな若きラヴェルの前衛的な作曲法とドビュッシーの敏感さが融合して、この地球上に人類最高の宝石が生み出されたのです。その時、その瞬間、いったいどれ程に、宇宙全体は震え上がったのでしょうか?
そして名演奏が生まれる度に、その震えはどれ位広がっていくのでしょうか?
今日もシジュウカラが「ツィーピーツィーピー」と鳴きながら、僕の部屋の中を覗きにやって来ます。
「キィー」と甲高い声で鳴きながらヒヨドリが毎日のように庭にやって来て、つくばいで水浴びをします。
ちょっと体の大きめなヒヨドリが去っていくと、今度は雀よりも小さなメジロが数羽やって来て、やっぱり窓から僕の様子を窺っていたりします。
もうすぐ庭にウグイスがやって来て、天使のような歌声を聴かせてくれるかもしれません。
まだまだ寒いですが、そんな季節ももう間近です。
きっとどんな音楽も、鳥たちの歌声には敵いません。
(シジュウカラ
pet pedia)
僕もその昔、音楽家を目指していました。
音楽大学に行くために高い月謝を払って良い先生について、何浪かしてやっと音大に合格して、そしてまた高い授業料を払って・・・でも、いったい何のために・・・?
本来楽しむべきもののために、なぜ競い合わなければならなかったのだろう?
約30年経った今でも、そんなことを考えてしまうのです。
そもそも僕は、この社会に対する反発心とか厭世的なものへの憧れが、音楽の世界へと向かわせたのです。
それがたまたまロックではなく、クラシックというだけのことでした。
だからこそ、音楽で生計を立てていくという発想自体が、僕にはまるで理解ができなかったのです。
僕にとって音楽は、物質的な次元を超えた存在のものだったのです。
音楽はまさに、今の僕の自称不可思議現象研究家の礎となっていたのです。
ブラームス、マーラー、ワーグナー、シベリウス、ラヴェル、ドビュッシー、ストラヴィンスキー、シェーンベルク・・・後期ロマン主義から印象主義、そして現代音楽まで、今まで色々と聴いてきました。
誰が特別に好きだとか、そんなのはとてもじゃないけど選べなくて、どの作曲家も独特の特徴があって、知れば知るほどどの作曲家ものめり込んでいってしまいます。
なぜって、マーラーの交響曲第5番の第4楽章「アダジェット」ほど天国的な音楽があるでしょうか?
ドビュッシーの『海』ほど見事に、自然を描写した音楽はあるでしょうか?
シェーンベルクの『浄められた夜』ほど、感情が溢れ出る音楽があるでしょうか?
どれも皆、神の手が触れたとしか思えないような音楽だと、僕にはそう思えるのです。
それは非現実的であり、反社会的であったりもあります。
しかし人類は、そんな音楽を学問にしてしまった。
イエスの宇宙の教えを、カトリックという宗教にしてしまった如くに・・・
音楽は学問ではなく、鳥のさえずりなのに・・・
僕は長い間、音楽学という世界で、象牙の塔をよじ登るようにしてずっと生きてきました。
そうやって何事もなく、ただ真っ直ぐに生きてこれたのなら、たぶん今でも象牙の塔を登り続けていたと思います。
きっと、たとえ地べたを這いつくばってでも、目指すべき何かに向かって歩み続けていたかもしれません。
しかし、神は悪戯好きです。
僕は、いつしか音楽というものがわからなくなっていました。僕はずっと、音楽で何とか飯が食えるようにしなければならないと焦っていました。
ポップスに転向してみたり、先生をやってみたり・・・社会に認めてもらうために、いつしか形というものにこだわる人間になってしまっていて、それなのに人にはとても話すことができないほどカッコ悪くて恥ずかしい失敗を何度もしてしまい、そしてプツンと糸が切れるように僕の中の何かが切れたのです。
そして、ふと気がつきました。
いったい僕は何をこだわっているのだと・・・
鳥だって歌っている・・・秋には虫たちがいっせいに奏ではじめる。
そう、彼らは飯が食えるかどうかなんて、そんなことは一切考えない。
今のこの瞬間を、めいっぱい生きている。
形ではない。
知名度や肩書きなんていうものは、むしろ無い方がいい。
いや、あってはならないのだ。
すべては、その瞬間瞬間に沸き上がってくる感情、それに尽きるのだ。
それには、なにも音楽にこだわる必要もない。
ダンスだっていい。
写真を撮ることや、絵を描くことだっていい。
( ウイラプルー)
https://www.youtube.com/watch?v=mfkuYFvWut8
https://www.youtube.com/watch?v=juqN1KhMqKU
https://www.youtube.com/watch?v=29vzKx0mNqU → 6:35〜 Uirapuru Verdadeiro
https://www.youtube.com/watch?v=a5gXsxNvObQ →(求愛ダンスもスゴい!!)
総合研究大学院大学の研究で、シジュウカラは単語を組み合わせて文にして、仲間へ伝達する能力を持っていることが明らかになっています。
チンパンジーなど知能が高い一部の動物で異なる鳴き声を繋げる例は見られるそうですが、語順を正確に理解して、音声を理解する能力は他に例がないのだそうです。(wikipediaより)
また、アマゾンに生息するウイラプルーという鳥は、音楽家が研究対象にするくらい歌が上手く、バッハのスケールと同じスケールで歌うのだそうです。
ただ繁殖するためだけなのなら、なぜそこまで発達する必要があるのでしょうか?
動物学者なら、こういうでしょう。
そうやってメスはより優れたオスを選ぶことで、より優良な遺伝子を残そうとしているからなのだと・・・
そのために、バッハのスケールを・・・?
ではいったい、バッハのスケールが遺伝子にどんな影響を及ぼすというのでしょうか?
山羊のオス2頭がメスを巡って角をぶつけ合って争うというのは、それは強い方が生存競争で生き残れる可能性が高くなるので、遺伝子に影響があるかもしれません。
しかし、ウイラプルーは競争している次元がまるで違います。
いくらバッハのスケールで上手く歌えたからって、それで生き残れる可能性が高くなる訳ではないのです。
強さや力で競うのではなく、美的センスで競い合うというのは、僕はそこに次元の高さというものを感じてしまうのです。
フランスの作曲家、オリヴィエ・メシアン(1908年〜1992年)は、自宅でピアノを弾いていると、鳥たちが演奏を聴きに飛んでくるのだと語っていました。
僕も似たような経験を何度もしているので、メシアンが語っていたことがもの凄くよくわかります。
メシアンは作曲家、神学者であるだけではなく、鳥類学者でもありました。
また、共感覚の持ち主でもあったのだそうです。
僕は『メシアンに捧ぐ』というピアノ小品集を作ったことがあるのですが、YouTubeに投稿してから確認のために聴いていたら、なんとカワセミが僕の部屋の窓のところでホバリングをしていて、僕と視線が合うと「ギギギギギィ〜ギギギギギィ〜」と奇妙な声を出しながら部屋の中に入りたいという素振りを見せたのです。(このことは以前にも何度か記事にしました。)
それ以来、僕は水元公園に通うようになりました。
水元公園にはカワセミの里という場所があるのですが、あの日、僕はあのカワセミから水元公園へ招待されたのだと思うことにしています。
(宇宙人のシェイプシフト、もしくは神の化身かもしれませんが・・・)
音楽というものは、物質的に空気振動で伝わる音の芸術として人の心に響いていくだけではなく、実はもっともっと音楽という世界は底知れぬ程に深くて、非物質的、精神世界において宇宙全体に響き渡っていくものなのではないかと思っているのです。
名ピアニストがコンサートホールで歴史に残るような名演奏をした時、そのホールで聴いていた聴衆だけがその瞬間に立ち会えるのではなく、実はその瞬間に宇宙全体が震えていたりするのです。
たとえ名の知られたピアニストの演奏ではなかったとしても、歴史に残るような名演奏どころか、それこそ自宅のPCで打ち込んだ音であったとしても、その音が宇宙全体を震わすような音になることも有り得るのです。
僕のPCで流れた自作曲の音が宇宙に響き渡り、数キロ離れた水元公園のカワセミにも届いて共鳴し、僕の部屋の窓のところまで飛んできてホバリングしたのです。
そしてカワセミは僕の目を見ながら、何かを伝えたのです。
その後も、あの「ギギギギギィ〜ギギギギギィ〜」という鳴き声を何度か耳にしました。
きっと鳥に限らず人間以外の動物は皆宇宙と繋がっていて、宇宙の声を聞いているのです。
ワーグナーは曲が出来ると、まず愛猫にピアノで弾いて聴かせて、曲の良し悪しを判断していたといいます。
僕もそうしていたので、とてもよくわかります。(記事に何度も書きました。)
鳥や猫は、ひょっとしたら音楽を理解する能力が人間以上にあるのかもしれません。
そして共感覚を持っている人も、同じように宇宙の声を聞くことが出来るのだと思います。
共感覚を持っていなくても、瞑想したりチャクラを開けたりして修行を積めば、誰でも宇宙と繋がることが出来るようになるのだと思います。
古代人たちはきっと、皆で宇宙の声を聞いていたのです。
日本各地に残っている磐座は、その名残なのです。
(オオバン
水元公園にて)
僕は正直、音楽がこれ程までに異次元世界と繋がっていたなんて、数年前までは思いもしませんでした。
無調の現代音楽でも、意外と高次元と繋がっていたりするのです。
逆に、アマゾンの奥地に暮らしている原住民たちにロックを聴かせると、これは悪魔の音楽だと口を揃えて言います。
演歌を外国人に聴かせると、地獄の底から聞こえてくるうめき声のようだと言ったりします。
テレビから聞こえてくるCMソングなどは、僕には魔界の音楽に聞こえてきます。
最近流行の音楽も、殆どがそうです。
ちょっと昔には、歌謡曲でもいい音楽があったのですが・・・
現代人は、もっと鳥のさえずりに耳を傾けるべきです。
宇宙の声を敏感に感じ取れるようになるべきです。
そして、宇宙に響いていくような音楽を、心震わせながら聴くべきです。
自称、不可思議現象研究家が辿り着いた先に、自分の原点でもある音楽があったのです。
音楽と不可思議現象、多くの人がこの2つを結びつけるのを嫌っていますが(学問であって、スピリチュアルではないと・・・)、実は切っても切り離せない関係にあったということです。
音楽は人と宇宙、いや、人と神を繋ぐ、現代人の磐座だったのです。
水元公園を歩いていたら、もう蝶々が飛んでいたので早速写真を撮ろうと思ったのですが、動きがすばしっこくて撮れませんでした。
残念に思いながら下を見ていたら、ナナホシテントウムシが草の上で忙しなく動き回っていました。(写真↑)
辺りを見回すと、オオイヌノフグリの可憐な青い花が至るところに咲いていて、そこにハチが蜜を吸いにやって来ていました。(写真↑)
写真を撮り終えて自転車のところに戻ると、自分の心が踊っているのがわかりました。
こんなに楽しい気持ちになったのは、本当に久しぶりな気がしました。
ここは鳥の天国です。
カモやオオバン、カワウ、ムクドリ、サギやセキレイの仲間たち。
それにユリカモメ(写真↓)
みんな、人間をあまり怖がりません。
ここは本当に東京なのでしょうか?
しかし何だか、いい音楽が聴こえてきそうです。
朝忙しくなる前に、ちょっと一杯だけブラックコーヒーでも飲みながら、宇宙に響き渡るようないい音楽に触れてみるのもいいもんです。
僕はカフェインをずっと摂らないようにしていたのですが、最近は朝食後に一杯だけ自分で淹れて飲むのが習慣になっています。
最後にまた、音楽を載せたいと思います。
Claude Debussyの"Reflets dans l'eau"という曲です。↓
https://www.youtube.com/watch?v=nnnKmQ-wXZw
この曲の日本名は、ドビュッシーの『水の反映』です。
『水に映る影』とも訳されますが、『映像』第1集というピアノ曲集の第1曲目になります。
この曲は、ラヴェルの『水の戯れ』と比較されることが多いです。
ラヴェルは1900年、25才の時に「ローマ賞」というコンクールに挑戦しますが、3位という結果に終わってしまいます。
ラヴェルは、その1年後にその『水の戯れ』というピアノ曲を発表します。
その『水の戯れ』も、サン=サーンスに「全て不協和音に満ちている」と酷評されてしまう程、散々たるものでした。
その4年後に、ドビュッシーは『映像』第1集を発表します。
その第1曲目の『水の反映』は、おそらくラヴェルの『水の戯れ』を研究し尽くして作られたのだと思います。
ドビュッシーは、当時の「ローマ賞」の審査委員でした。
ドビュッシーはきっと、ラヴェルの『水の戯れ』に前衛的なものを見出していたに違いありません。
1906年2月5日付のピエール・ラロ(反ラヴェル的立場をとった批評家)に宛てた書簡に、ラヴェルはこのように書いています。
ラヴェルは5回も「ローマ賞」に挑戦するのですが、1度も大賞に選ばれなかっただけではなく、5回目にはなんと予備審査で落選してしまいます。「拝啓、ドビュッシーが創り出したとあなたがおっしゃるかなり独特な書法について、ずいぶん長々と書いていらっしゃいますが、私は『水の戯れ』を一九〇二年のはじめに書いたのです。その時、ドビュッシーはピアノ曲を3曲しか書いていませんでした。いまさら申すまでもありませんが、私はそれらの作品に熱烈な賞賛の念を抱いてはいるのです。しかしながら、ピアノ書法という点からいえば何ら目新しい点はないのです。」
もうすでに世間では高い評価を受けていたラヴェルが予備審査で落選するということは、これは事件でした。
「なにか政治的な力が働いて彼は拒否された」という抗議の声が、先輩や同僚の作曲家や芸術家、一般市民の中からもあがりました。
そして、パリ音楽院の当時の院長デュボワは、それによって辞任にまで追い込まれます。
こういう話を聞いてしまうと、日本人はどうしてもラヴェルを贔屓目に見てしまうのでしょう。
日本人は、弱いものの味方をしますから・・・
当時は散々に酷評されていた『水の戯れ』も、1世紀を経た今では評価が180度変わって、CMや映画などでもよく使われるようになりました。
逆に、ドビュッシーを嫌う日本人は多いです。
特に、印象主義の象徴ともいわれる『水の反映』を苦手とする日本人はとても多いです。
ラヴェルはとても親しみやすい旋律を作るのに対し、ドビュッシーは短いフレーズのバリエーションが多くてわかり難いというのもあるのでしょう。
しかし正直にいうと、僕はドビュッシーの『水の反映』を初めて聴いた時、こんな美しい曲が世の中にあるのかと思ったのです。
ドビュッシーの交響詩『海』を聴いた時にもそう思ったのですが、 ドビュッシーという人は自然や宇宙の声を敏感に感じ取れる人だったのはないかと思うのです。
ラヴェルの音楽を聴いていてもとても強い霊的なものを感じるのですが、ドビュッシーはそれ以上に波動の高さを感じます。
ラヴェルは「スイスの時計職人」のように精緻で繊細で男性的であるのに対し、ドビュッシーは霧がかかったようにどこか謎めいていて、なんとなく女性的な感じがします。(変な意味ではなく)
そんな若きラヴェルの前衛的な作曲法とドビュッシーの敏感さが融合して、この地球上に人類最高の宝石が生み出されたのです。
そして名演奏が生まれる度に、その震えはどれ位広がっていくのでしょうか?
2015年に量子物理学の分野において、オーストラリア国立大学の研究所の物理学者たちによって「この現実は人間が観測するまで存在しない」ということが実験によって証明されていますが、このような驚異的な音楽を人間が作ることによって、宇宙にまた新たな世界が創造されていくのではないか?
まさに人間こそが創造主なのではないか?
そんな風に考えてみたりもするのです。
(追伸:もちろんそれは音楽に限らず、すべての芸術において同じことがいえると思います。特に現代アートは重要な気がします。宇宙は常に、新しいものを求めているのかもしれません。)
まさに人間こそが創造主なのではないか?
そんな風に考えてみたりもするのです。
(追伸:もちろんそれは音楽に限らず、すべての芸術において同じことがいえると思います。特に現代アートは重要な気がします。宇宙は常に、新しいものを求めているのかもしれません。)
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