piabuの不思議blog

オカルトでも陰謀論でもなく、この世界に隠されている本当の真実を自分自身に起こった不可思議な体験を元に探求しています。人間はなぜ生きなければならないのか?異次元世界はどうなっているのか?知れば知るほどに、この世界が摩訶不思議なもので溢れていることに気づくのです。

2019年02月

僕の部屋の窓辺に、色々な鳥が遊びに来ます。
今日もシジュウカラが「ツィーピーツィーピー」と鳴きながら、僕の部屋の中を覗きにやって来ます。
「キィー」と甲高い声で鳴きながらヒヨドリが毎日のように庭にやって来て、つくばいで水浴びをします。
ちょっと体の大きめなヒヨドリが去っていくと、今度は雀よりも小さなメジロが数羽やって来て、やっぱり窓から僕の様子を窺っていたりします。

もうすぐ庭にウグイスがやって来て、天使のような歌声を聴かせてくれるかもしれません。
まだまだ寒いですが、そんな季節ももう間近です。
きっとどんな音楽も、鳥たちの歌声には敵いません。
shijyuukara01











(シジュウカラ
pet pedia


僕もその昔、音楽家を目指していました。
音楽大学に行くために高い月謝を払って良い先生について、何浪かしてやっと音大に合格して、そしてまた高い授業料を払って・・・でも、いったい何のために・・・?
本来楽しむべきもののために、なぜ競い合わなければならなかったのだろう?
約30年経った今でも、そんなことを考えてしまうのです。

そもそも僕は、この社会に対する反発心とか厭世的なものへの憧れが、音楽の世界へと向かわせたのです。
それがたまたまロックではなく、クラシックというだけのことでした。
だからこそ、音楽で生計を立てていくという発想自体が、僕にはまるで理解ができなかったのです。
僕にとって音楽は、物質的な次元を超えた存在のものだったのです。
音楽はまさに、今の僕の自称不可思議現象研究家の礎となっていたのです。

ブラームス、マーラー、ワーグナー、シベリウス、ラヴェル、ドビュッシー、ストラヴィンスキー、シェーンベルク・・・後期ロマン主義から印象主義、そして現代音楽まで、今まで色々と聴いてきました。
誰が特別に好きだとか、そんなのはとてもじゃないけど選べなくて、どの作曲家も独特の特徴があって、知れば知るほどどの作曲家ものめり込んでいってしまいます。

なぜって、マーラーの交響曲第5番の第4楽章「アダジェット」ほど天国的な音楽があるでしょうか?
ドビュッシーの『海』ほど見事に、自然を描写した音楽はあるでしょうか?
シェーンベルクの『浄められた夜』ほど、感情が溢れ出る音楽があるでしょうか?
どれも皆、神の手が触れたとしか思えないような音楽だと、僕にはそう思えるのです。
それは非現実的であり、反社会的であったりもあります。
しかし人類は、そんな音楽を学問にしてしまった。
イエスの宇宙の教えを、カトリックという宗教にしてしまった如くに・・・
音楽は学問ではなく、鳥のさえずりなのに・・・

僕は長い間、音楽学という世界で、象牙の塔をよじ登るようにしてずっと生きてきました。
そうやって何事もなく、ただ真っ直ぐに生きてこれたのなら、たぶん今でも象牙の塔を登り続けていたと思います。
きっと、たとえ地べたを這いつくばってでも、目指すべき何かに向かって歩み続けていたかもしれません。

しかし、神は悪戯好きです。
僕は、いつしか音楽というものがわからなくなっていました。
僕はずっと、音楽で何とか飯が食えるようにしなければならないと焦っていました。
ポップスに転向してみたり、先生をやってみたり・・・社会に認めてもらうために、いつしか形というものにこだわる人間になってしまっていて、それなのに人にはとても話すことができないほどカッコ悪くて恥ずかしい失敗を何度もしてしまい、そしてプツンと糸が切れるように僕の中の何かが切れたのです。

そして、ふと気がつきました。
いったい僕は何をこだわっているのだと・・・
鳥だって歌っている・・・秋には虫たちがいっせいに奏ではじめる。
そう、彼らは飯が食えるかどうかなんて、そんなことは一切考えない。
今のこの瞬間を、めいっぱい生きている。
形ではない。
知名度や肩書きなんていうものは、むしろ無い方がいい。
いや、あってはならないのだ。
すべては、その瞬間瞬間に沸き上がってくる感情、それに尽きるのだ。
それには、なにも音楽にこだわる必要もない。
ダンスだっていい。
写真を撮ることや、絵を描くことだっていい。


( ウイラプルー)
https://www.youtube.com/watch?v=mfkuYFvWut8

https://www.youtube.com/watch?v=juqN1KhMqKU
https://www.youtube.com/watch?v=29vzKx0mNqU → 6:35〜 Uirapuru Verdadeiro
https://www.youtube.com/watch?v=a5gXsxNvObQ →(求愛ダンスもスゴい!!)


総合研究大学院大学の研究で、シジュウカラは単語を組み合わせて文にして、仲間へ伝達する能力を持っていることが明らかになっています。
チンパンジーなど知能が高い一部の動物で異なる鳴き声を繋げる例は見られるそうですが、語順を正確に理解して、音声を理解する能力は他に例がないのだそうです。(wikipediaより)
また、アマゾンに生息するウイラプルーという鳥は、音楽家が研究対象にするくらい歌が上手く、バッハのスケールと同じスケールで歌うのだそうです。

ただ繁殖するためだけなのなら、なぜそこまで発達する必要があるのでしょうか?
動物学者なら、こういうでしょう。
そうやってメスはより優れたオスを選ぶことで、より優良な遺伝子を残そうとしているからなのだと・・・
そのために、バッハのスケールを・・・?
ではいったい、バッハのスケールが遺伝子にどんな影響を及ぼすというのでしょうか?
山羊のオス2頭がメスを巡って角をぶつけ合って争うというのは、それは強い方が生存競争で生き残れる可能性が高くなるので、遺伝子に影響があるかもしれません。
しかし、ウイラプルーは競争している次元がまるで違います。
いくらバッハのスケールで上手く歌えたからって、それで生き残れる可能性が高くなる訳ではないのです。
強さや力で競うのではなく、美的センスで競い合うというのは、僕はそこに次元の高さというものを感じてしまうのです。

フランスの作曲家、オリヴィエ・メシアン(1908年〜1992年)は、自宅でピアノを弾いていると、鳥たちが演奏を聴きに飛んでくるのだと語っていました。
僕も似たような経験を何度もしているので、メシアンが語っていたことがもの凄くよくわかります。
メシアンは作曲家、神学者であるだけではなく、鳥類学者でもありました。
また、共感覚の持ち主でもあったのだそうです。

僕は『メシアンに捧ぐ』というピアノ小品集を作ったことがあるのですが、YouTubeに投稿してから確認のために聴いていたら、なんとカワセミが僕の部屋の窓のところでホバリングをしていて、僕と視線が合うと「ギギギギギィ〜ギギギギギィ〜」と奇妙な声を出しながら部屋の中に入りたいという素振りを見せたのです。(このことは以前にも何度か記事にしました。)
それ以来、僕は水元公園に通うようになりました。
水元公園にはカワセミの里という場所があるのですが、あの日、僕はあのカワセミから水元公園へ招待されたのだと思うことにしています。
(宇宙人のシェイプシフト、もしくは神の化身かもしれませんが・・・)

音楽というものは、物質的に空気振動で伝わる音の芸術として人の心に響いていくだけではなく、実はもっともっと音楽という世界は底知れぬ程に深くて、非物質的、精神世界において宇宙全体に響き渡っていくものなのではないかと思っているのです。
名ピアニストがコンサートホールで歴史に残るような名演奏をした時、そのホールで聴いていた聴衆だけがその瞬間に立ち会えるのではなく、実はその瞬間に宇宙全体が震えていたりするのです。
たとえ名の知られたピアニストの演奏ではなかったとしても、歴史に残るような名演奏どころか、それこそ自宅のPCで打ち込んだ音であったとしても、その音が宇宙全体を震わすような音になることも有り得るのです。

僕のPCで流れた自作曲の音が宇宙に響き渡り、数キロ離れた水元公園のカワセミにも届いて共鳴し、僕の部屋の窓のところまで飛んできてホバリングしたのです。
そしてカワセミは僕の目を見ながら、何かを伝えたのです。
その後も、あの「ギギギギギィ〜ギギギギギィ〜」という鳴き声を何度か耳にしました。

きっと鳥に限らず人間以外の動物は皆宇宙と繋がっていて、宇宙の声を聞いているのです。
ワーグナーは曲が出来ると、まず愛猫にピアノで弾いて聴かせて、曲の良し悪しを判断していたといいます。
僕もそうしていたので、とてもよくわかります。(記事に何度も書きました。)
鳥や猫は、ひょっとしたら音楽を理解する能力が人間以上にあるのかもしれません。

そして共感覚を持っている人も、同じように宇宙の声を聞くことが出来るのだと思います。
共感覚を持っていなくても、瞑想したりチャクラを開けたりして修行を積めば、誰でも宇宙と繋がることが出来るようになるのだと思います。
古代人たちはきっと、皆で宇宙の声を聞いていたのです。
日本各地に残っている磐座は、その名残なのです。
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(オオバン
水元公園にて)


僕は正直、音楽がこれ程までに異次元世界と繋がっていたなんて、数年前までは思いもしませんでした。
無調の現代音楽でも、意外と高次元と繋がっていたりするのです。
逆に、アマゾンの奥地に暮らしている原住民たちにロックを聴かせると、これは悪魔の音楽だと口を揃えて言います。
演歌を外国人に聴かせると、地獄の底から聞こえてくるうめき声のようだと言ったりします。
テレビから聞こえてくるCMソングなどは、僕には魔界の音楽に聞こえてきます。
最近流行の音楽も、殆どがそうです。
ちょっと昔には、歌謡曲でもいい音楽があったのですが・・・

現代人は、もっと鳥のさえずりに耳を傾けるべきです。
宇宙の声を敏感に感じ取れるようになるべきです。
そして、宇宙に響いていくような音楽を、心震わせながら聴くべきです。
自称、不可思議現象研究家が辿り着いた先に、自分の原点でもある音楽があったのです。
音楽と不可思議現象、多くの人がこの2つを結びつけるのを嫌っていますが(学問であって、スピリチュアルではないと・・・)、実は切っても切り離せない関係にあったということです。
音楽は人と宇宙、いや、人と神を繋ぐ、現代人の磐座だったのです。
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水元公園を歩いていたら、もう蝶々が飛んでいたので早速写真を撮ろうと思ったのですが、動きがすばしっこくて撮れませんでした。
残念に思いながら下を見ていたら、ナナホシテントウムシが草の上で忙しなく動き回っていました。(写真↑)
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辺りを見回すと、オオイヌノフグリの可憐な青い花が至るところに咲いていて、そこにハチが蜜を吸いにやって来ていました。(写真↑)
写真を撮り終えて自転車のところに戻ると、自分の心が踊っているのがわかりました。
こんなに楽しい気持ちになったのは、本当に久しぶりな気がしました。
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ここは鳥の天国です。
カモやオオバン、カワウ、ムクドリ、サギやセキレイの仲間たち。
それにユリカモメ(写真↓)
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みんな、人間をあまり怖がりません。
ここは本当に東京なのでしょうか?
しかし何だか、いい音楽が聴こえてきそうです。

朝忙しくなる前に、ちょっと一杯だけブラックコーヒーでも飲みながら、宇宙に響き渡るようないい音楽に触れてみるのもいいもんです。
僕はカフェインをずっと摂らないようにしていたのですが、最近は朝食後に一杯だけ自分で淹れて飲むのが習慣になっています。

最後にまた、音楽を載せたいと思います。
Claude Debussyの"Reflets dans l'eau"という曲です。↓

https://www.youtube.com/watch?v=nnnKmQ-wXZw

この曲の日本名は、ドビュッシーの『水の反映』です。
『水に映る影』とも訳されますが、『映像』第1集というピアノ曲集の第1曲目になります。

この曲は、ラヴェルの『水の戯れ』と比較されることが多いです。
ラヴェルは1900年、25才の時に「ローマ賞」というコンクールに挑戦しますが、3位という結果に終わってしまいます。
ラヴェルは、その1年後にその『水の戯れ』というピアノ曲を発表します。
その『水の戯れ』も、サン=サーンスに「全て不協和音に満ちている」と酷評されてしまう程、散々たるものでした。
その4年後に、ドビュッシーは『映像』第1集を発表します。

その第1曲目の『水の反映』は、おそらくラヴェルの『水の戯れ』を研究し尽くして作られたのだと思います。
ドビュッシーは、当時の「ローマ賞」の審査委員でした。
ドビュッシーはきっと、ラヴェルの『水の戯れ』に前衛的なものを見出していたに違いありません。

1906年2月5日付のピエール・ラロ(反ラヴェル的立場をとった批評家)に宛てた書簡に、ラヴェルはこのように書いています。
「拝啓、ドビュッシーが創り出したとあなたがおっしゃるかなり独特な書法について、ずいぶん長々と書いていらっしゃいますが、私は『水の戯れ』を一九〇二年のはじめに書いたのです。その時、ドビュッシーはピアノ曲を3曲しか書いていませんでした。いまさら申すまでもありませんが、私はそれらの作品に熱烈な賞賛の念を抱いてはいるのです。しかしながら、ピアノ書法という点からいえば何ら目新しい点はないのです。」

ラヴェルは5回も「ローマ賞」に挑戦するのですが、1度も大賞に選ばれなかっただけではなく、5回目にはなんと予備審査で落選してしまいます。
もうすでに世間では高い評価を受けていたラヴェルが予備審査で落選するということは、これは事件でした。
「なにか政治的な力が働いて彼は拒否された」という抗議の声が、先輩や同僚の作曲家や芸術家、一般市民の中からもあがりました。
そして、パリ音楽院の当時の院長デュボワは、それによって辞任にまで追い込まれます。

こういう話を聞いてしまうと、日本人はどうしてもラヴェルを贔屓目に見てしまうのでしょう。
日本人は、弱いものの味方をしますから・・・
当時は散々に酷評されていた『水の戯れ』も、1世紀を経た今では評価が180度変わって、CMや映画などでもよく使われるようになりました。

逆に、ドビュッシーを嫌う日本人は多いです。
特に、印象主義の象徴ともいわれる『水の反映』を苦手とする日本人はとても多いです。
ラヴェルはとても親しみやすい旋律を作るのに対し、ドビュッシーは短いフレーズのバリエーションが多くてわかり難いというのもあるのでしょう。

しかし正直にいうと、僕はドビュッシーの『水の反映』を初めて聴いた時、こんな美しい曲が世の中にあるのかと思ったのです。
ドビュッシーの交響詩『海』を聴いた時にもそう思ったのですが、 ドビュッシーという人は自然や宇宙の声を敏感に感じ取れる人だったのはないかと思うのです。
ラヴェルの音楽を聴いていてもとても強い霊的なものを感じるのですが、ドビュッシーはそれ以上に波動の高さを感じます。
ラヴェルは「スイスの時計職人」のように精緻で繊細で男性的であるのに対し、ドビュッシーは霧がかかったようにどこか謎めいていて、なんとなく女性的な感じがします。(変な意味ではなく)
そんな若きラヴェルの前衛的な作曲法とドビュッシーの敏感さが融合して、この地球上に人類最高の宝石が生み出されたのです。
その時、その瞬間、いったいどれ程に、宇宙全体は震え上がったのでしょうか?
そして名演奏が生まれる度に、その震えはどれ位広がっていくのでしょうか?

2015年に量子物理学の分野において、オーストラリア国立大学の研究所の物理学者たちによって「この現実は人間が観測するまで存在しない」ということが実験によって証明されていますが、このような驚異的な音楽を人間が作ることによって、宇宙にまた新たな世界が創造されていくのではないか?
まさに人間こそが創造主なのではないか?
そんな風に考えてみたりもするのです。

(追伸:もちろんそれは音楽に限らず、すべての芸術において同じことがいえると思います。特に現代アートは重要な気がします。宇宙は常に、新しいものを求めているのかもしれません。)


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僕の家の庭に 純白の梅の花が咲き始めた
待ちに待った季節が やって来た

わずかに 甘い香りが辺りに立ち込める
メジロが小さな体で めいっぱい元気な声で歌っている

言葉にならない言葉が 溢れ出す
この一瞬を 体感する

天国は この地上にも存在する
確かに 存在する
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これまでこのブログは、主に目に見えないものに関することを書いてきました。
目に見えないもの(非物質世界)に関することなので、書こうと思えばいくらでも好き勝手に想像力を巡らして、フィクション・・・いや、もっと汚い言葉を使ってしまえば、フェイクを記事にすることができる訳です。
事実、そうやって刺激的なフェイク記事を沢山載せてアクセス数を増やして、収益に繋げているユーチューバーやブロガーをよく見かけます。

残念ながら、そういうサイトがもてはやされたり人気を博したりしています。
そうした現実逃避の世界に浸るのが好きな人が沢山いる訳なのですが、しかしそうした人たちが、本気で非物質世界の存在を信じているのかどうかといえば、僕は疑わざるを得ません。
真実かどうかよりも、結局面白ければそれでいいのです。
SFやファンタジーと、然程変わりはないのです。

しかし、そうしたサイトはまだ害が少ないのかもしれません。
本当に厄介なのは、目に見えないものが見えている方でも、魔界や闇の世界と繋がっている場合があります。
スピリチュアル系の大方は、そうなのではないかと思います。
チャネリングで繋がってくる宇宙人の殆どは、闇系だったりします。
誰もが納得してしまうようなもっともらしいことを言って多くの人を信用させ、そして最後の最後に手のひらを返したように態度を豹変させて地獄へ落とす、それが彼らの常套手段です。

あの美○明宏さんや江○啓之さんでさえ、僕は実は魔界系なのではないかと思っています。
お二人が仰られていることは、いつもいつも本当にごもっともなのですが、時々引っかかる点があったりします。
どこがどういう風にとかは一々詳しくは書きませんが、一から十まですべて信用してしまわないことが肝要だと思います。

フェイクではなく魔界系や闇系でもない、真剣に真実を書いているスピリチュアル系サイトとなると、本当に数が限られてきます。
このブログは、そんな数少ない本物のブログのひとつなのだと思いながら、僕は本当に、それこそこの世界を救うぐらいの気持ちで記事を書いています。
(もちろん記事を面白くするために、推理を働かせて書いている場合も多いのですが、その代わり真剣に推理しています。信憑性はかなり高い筈です。)
潔癖性なほど、真実ではないこと、そして自分の中にあるエゴを僕は憎みます。
本当の敵は、自分の中にあったりします。

本当に凄い霊能者に比べれば、僕はまだまだ足下にも及びませんが、僕なりに精一杯この世の隠された真実を探求しています。
(本当に凄い霊能者は、実に謙虚で控え目で、あまり表には出たがらず、見た目も一般人と変わりありません。そして本物かどうかは、お金を要求するかしないかというところをみれば、一目瞭然です。)

もっとも気をつけなければならないのは、この世の(魔界の)支配者の傀儡にならないことです。
魔界からの誘惑に乗ってはならないということです。
政治家、銀行マン、役人、大企業の幹部の殆どは、操り人形です。
本人たちは、気がついていないと思います。
気がつかないから操られるのです。
もし気がついているとしたら、その人は魔界のかなりの上層部の人です。

「唯物論」、それこそがすべての悪の大元です。
お金に執着している人、死んだらそれまでだと思っている人、世間体を気にする人、人目を気にする人、人並みに生きなければならないと思っている人、こうあるベキだと決めつけている人、常識とか暗黙のルールとかに縛られていて、そこから抜けられなくなっている人・・・
そういう人たちが、悪魔の恰好の餌食となります。
この世の中を見渡してみると、そういう人たちで溢れています。
この世を支配しているのが、悪魔だという証拠です。
2019021602
では、どうすれば魔界の支配者の傀儡にならずに済むのかということです。
もちろん、物質的なものへの執着をなくすということが一番ですが、それだけでは不十分です。

実は今朝、僕はこんな夢を見ました。
たまにですが、夢の中に神様?みたいな人が出てくるのですが、僕はその人と会話をしていました。
僕は「神社などでお祈りする時、自分のことは本当にどうでもよくて、本気で人々(人類)の心の平和を願います。けれど、そうした願いは回り回っていって、最後には自分に降り注いだりするものです。」と言いました。
神様みたいな人は頷きながら僕の話を聞いていましたが、近くに沖縄風?の神社みたいな建物が建っていて、その前に南国的な庭が広がっていて、その庭の向こうから、何やらとても長い生き物が這うようにして近づいてきました。
5〜6人の人たちが不思議そうにその生き物に近づいていくと、その生き物は嫌がるように向きを変えました。
僕は慌てて「嫌がっているじゃないか!」といいながら、手で彼らに静止するように促しました。
すると、その長い生き物が僕を見るなり僕に近づいて来て、僕に甘え始めました。
この甘え方、どこか見覚えのある甘え方でした。
間違いなく、僕が昔飼っていたペットの甘え方でした。 
目が覚めた後、胸の辺りがなんとも気持ちがよくて、幸せな気分に浸っていました。
僕はいつも、夢の中でさえも、ペットから高い波動を受け取るのです。

前々回の『友達に取り憑いたエンティティ』という記事にも書きましたが、友達に会った時に僕は悪霊に取り憑かれてしまったのですが、マントラを唱えたり色々としたのだけれど、最後はペットがキレイに全部祓ってくれました。
ペットはもの凄い霊力があって、どんな悪霊もペット見た瞬間に震え上がって一目散に逃げてしまうのです。
でもこの時ばかりは、余程激しい戦いがあったのか、夢の中で異常なほど僕に甘えてきました。

その後、僕はインフルエンザに罹ってしまったのですが、その間中、ペットの夢はまったく見ませんでした。
友達の悪霊とインフルエンザには、何か関係があるのかもしれませんが、はっきりとはわかりません。
ただ夢に現れなくなったので、ずっと心配していました。

そして今朝、僕のペットが龍になった夢を見たのです。
きっと僕と会話をしていたあの神様?が、僕のペットを龍に進化させたのでしょう。
なんて・・・なんて、素晴らしいことなのでしょうか・・・(ToT)

僕は、僕が今までなんとなく信じていたことが、完全に真実であったことを、今日自分の中で証明することができました。
僕はメコン川の畔を、ひとりで歩いたことがあります。
毎年陰暦11月の最初の満月の夜、この日は僧が3ヶ月間の寺での修行を終えて自由に外出ができるようになる日(オークパンサー、出安居)でもあるのですが、必ずこの日の夜に、タイ北東部とラオスの国境に接するメコン川流域で、龍が火の玉を吐く怪現象「ナーガ・ファイアボール」が起こるのです。
神の啓示を受けて、ひとりでそこを歩いたのが4月頃だったのですが、僕はここで信じられないような体験をしました。
そこで出会う人出会う人がみんな、以前夢の中で出会ったことのある人たちでした。
初めての海外旅行で初めて体験することばかりの筈なのに、起こることすべてがすでに夢の中で体験していることでした。
そこで出会った人の中に、龍の化身だったのではないかと思える人もいました。
今思えば、あれは龍に関心を持つようになった最初の切っ掛けだったのかもしれません。

それから、箱根の九頭竜神社にお参りした後、空に龍の顔が描かれていました。
(これも以前に何度か記事にしました。)
間違いなく芦ノ湖には、龍が棲んでいました。
その後も色々と調べたのですが、どうやら芦ノ湖には最長老の龍がひとり棲んでいるようです。

僕の家にも龍が来てくれるように、庭につくばいを置いています。
色々とネットで調べたのですが、なんでも動く水が大切なようで、そこが龍の水飲み場になるのだそうです。
重要なのは水が動いていることであって、止まっている水には龍は寄ってこないのだそうです。

しかし、龍が寄ってくるかどうかは、最終的には人の心になると思います。
それに尽きると思います。
それは3つあって、まず「自然に感謝している」ということです。
この日本列島は龍の形をしていますが、まさに日本人は龍の上で生活をしているといえます。
自然は龍の体の一部ともいえるので、「自然に感謝をする」ということは、龍に感謝をしていることと同じになるのです。

2つ目は、「自分を大切にして生きる」ということです。
もちろん、ワガママに生きるということではなくて、自分に正直に生きる、自分に嘘をつかない、本当の自分、あるがままの自分を生きるということです。

3つ目は、「人を大切にする」ということです。
それは、人に嫌われたくないからいい顔をしているということではなくて、本当に真から人を思いやることが出来るかどうかということになります。

これらはきっと、宇宙では当たり前のことなのだと思います。
人間はエゴというものを持ってしまったために、当たり前のことがわからなくなってしまったのです。
上の3つのことは、何の柵(しがらみ)もなく自然体で生きていれば、然程難しいことではないと思います。
しかし今の現代人には、とても難しいと感じます。
現代人の多くが、相も変わらず唯物論者だからです。
だから、これからの新時代に向けての一番の課題は、現代人の唯物論からの脱却なのです。

しかし、巷は魔界が仕掛けたフェイクニュースで溢れ、多くの魔界の傀儡が蔓延っているのです。
最近のニュースを見れば、それがよくわかります。
極めて波動の高い龍の存在に、出来るだけ多くの日本人が気づけるかどうか、それが今後の日本を大きく左右していくことに間違いはありません。

日本は龍の国です。
神社の注連縄は、龍を表しているといわれています。
縄文時代から波動の高い龍が棲んでいたので、日本はもともとは非常に波動の高い国だったのですが、今では外国よりももっと波動の低い国になってしまいました。

しかし、このままでは終わらないと思います。
目覚めていく人が、最近多くなってきていると感じています。
政治家や銀行マンの中でさえも、チラホラと現れてきています。

そして、また新たにこの日本に龍が誕生するという奇跡を、僕は目の当たりにしました。
僕のペット、いや、僕の龍を、僕は心から愛しています。
そして、これからも自然を愛し、自分自身を愛し、人を愛します。
なぜなら、それが自然体のことだから・・・


今考えてみると、メコン川からペットのことまで、全部点と点が線で繋がっていたのです。
ひょっとしたら、生まれる前からずっと・・・僕の使命であったかの如くに・・・
なんということなのでしょうか・・・(ToT)


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約2週間ぶりの更新となります。m(_ _)m
インフルエンザに罹ってしまい、ずっとダウンしていました。
冷水行をしているから僕は絶対に風邪は引かないと豪語していたのですが、しかしなぜか引いてしまいました。
熱はそれほどなかったのですが、骨や筋肉、それに全身の皮膚がピリピリと痛くなって、それからのどの痛みや悪寒はもの凄かったです。

だいぶ長引いてしまいましたが、もう大丈夫です。 
咳がまだ出ますが・・・ 
今も巷では猛威を振るっているようですので、皆さんも呉々もお気をつけください。

とはいっても、これから書こうとしている記事は、実はインフルエンザに罹っておいた方がいいかもしれないという誤解されかねないような内容になります。
それから今回のインフルエンザ、僕は何か特別な意味を持っているようにも感じていました。
それで色々と、ネットでも調べてみました。


実は僕は、病院に行かなくても普通の風邪薬を飲んで寝ているだけで1週間ぐらいで治ってしまいます。
友達にその話をすると「それはスゴい!」と驚きます。
単なる医者嫌いではあるのですが、これは命に関わる病気でもあるので、下手をしたら病院に担ぎ込まれていた可能性もあります。
そうならなかったのは、どうやら生まれた年が関係しているようなのです。
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(2016/11/21
telegraph.co.uk)



約2年前のニュースですが、米国アリゾナ大学とカリフォルニア大学の最近の研究で、1968年より以前に生まれた人たちは鳥インフルエンザのパンデミックから守られ、タヒ亡率が大幅に低くなる可能性があるということがわかってきたのだそうです。
僕は1967年生まれなので、あともう1年遅く生まれていたら、ひょっとしたら風邪薬では済まされなかったということになります。

子供時代にH1型とH2型のインフルエンザ(いわゆる通常のインフルエンザ)に暴露した人たちは、 H5N1 (新型の鳥インフルエンザ)に対しての耐性を持ち、保護される可能性が大きいことを示したそうです。
1968年にインフルエンザのH3株(香港型、H3N2)が大流行するのですが、インフルエンザはそれまではH1型とH2型が一般的で、1968年以前の人たちはこの株に対しての免疫を持っているのだそうです。
その一方で、1968年以降に生まれた人たちは、中国でタヒ者を出したH7N9インフルエンザに対しての免疫を持っている可能性が高いということです。

インフルエンザの流行において最も甚大な被害を及ぼしたのが、1918年のインフルエンザのパンデミック(スペイン風邪)です。
スペイン風邪の推定感染者数が5億人(当時の世界人口は約18億人)で、推定タヒ者数が最大で1億人超だったそうですが(5千万人とも)、このスペイン風邪には「若くて元気な人ほど感染して亡くなっていく」という奇妙な特徴があったのだそうです。
普通のインフルエンザは、幼児や高齢者などのタヒ者数が多くなるのですが、スペイン風邪は「若くて元気な人たちから56していく」という絶望的な側面を持っていたということです。

アリゾナ大学生態学進化生物学部長のマイケル・ウォロビー博士(Dr Michael Worobey)は、「H1型インフルエンザウイルス(スペイン風邪)でタヒ亡した若い成人たちの血液を数十年後に分析したところ、彼らが子供の頃に感染していたのはH3型だった可能性が高いことがわかりました。そのため、彼らにはH1型への耐性がなかったと思われます。」と述べています。
現在のH5N1やH7N9の場合にも同じ傾向が見られることから、今後、世界に大流行をもたらすかもしれないインフルエンザウイルスも、1918年に歴史的大流行を起こしたスペイン風邪のウイルスと基本的には同様の進行過程をたどるのではないかとウォロビー博士は考えているそうです。


そして、昨年末から日本で大流行しているインフルエンザは、なんとそのH1N1型なのだそうで、しかもその多くが、子供や若者だということです。(半数が10歳未満)
過去にH1型の季節性インフルエンザに感染した経験があれば、パンデミックを起こすと考えられている新型インフルエンザ(H5N1)に対して免疫を獲得できている可能性が高いことがアメリカの研究でわかった訳ですが、しかし日本では、過去10年間にH1型のインフルエンザはまったく流行していなかったので、日本の10歳以下の子供はその免疫力を持っていなかったということになります。

しかし、ここに来てのH1N1型の大流行。
これによって、将来起こりうるインフルエンザのパンデミックに対抗できる免疫を、非常に沢山の日本の子供たちが獲得できたということになります。
つまり、人間の身体が本能的に将来起こりうるパンデミックを予期して、その免疫を作るために自主的に感染していた可能性が高いということになります。
感染して数日後に治った時には、見た目は同じでも違う人類になっている。
つまり、その子供たちは「パンデミックで生き残る人類として生まれ変わっている」という可能性が高いのです。

前述したように僕は1967年生まれなので、H1型に対する免疫は持っている筈なのに、それにも関わらず、なぜ今年に入ってからインフルエンザに罹ったのかということですが、東大など研究で、H7N9などの空気感染しなかったウィルスが飛沫感染するように変異しているのを確認しているそうです。
つまり、ウィルスも年々進化しているということになります。
進化したウィルスによるパンデミックが起きてしまっても生き残れるように、時々インフルエンザに罹っておく必要があるということになってきます。
僕が今年に入ってインフルエンザに罹ったというのも、これも将来に起こりうるパンデミックに対する身体の防衛本能だったということなのかもしれません。
(ここまでIn Deepさんの記事を参照しました。m(_ _)m)


もしこれから先にパンデミックが起こるのだとしたら、それはいったいいつになるのかということです。
それは誰にもわかりませんが、非常に気になるニュースがありました。
今月に入ってから岐阜県や愛知県などで豚コレラが発生して、大量の養豚場の豚が32処分されているそうです。
豚コレラは、豚やいのししの病気であって人に感染することはなく、仮に豚コレラにかかった豚の肉や内臓を食べても人体に影響はなく、また感染豚の肉が市場に出回ることもないそうです。

豚コレラといっても、人間が罹るコレラとは全然違っていて、ウィルス性疾病をコレラと呼んだりします。
インフルエンザのウィルスとも種類が違いますが、しかしそもそもH1N1型というのは鳥から豚に感染し、それが人間に感染していった訳です。
豚経由ということもありますし、これからどのようにウィルスが進化を遂げていくのかはまったく未知数ですので、とても気になるニュースではあります。


ここからさらに、ちょっと恐ろしい話をします。
明るみに出た豚インフルエンザの真実』(1977年刊 Eleanora I. McBean, Ph.D., N.D(アメリカ)著) には、スペイン風邪に対する予防接種が大流行と死亡率を高めたことを窺わせるような内容が書かれています。
「私が知り得た限りでは、予防接種を受けたことのある人しかそのスペイン風邪に罹らなかった。予防接種を拒んだ人たちは罹らなかった。私の家族はすべての予防接種を拒んだため、その流行病の間ずっと元気だった。私たちはグラハム、トレール、ティルデンらの健康についての教えから、体内を毒物で汚染することが必ずや病気につながっていくことを知っていたのだ。」

また、スペイン風邪による大量死亡者発生の原因は解熱剤アスピリンだった可能性もあります。
若い兵士を中心にアスピリンを解熱薬として服用後、大量の鼻出血を起こしてタヒ亡する者が続出したそうです。
中高年は免疫があったためなどという事にされていますが、スペイン風邪は病気産業にとって大成功をおさめたパンデミック詐欺だった可能性があるのです。
ここまでくると、某団体の人〇削減計画が関わっているのは間違いないということになってきます。
他にもエボラ出血熱やデング熱などなど、色々と思い当たる節も出てきますが、しかし陰謀論はこれ以上は止めておくことにします。


僕は風邪を引いても病院に行きませんが、もし皆さんが罹ってしまったら病院には早めに行った方がいいです。
風邪は万病の元だといいますから、侮ってはいけません。
しかし、アスピリン、タミフル、リレンザなどの薬には気をつけなければなりません。
今現在処方されている抗インフルエンザ薬が信用できるものなのかどうかもわかりませんが、その辺は医師と相談しながらということになると思います。
嫌われるとイヤだからといって何も質問しないでいると、必要のない薬までどんどん買わされて、逆に薬漬けで身体を壊してしまうかもしれません。
うるさがられるほど沢山の質問して、真実を突き止めていくべきです。
自分の身は、自分で守るしかありません
しかし結果的に、それが周りの人のためにもなっていくのです。


ところで、ついこの間、生まれて初めてオーラというものが見えてしまいました。
テレビなのですが、雪を見たことのない外国人が初めて日本に来て雪を見て、そのあまりの感動に、その人の身体の周りに黄色いオーラのようなものが出ていました。
「あっ!これがオーラなのか!」と思いました。
それから予知夢も見ましたし、自分がひとつ大きく強くなったような夢を何度か見ました。
インフルエンザに罹った後の自分は、以前の自分に比べて、何だか霊的進化を遂げたような気がして仕方がありません。

インフルエンザウィルスは、地球の次元上昇に身体がついていくためには必要なのではないかと、そんな風に思ったりもしています。
インフルエンザが命に関わる恐ろしい病いだというレッテルがついてしまったのは、予防接種やアスピリンなどによるパンデミック詐欺だった可能性が高く、真実はそれほど危険ではないのかもしれません。

そもそも宇宙に漂っていたウィルスが南極や北極に磁気風と共に降り注いで、それが渡り鳥に感染するのです。
NASAや多くの科学者にとっては宇宙空間に生物がいたら困る訳ですが、どうやら宇宙は生物で溢れているようです。
地球の生命は宇宙が由来だとする「パンスペルミア仮説」というのがあり、また人間の意識は古代のウィルスが関係しているとする説もあります。
つまり、インフルエンザウィルスは人類にとって、なくてはならない存在なのかもしれません。
次元が上昇しても耐えられるような肉体になるために、また霊的にも進化を遂げるために、インフルエンザウィルスは一役買っているのかもしれません。


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