piabuの不思議blog

オカルトでも陰謀論でもなく、この世界に隠されている本当の真実を自分自身に起こった不可思議な体験を元に探求しています。人間はなぜ生きなければならないのか?異次元世界はどうなっているのか?知れば知るほどに、この世界が摩訶不思議なもので溢れていることに気づくのです。

タグ:天御中主神

また信じるか信じないかは・・・になってしまいますが、またとても不可思議な出来事があったので、今日はそのことを書いていきたいと思います。

今年の1月頃に、水元公園のある場所でマントラを唱えていると、遠くにいる十数羽の鴨たちが一斉に僕の近くまで飛んで来て着水して、僕の唱えるマントラを聞き始めるという不可思議現象が起こっていると記事に書きました。
僕はちょっと欲をかいてしまい、それをビデオカメラに撮影しようとしたら鴨たちに嫌われてしまい、近寄って来なくなったと書きました。
その後、コロナ禍になって水元公園へはまったく行かなくなったのですが、それから半年以上が経ち、また水元公園までサイクリングをするようになりました。
そこにいた数十羽の鴨たちは、今はなぜかあまり見なくなりました。
時々、5~6羽ぐらいの鴨たちが集まっているのを見かける程度です。

この間、その場所の近くを自転車で通った時に、急に何か感じるものがあって、久しぶりにあの場所に立ってみました。
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あの3羽の鴨たち ↑ 、ひょっとして僕に近づいてきているのか?
どうやらそうらしい。
まるで高次元からお迎えが来ているような、不思議な感覚・・・
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ちょっと半信半疑でしたが、この時点 ↑ でやはり間違いないと確信しました。
餌を与えたことなんて一度もないのに、なぜ近づいてくるのか?
この鴨たちは人馴れしていて、ひょっとして誰にでも近づくのか?
いや、それは考え難い。
間違いなく、目に見えない存在からの何かのメッセージだ!
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この写真↑を撮っている時に、3才ぐらいの子供を連れたご夫婦が「ほら~、カモがいるよ~」と言いながら近づいてきました。
僕は立っている場所を子供に譲って、自転車に乗ってこの場所から離れました。
鴨たちはどうするんだろうと思って振り返って見ていたら、鴨たちもそこから離れていきました。
子供は、残念という顔をしていました。
母親は、ちょっと不思議そうな顔をしていました。



その次の日の夜、撮った写真の編集が終えた後、ガヤトリーマントラを唱えながら瞑想していたのですが、半年程前にこの鴨たちのことを書いた記事にELRANTEさんという方から「AMENOMINAKANUSINOMIKOTO」という謎のコメントを頂いたのですが(謝)、そのことを思い出していました。
ELRANTEさんは他にもPOLICIAとかPOLICEGAIAという別の名前で投稿してくることもあるのですが、僕は相当な霊能力を持った方だとお見受けしています。

天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)とは、古事記の一番初めに登場してくる神様。
天御中主命、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)、神皇産霊尊(かむみむすびのみこと)の三柱を造化三神といい、天地開闢の時に高天原に相次いで生まれたとあります。

ガヤトリーマントラを唱えながら、あの鴨たちと天御中主命を意識した瞬間、身体中に電気が走りました。
電気が走るというのは、僕の中では、目に見えない何者かが僕に憑依をしてきている証拠になっています。
ガヤトリーマントラとは古代インドの聖典ヴェーダに書かれていたものをサイババが復活させたマントラで、古事記とは何の関係もないように思われますが、インド(ヒンドゥー教)の三大神のことを考えてみると、ちょっと見えてくるものがあります。
「ブラフマー神、ヴィシュヌ神、シヴァ神」はそれぞれに「宇宙の創造、維持、破壊」を司ります。
ガヤトリーマントラに出てくるサヴィトリー神とは光であり、その光とはブラフマー神の創造のエネルギーであり、それは「霊界の太陽」とみることもできます。
そして、ブラフマー神と天御中主命は共に創造主という位置づけなので、同一神である可能性は非常に高い。
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それはまた、当然聖書に出てくる創造主である可能性も非常に高い。
僕は聖書というのはキリスト教の本ではなく、歴史書、記録書だと考えています。
本当にあったことがありのままに記録されている本で、それをカトリックやプロテスタントが自分たちの都合のいいように解釈してしまっているのです。

今大統領選が行われていますが、トランプはプレスビテリアン(キリスト教プロテスタントの一派)、バイデンはカトリックで、討論会ではお互いにお互いのことを激しく罵り合っていましたが、本当に聖書を重んじているのならばそんなことは絶対にしない筈です。
大統領選に出馬するにはもの凄い大金が必要なので、2人とも超大金持ちですが、聖書には清貧が大切だと書かれています。
つまり、2人とも聖書に書かれていることとはまったく逆の生き方をしている訳です。

話が逸れましたが、つまり聖書の創造主とはブラフマーのことであり、天御中主命のことでもあり、またギリシャ神話のウラノスのことでもあると思うのです。
ウラノスは、全宇宙を最初に統べた原初の神々の王とされている天空神です。
ガイア(地球)の息子であると同時に夫でもあって、ガイアとの間にクロノスなどのティーターン12神をもうけました。
ウラノスは大変な遊び人だったため、末子のクロノスによってウラノスは男性器を切り落とされてしまいます。
そしてクロノスがウラノスに変わって全宇宙を支配するのですが、クロノスは時間の神でもあるので、この時から時間という制約ができた訳です。
しかし、もともと宇宙には時間など存在していないのです。
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スピ系などでは、これから「風の時代」に入るということが盛んにいわれています。
「風の時代」とは、ウラノスの時代とみることもできます。
つまり、クロノス(悪魔)の支配するこの世界が崩壊し、本物の創造主がまたこの宇宙を統治する時代がやって来るということなのかもしれません。
闇の時代から、光の時代へと移り変わるのです。

そういえば、長い間封印されていた天御中主命が解放されるというメッセージらしきものは他にもありました。
日本全国の神々が一か所に集まってくる夢を見たのですが、そこに「天地開闢」という字が浮かんでいました。
つまりあの夢は、天御中主命の復活を象徴していたのかもしれません。

あの3羽の鴨たちは、造化三神の化身・・・なんて、そんなことを言ったって誰も信じる筈もありませんが、僕の中では完全に、、そういうことになっているのです。



まったく違う話になりますが、まだ紅葉をテーマにして記事にするのは早すぎるかもしれませんが、秋が近づいてくると、よく頭の中に流れてくる音楽があります。
ポップスだと色んな曲が浮かんでくるのですが、クラシックだと決まってこの曲です。
ブラームスの交響曲第3番の第3楽章。
今日は何だか「3」という数字がよく出てきますが、、、たまたまです。

僕は小学3年生の頃、学校から帰ると真っ先にレコードプレーヤーの電源を入れて、チャイコフスキーの組曲『白鳥の湖』とブラームスの交響曲第3番を交互に聴いていました。
だいたい家に帰るとクラスの友達が僕の部屋で遊んでいて、「お前らなに勝手にひとんちに入ってるんだよ」って僕は叫ぶんですが、だから1人になれる時間ってあまり無かったのですが、誰もいなくなると必ずレコードを聴いていました。

チャイコの方の指揮者は誰だったか忘れましたが、ブラ3は中学の頃まで何回も聴いていたので、どんな演奏だったかということまでハッキリと覚えています。
カール・シューリヒト指揮の南西ドイツ放送交響楽団の演奏でしたが、今でもあのレコード売ってるのかなと思って検索してみたら、なんと売ってました!!
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クラシックLP/SPレコード情報 様 より勝手に拝借しますm(__)m



このジャケット、本当に懐かしい。↑
僕はこのレコードを何百回聴いたかわからない。

ブラームスファンの人って必ず一番好きな曲は何かと訊くとブラ1って答えるのだけれど、僕がブラ3が一番好きだというと皆一様に首をかしげます。
何だかブラ3が好きということが恥ずかしいことのように思えてきて、それからまったく聴かなくなりました。

今は便利な時代になって、お金を払わなくても幾らでもYouTubeで聴けてしまうので、色々な指揮者の演奏を聴き比べることができます。
それで気づいたのですが、シューリヒト&南西ドイツのブラ3の演奏って、ちょっと他とは違う演奏をしていたんですね。
だから皆一様に首をかしげていたのだと、つい最近やっとそれがわかったのです。
いや、それだけではなく、他にも色々なことがわかってきました。



ブラームスが交響曲第1番を着想し始めたのは22歳の時でしたが、この曲が完成するまでになんと21年もの長い時間を要しています。
それはブラームスが「何よりも自らが交響曲を書く限りはベートーヴェンのそれに比肩しうるものでなければならない」と考えていたからです。
交響曲第1番が初演された時、第4楽章のテーマがベートーヴェンの第9と似通っていることを指摘され、それに対してブラームスは極めて不機嫌そうに「そんなことは、聞けば豚でも分かる!」と言ったそうです。
ハンス・フォン・ビューローは「ベートーヴェンの交響曲第10番」と呼んで高く評価しましたが、しかしブラームス自身はどこかベートーヴェンの「二番煎じ」のように感じていたのかもしれません。

この間、Eテレのクラシック音楽館 ベートーヴェン特集(1)で、指揮者の広上淳一氏が「モーツァルトは聴きながらワインが飲めるけれど、ベートーヴェンを聴きながらワインは飲めない。背筋をピンと伸ばしちゃう」というようなことを仰られていたのですが、ベートーヴェンにはそういう敷居が高いという感覚があります。
ブラ1もまさにそれです。
だからブラームスが苦手という方も結構多いのですが、それはブラームスの代表作が交響曲第1番だからというところからきているのかもしれません。

交響曲第2番は第1番とは対照的に、約4か月という短い期間で書き上げていますが、これは交響曲第1番の作曲中にも準備が進められていたという説もあって、ある意味、まだベートーヴェンの影が色濃く残っているといえます。
この時はまだ、自分の交響曲のスタイルを暗中模索していた時期だったのだと思います。

そして交響曲第3番によって、完全にベートーヴェンの呪縛から切り離され、自分の交響曲のスタイルを見事なまでに完璧に確立したのだと思うのです。
しかし、多くの演奏者たちは相変わらずベートーヴェンが色濃く残こっているような演奏をしてしまっている。
敷居が高くて襟を正して背筋をピンと伸ばして聴かなければならないような、そんな演奏ばかりしているから、このブラ3は人気がないのです。
しかし、このブラ3はむしろモーツァルトに近いと僕は思っているくらいで、ワインでも飲みながら聴きたいような音楽だと思っています
モーツァルトの肩には神が降りてきていたようですが、ひょっとしたらブラ3を作曲している時、ブラームスの肩には神が降りてきていたのかもしれません。

フルトヴェングラーのブラ3は、まさにベートーヴェンの延長線上をいっている代表例です。
その正反対がカラヤンで、本当に笑ってしまうほど軽い。
ベートーヴェンの呪縛はまったく無くなったけれど、逆にあっさりしすぎていて味気ない。
シューリヒトの演奏は、その絶妙な線をいっていたのです。
重くなく軽やかで、だけど重要なところは実に濃厚、、、こういった演奏は他には無かった。



今でも人気のないブラ3ですが、第3楽章はとても有名で、ポップスや映画にも使われています。
バルビローリ指揮のウィーン・フィルの演奏を引っ張ってきますが↓、ブラ3全体を聴いてみたら、やっぱりバルビローリもフルトヴェングラー的な演奏をしていました。
しかし、第3楽章は逆にその濃厚さが良い方に向いていて、素晴らしい演奏になっています。
バックの秋の景色と相まって、何だか涙が出てきます。



勝手に拝借しますm(__)m




この曲を元に、フランク・シナトラが『Take My Love』という曲を歌っています。
なかなか素敵な動画だったので、引っ張ってきます。↓



勝手に拝借しますm(__)m




『さよならをもう一度』という映画にも使われています。↓
原作は、フランスの作家フランソワーズ・サガンの『ブラームスはお好き?』Aimez-vous Brahms ? (1959年)です。
この映画にはイングリッド・バーグマンやイヴ・モンタンやアンソニー・パーキンスが出演していて、第14回カンヌ国際映画祭においてアンソニー・パーキンスが男優賞を受賞しています。



勝手に拝借しますm(__)m




そういえば、確か中学生ぐらいの頃だったか、僕はフランソワーズ・サガンに傾倒していた時期がありました。
サガン独特の透明感がなんともいえず好きで、『悲しみよこんにちは Bonjour Tristesse (1954年)』とかを何度も読み返していました。
サガンの世界観とブラ3の世界観は、どことなくマッチしているように感じるのです。


ところで、YouTubeでシューリヒト&南西ドイツのブラ3Finale & Haydn Variations)を探してみたら、なんとつい最近アップされていました。
早速聴いてみましたが、針音とかのノイズが凄くてとても聴けたものではありません。
他の指揮者でシューリヒトに近い演奏している人いないかな?と思って探していたら、ありました。
ミヒャエル・シェーンヴァント指揮のオランダ放送室内フィルハーモニーの演奏です。↓
指揮者の名前もオケも、僕はまったく聞いたことがなかったのですが、探せばあるものですね。
シェーンヴァントさんがこの曲をもの凄く研究されてきているのを、指揮ぶりでわかりました。
オケの演奏も実に丁寧。
本当に、やっとこんな演奏に出会えたという感じです。



勝手に拝借しますm(__)m




これほどまでに宝石のように美しい曲が他にあるだろうか?
この演奏を聴いて、僕は改めてそう思うのです。
神は細部に宿る・・・
この曲を聴いて感動できる人は、きっと神を知っている人です。
そして、波動の高い人です。
心が汚れてしまった人も、この曲を聴いて感動することができたのなら、きっと心の汚れは浄化されて清らかになっています。

ああ、でも小学3年生の頃から僕は繰り返し聴いていたから、心がちょっと奇麗になり過ぎて、それでこの世の中がとても生き辛く感じていたのかもしれない。。。
黄昏という言葉がぴったりくる曲だから、年を取ってから繰り返し聴くべきだったかな?



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2020090901
前回の記事は、かなり波動が低かったですね。
写真かなぁ~?
文章に間違いがないか確かめるために、時々自分が書いた記事を読み返しているのですが、前回の記事は読んでいるうちに吐き気を催すほど気持ち悪くなってきました。
もう、自分の記事なのに、ページを開くことさえできません。
いったい何なのでしょうか?
鬼の呪い?
それとも、この土地にかけられている呪術とか怨霊なのでしょうか?

ブログ全体があまりにも波動が低くなってしまったので、今日の冒頭の写真は波動の高い蝶にしました。
このキチョウさん、どんなに近づいていっても逃げません。
手に乗るんじゃないかと思い、手をゆっくりと蝶の頭のあたりに近づけていっても逃げなくて、僕の手が蝶の足に触った瞬間に飛んで行ってしまいました。
キチョウなんて日本中どこでも見られますが、このキチョウにはメッセージ性を感じていて、僕にとってはホントに貴重(笑)な体験でした。
今日は、波動の高い記事にしていこうと思っています。
2020090902
花というのは癒されるだけでなく本当に波動が高いので、花を愛でたり、それこそ花と会話なんてしていると自分の波動も高くなってきます。
自然は地球の波動に合わせて生きていて、しかも地球はどんどん次元上昇していっているので、自然と触れ合うと自分の身体も地球の波動の変化に順応していくのです。

そんな感じで、また水元公園までサイクリングを始めています。
蝉の季節は終わり、夕方頃には秋の虫が聞こえてきます。
もうススキが咲いています。
2020090903
そういえば、今年はまだ日本には1つも台風が上陸していません。
年々台風は巨大化していて、毎年甚大な被害をもたらしていくのに、、
この間の台風10号は九州をかすめて北上していきましたが、上陸はしていません。
朝鮮半島南東部に上陸したので、韓国とか北朝鮮の方が大変だったかもしれません。
もう9月だというのに、日本に1つも台風が上陸していない年なんてあっただろうか?
また、なぜそれをみんなは不思議に思わないのか・・・?

逆に、中国の長江流域を中心に、今現在も雨は降り続いているそうです。
これが気象兵器だとすれば、これまでずっと日本にもたらしていた台風を作るエネルギーを、全部中国に注ぎ込んでいるのかもしれません。
台風10号も、韓国か北朝鮮を狙ったのか、、、?

このまま台風が上陸しなければ、今年は塩害の被害にあわないことになるので、東京でも紅葉が例年になく奇麗かもしれません。
でも、これから世界情勢は混沌としてくると思われるので、紅葉どころではなくなってしまうかもしれませんが、、、
2020090904
さて、今日、日本中の神様が一か所に集まっているという夢を見ました。
その場所は、淡路島だったような気がします。
そして同時に、「天地開闢」という字が浮かんでいました。
これなんて読むんだ?なんて思っていると、「てんちかいびゃく」という言葉が浮かんできました。
夢から覚めた時に忘れてしまうといけないので、僕は「天地海百」と覚えていました。

もしネットで調べて「てんちかいびゃく」なんて言葉がなかったら、これはただの夢ということにしよう。
でももしあったのなら、これはただの夢どころではなくて、完全に何かのメッセージだ。
「てんちかいびゃく」なんて言葉、聞いたことがない・・・
そう思いながらPCを開いてネットで調べてみると、なんと「天地開闢」という言葉がありました。
(そういえば、学校で習った気もしますが...)

Wikipediaによれば、こうです。
天地開闢(てんちかいびゃく)とは天地に代表される世界が初めて生まれたときのことを示す。
一般に、日本神話の天地開闢といえば、近代以降は『古事記』冒頭の「天地初発之時」(あめつちのはじめのとき)が想起される。
世界の最初に、高天原に相次いで三柱の神(造化の三神)が生まれた。

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
神産巣日神(かみむすひのかみ)

『日本書紀』における天地開闢は渾沌が陰陽に分離して天地と成ったと語られる。
太古、天地は分かれておらず、互いに混ざり合って混沌としていた。
しかし、その混沌の中から、清浄なものは上昇して天となり、重く濁ったものは大地となった。
そして、神が生まれる。
天地の中に葦の芽のようなものが生成され、神となる。

国常立尊(くにのとこたちのみこと)
国狭槌尊(くにのさつちのみこと)
豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)

さて、困りました。
これは相当に重要な夢です。
いったい、これをどう解釈すべきなのか?
天と地の2つに分かれるということで、これは二極化を意味しているのか?
それとも、ノアの大洪水のようなことが起こり、また「天地開闢」からすべてをやり直すということなのか?
古事記には、天之御中主神は冒頭の「天地開闢」以外には登場してこないようです。
つまり、天之御中主神が再び降臨するということが考えられます。(もしくは国常立尊)
いや、もう既に天之御中主神は降臨していて、日本中の神々を淡路島に呼び寄せて会議でも行っているのかもしれません。
これから世界をどうするのかを・・・



日月神示には、9月と10月に気をつけろと書かれてあるので、これからガヤトリーマントラを2マラ唱えることにしました。
マントラ効果の期限は12時間なので、本当は朝と夜の2回唱える必要があったのですが、今までは1日に1回1マラだけでした。
これだと、悪魔や悪霊が入り込む余地を作ってしまうことになります。
これから大峠を迎えるにあたって、マントラ効果を最強にして鉄壁の結界を作ろうかと・・・

1マラは108つで、それを朝と夜の2回、それと自分を清めるマントラを(9×2)回。
3回唱える度に必ずシャンティ×3をつけます。
(108×2)+(9×2)=234
シャンティ×3 を唱える数は
(108÷3)+(108÷3)+(9÷3)+(9÷3)=77
1日にこれだけ唱えれば鉄壁だと思います。
それにあと冷水行と瞑想をする時間を加えると、要する時間は約3時間なのですが、結構な荒行です。
(もちろん修行僧はもっとですが・・・でも肝心なのは祈る人の器とイメージ力)
あとは、何かを要求したり期待したりしてはいけません。
すべてを神に委ねます。

今の人間というのは、人間が本来備わっていた能力を悪魔に奪われてしまった存在です。
その能力を開眼させるのは、並大抵のことではありません。
しかし、その能力を開眼させるか否かは、悪魔の奴隷のままか、奴隷から解放されるかということに繋がってくるのではないでしょうか?
僕の勤めは、できるだけ地球の奴隷たちを目覚めさせて解放させてあげることなのかもしれません。
イルミの勢いが弱まり、二極化が進んでいる今が最大のチャンスなので、結界を作り、奴隷解放の道を築いていこうとしているのです。
誰もそうは思っていないかもしれませんが、僕の数々の不可思議体験を辿っていけば、そういうことになるのです。
もちろん僕だけでなく、世界中にクリスタルチルドレンやレインボーチルドレンがいて、彼らや彼女らの役目も同じく、波動を上げて地球を解放させることなのだと思います。
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悪魔とは何者なのか?
旧約聖書によれば、ノアの息子ハムの妻は悪魔の血が混じっていたようです。
ノアはこう言いました。
「カナンは呪われよ」と。
カナンとは、ハムの末っ子です。
ノアには、セム、ハム、ヤペテの3人の息子がいて、セムはアジア人、ハムは黒人、ヤペテはヨーロッパ人になったといわれています。
だから、クリスチャンの国アメリカでは、黒人が迫害されているのです。
悪魔の血の混じった黒人は人間ではないから、殺しても構わないと、、、
しかし事実は違います。
ハムの本当の子孫は、一部の白人です。
僕がよく記事にしているイルミのことです。

白人だけではなく、日本にもいます。
失われたイスラエル十支族と共に入って来た中国人です。
彼らは最初は中臣と名乗っていましたが、のちに藤原と名乗るようになります。
藤原氏は物部氏と蘇我氏と秦氏、それに聖徳太子が加わった連合軍と戦争して勝利します。
歴史は勝者によって作られるが如く記紀によって歴史を改竄し、丁未の乱(ていびのらん、物部守屋の変とも)を物部氏と蘇我氏の戦い(神道vs仏教)にしてしまいました。
そして天皇家に近づき、セムから続く正統な血筋に悪魔の血が混じってしまいます。
しかし、それは表の天皇。
裏天皇というのが存在していて、秘密結社ヤタガラスによって裏天皇は守られてきたとのこと。
流石の悪魔も、ここまでは考えが及ばなかった。
(明治天皇の時に入れかわったのか?はたまた、まだ裏天皇は表に出てきていないのか?)

これらの悪魔の血筋の大本は何だったのか?
バベルの塔を建設しようとしたニムロド、カナン、そしてハムの妻、その前はいったい何だったのかということですが、、
それが、僕が何度もこのブログで記事にしている低次元宇宙人だということ。
最初に低次元宇宙人が介入してきたのがアトランティス。
レムリアとの戦争でアトランティスは滅び、悪魔とはその生き残りと考えることができるかもしれません。
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Quora 様 の記事より勝手に拝借しましたm(__)m



神とか悪魔とか、色々と書いていますが、信じる信じないではなく、結局はそれを一人ひとりがどのように捉えるのかということなのです。
無理に波動を上げようとしても無理です。
それは求めれば求めるほど、逆に離れていきます。
前述したように、要は祈りの深さと神に身を委ねる気持ちなのです。

いったい求めているものが何なのか?
それが自分だけの幸せなのか、みんなの幸せなのかでは、祈りの質がまったく違います。
たとえどんな悪であろうとも、同じ地球人であることには違いなく、悪魔の血を引く者だからといって差別するなんてことは我々には許されていないのです。
善人の中にも悪が存在するように、悪人の中にも善は存在します。
本当に悪の存在しない善人は、きっと神(高次元の存在)しかいません。
自分の中の闇を認識し、それと真正面から向き合い、それを赦したその先に光があるのです。
人間の心の闇が深ければ深いほど、その光はより強く輝きを放つのです。
要は、自分の中の悪に気づくことなのです。
そのことに、僕に憑りついた鬼が気づかせてくれたような気がしています。



光明皇后のことを思い出します。
悪名高き藤原四子( 藤原不比等の息子たち、武智麻呂・房前・宇合・麻呂 )は、妹の光明子(のちの光明皇后)を聖武天皇の皇后にしようとしますが、長屋王は王族以外から立后することに反対します。
そして、長屋王は藤原四子の画策で濡れ衣を着せられ、聖武天皇の皇太子を呪い殺した廉(かど)で処刑され、長屋王の家族も皆殺しにされてしまいます。
大伴旅人は大親友だった長屋王がこのような形で殺されたのを酷く悲しみ、それで万葉集の「梅花歌」を作ったといわれています。
その「梅花歌」からとったのが「令和」という元号でした。
それからおよそ1300年が経ち、今現在の元号が「令和」であるということは、そこにはきっと深い深い意味が込められているのです。

藤原四子の行いを見ていると、流石は悪魔の血の混じったカナンの子孫たちと思うことばかりですが、妹の光明皇后は兄たちとは正反対だったようです。
聖武天皇の皇后となったあと、貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善を行っています。
夫の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創設され、さらに興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わりました。
奈良の法華寺には、光明皇后がライ病患者の膿を吸って吐き出したという浴室が残されているそうです。
仏教に篤く帰依したといわれていますが、光明皇后は仏教にはない「罪」の観念と「悔過」(悔改め)の観念を非常に重んじていたようで、当時日本に伝来していたネストリウス派キリスト教(景教)に影響された結果だとも考えられています。
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ねずさんの学ぼう日本 様 より勝手に拝借しましたm(__)m



このコロナ禍で、神々は人間たちをどのように判断したのでしょうか?
自粛警察なんてやっていたら、人間はそれこそ淘汰されてしまいます。
この宇宙は「愛」と「調和」で成り立っています。
人間がこの宇宙にとって相応しいかどうかは、結局「自分軸」か「他人軸」かということなのかもしれません。
聖書というのは、あれは日本人のことが書かれているのです。
日本人とチベット人と一部のパレスチナ人しか持っていないYAP遺伝子はKind遺伝子とも呼ばれ、優しい心を持った民族なのです。
レムリアの想いを受け継いでいる民族なのです。
この愛の波動というのは、地球全体に広がっていきます。
この世界は、本当の意味で、いずれ善も悪も無くなるのです。



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本物の神様は、自分のことを神様と呼ばれるのを嫌っているのかもしれない。
ずっと前からそんな気がしていたのだけれど、 今日太陽を見ていた時にまたそんな感覚がありました。
随分と威張っている神様もおられますが、そういう神様はおそらく本物ではない。
古事記で最初に登場してくる天之御中主神は、最高神でありながら天地創世の後にすぐに隠れてしまいました。
極めて謙虚なのか?
ただの恥ずかしがり屋なのか? (笑)

明日と明後日は台風が来そうなので、今日の内にいっばい太陽に浴びてこようと思って、またいつものように水元公園までサイクリングしてきました。
ベルさん(UFO)は登場してきませんでしたが 、どうも僕の感覚がいつもと違っていてなぜかすごく敏感になっていました。
森の中にいくつかテーブルと椅子があって、そこはだいたい人が沢山いるのだけれど、今日は空いている席もあったので、そこに座ってしばらく周りの木々の美しい景色を眺めていました。


昔から僕は、木というのは地球の電波塔で、神聖なものだという感覚がありました。
旧約聖書の『創世記』には、生命の木と知恵の木という2本の木が登場してきます。
生命の木(タロットやカバラのセフィロトの樹と同じ)の実を食べると、神に等しい永遠の命を得るとされました。
神(ヤハウェ・エロヒム)が知恵の木の実を食べるのを禁じたのは、知恵の木の実を食べた人間が、生命の木の実までも食べて永遠の生命を得て、唯一絶対神である自身の地位が脅かされることを恐れたためだといわれています。
知っての通り、蛇に唆されてイヴが知恵の木の実を食べ、そしてイヴの勧めでアダムも知恵の木の実を食べたことによって善悪の知識を得て、それを知った神はアダムとイヴをエデンの園から追放してしまいます。

しかし考えてみると、蛇の誘惑によって人間は善悪の知識を得ることができたのだから、実は蛇は人間を助けた良い存在なのではないかという感じもしてきます。
それはギリシャ神話に登場してくるプロメテウスに準えることもできます。
ゼウスの反対を押し切り、プロメテウスは天界の火を盗んで人類に与えました。
そのお陰で人類は暖をとることができ、調理もできるようになりました。
しかし、製鉄の発展などによって兵器を用いた争いの原因にもなりした。
それが現代でも、核の脅威となってしまっている訳です。
神の知恵を授かるには、人類はまだ幼すぎるということなのかもしれません。

キリスト教では、知識を悪としています。
しかしこれは、核の脅威とはまったく別の意味で使われます。
上部の僧侶のみが知識を得ることが許され下部の者が知識を持つことを許さないとしたのは、支配者が支配しやすくするためでした。(カースト制度もそうです。)
考えてみると、それは今も昔も変わりありません。
テレビで、真実が伝えられることはありません。
闇の勢力が世界を牛耳っているなんて真実は、誰だって口が裂けてもテレビでは言えません。
しかし偽情報ではなく、真実を知ることこそが人類の進化に繋がっていくことは言うまでもありません。


生命の木と知恵の木というのは象徴的なものなのかもしれませんが、僕は木というのは無闇に切り倒してはならない神聖なものだと思っています。
木は、多次元にまたがって存在しているのではないかと・・・。
(もちろん、山を守るための伐採(間引き)などは必要ですが)

諏訪大社の御柱祭は象徴的です。
久保有政氏の著書「日本の中のユダヤ文化」では、「この諏訪大社に伝わる“柱(ハシラ)”信仰とは何なのか。古代イスラエルには“アシラ”信仰と言うのが有った。これはアッシリアから来た異教信仰で、女神アシラを崇拝するもので、そのシンボルは“柱”であった。」とあります。

また小石豊氏の著書「古代出雲イスラエル王国の謎」では、「柱を山から滑り落とす儀式は、ユダヤ王国のソロモン王が神殿を立てるとき、(レバノンの)ツロのヒムラ王からレバノンの杉の木を買い取って、遠路エルサレムまで運んだ大事業の伝承に由来するのだろう。巨木を積んだ筏はツロの辺りから海路を下り、ヨッパから陸揚げされて、陸路を延々とエルサレムまで運ばれ、ソロモンの宮殿に建てられたのだ。(列王記I第5章2節、8~10節に記述)」とあります。

僕は一神教のユダヤ教は悪神の宗教だと思っています。
木は地に生えているからこそ神聖なのであって、木を切り倒して神殿を建てるなんてことを本物の神は要求しないと思います。
イエスは神殿の両替商を見て、憤って商人たちの机をひっくり返しました。
リン・ピクネット他著「マグダラとヨハネのミステリー―二つの顔を持ったイエス」(三交社)には、こう書かれています。
「このイエスの行動は、神聖な場所が金融取引で汚される戦慄感によると説明されるのが普通であるが、これはきわめて西洋的で現代的な見方である。エルサレム神殿に捧げる動物を買うために両替するのは、腐敗でも悪弊でもなく、この場所での礼拝に欠かせない要因であった。これは『エルサレム神殿の存在そのものに対する攻撃・・・この神殿が表わすものすべてに対する象徴的な拒絶』である。」

またこの本では、イエスはユダヤ人には違いないけれどユダヤ教徒ではなく、エッセネ派だったとしています。
エッセネ派というとクムラン教団が書いた死海文書を思い出しますが、イエスはそこで魔術を学んだと書かれています。
エッセネ派はユダヤ教とはまったく別のミトラ教の流れを汲んでいたとされます。
そういえば、ミトラ教はキリスト教と瓜二つの宗教でした。
不思議なことですが、まったく同じことが2回あったということです。
しかし重要なのは、イエスはユダヤ教とはまったく関係がなかったということです。
それだけではなく、イエスはエルサレム神殿が表わすものすべてに対して拒絶していた訳です。

聖書は色々な人たちの手によって書き換えられ、悪魔の書となってしまいました。
イエスがエルサレム神殿を拒絶したように、現在のすべての教会も汚れた存在だといえるのかもしれません。
そういえば、隠れ切支丹で有名な長崎の大浦天主堂が世界遺産の候補になっていますが、これも不思議な話しです。
なぜ、豊臣秀吉や徳川家康はキリスト教を禁止したのか?
また家康の跡を継いだ秀忠や家光の時代になって、なぜあれほどますます厳しくなっていったのか?
当時のキリスト教は次々と他国を植民地化し、他国の文化や宗教を壊していったからというのもありますが、それだけではないと思います。

徳川家康は賀茂氏の出の可能性が高いです。
賀茂氏のもとは、秦氏です。
秦氏はヘブライで、原始キリスト教を日本に持ってきました。
それ以前に日本にいた物部氏は、旧約聖書を持っていました。
つまり、物部氏はユダヤの血の儀式をずっとやっていました。
諏訪大社の御頭際は、その名残です。
御柱祭も前述したように、古代イスラエルの女神アシラを崇拝する儀式の名残です。
秦氏は、物部氏のユダヤの血の儀式を禁止しました。(諏訪大社だけは許された)
そして、血の儀式をやっている所がないかを監視する役目をする秦氏が、賀茂氏になりました。
それを、賀茂祢宜(かもねぎ)といいます。
賀茂氏でもある徳川家康は、どうもそれを知っていた可能性があります。
ユダヤ教は悪魔崇拝教であり、キリスト教カトリックもそのユダヤ教の流れを汲んでいると考えたのでしょう。
神道が原始キリスト教だということも、知っていたかもしれません。
神道はアニミズム信仰で、植物や動物や岩や土地にも神聖なものが宿ると考えます。
イエスは、実はアニミズム信仰を広めようとしていたのだと僕は考えています。
つまりイエスの教えを忠実に守っているのが、神道なのです。
2017082509
今日はどうも僕の感覚が敏感になりすぎてしまっているのか、森の中のテーブルの席について辺りを見回していたら、木の一本一本が生きた御柱となってとてもとても神聖なものに感じられるようになりました。
しばらくそうしていると、一羽のカラスが僕の近くをゆっくり歩いて横切っていきました。
そのカラスを可愛いなと思いながら見ていたのですが、何だか急に更に敏感になってきて、周りの景色に異次元的なのもの感じた瞬間、僕の頭上にとんでもない数のカラスが飛んできて、もう周りはカラスだらけになりました。
僕以外にも人が何人かいたのですが、周りにいた人たちもみんな突然こんなに沢山のカラスが飛んできたので、不思議そうに辺りを見回していました。
どうやら僕は、カラスたちを呼び寄せてしまったらしい。

僕は席を立って、カラスたちに奇跡を起こしてくれたことを感謝しながら、また自転車に乗りました。
森の中をサイクリングしていても、木々から放出されるエネルギーが感じられます。
運転中に危険だけれども、メガネを取ってみました。
景色がボヤけることによって、目から入ってくる映像に誤摩化されることなく、より強く木々のエネルギーを感じることができます。
(もちろん、草やキレイな花からも感じていました。)


レンズを通していない、直に入ってくる光の心地よさ
そして、まるで生きているような意志を持った風が、僕の身体を包み込む
今この時を、この瞬間を、強く意識する
さっきのカラスの奇跡をどう捉えよう

カラスは神の使いだと、ある人は言う
神でなく、極めて謙虚な・・・大いなる宇宙の意志とでも言おうか
そういえば、それをサムシング・グレートと呼んだ方もいた

カラスはあの世とこの世を行き来しているのだという
カラスはすべてのことを知っている
カラスは地球の本当の歴史を知っている
木ともサムシング・グレートともコミュニケーションがとれるカラスたちに、きっと知らないことはない


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下諏訪から中央本線の上り電車に乗って2駅目の茅野で下車して、そこからバスに揺られて数分・・・なのだけれど、地図を見たらけっこう歩けそうな距離だったので、茅野駅から諏訪大社上社前宮まで歩いて行きました。
しかし実際に歩いてみると、これがかなり大変。
途中で雨が強く降ってきたり、道にも迷ったりしたし・・・。
それでも、なんとかかんとか到着。
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最初「えっ!ここなの?」と思ってしまうほど、前宮の拝殿は他の3社と比べてかなり小さく、これは一番最初に造られた最も古い神社なのではないかと思いました。
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本当に自然の中にひっそりと佇む神社という感じがあって、↑の清流で手を清めてからお参りをするというのも、どこか伊勢神宮内宮の五十鈴川岸の御手洗場と繋がってくる気がしてきます。
自然のパワーを取り入れているというのは、きっと伊勢神宮と同じだと思います。
この御柱↑を神様として崇めているのだから、まさに自然崇拝、アニミズムだと思います。
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そして、前宮へと続く参道の坂道を登る途中で見かける十間廊(じっけんろう)↑。
これが古代イスラエルの幕屋と大きさ、方角、使い方などが同じということで、日ユ同祖論の大きな決め手となっています。

十間廊
古くは神原廊と呼ばれ中世まで諏訪祭政の行われた政庁の場ですべての貢物はこの廊上で大祝(おおほうり)の実見に供された。毎年4月15日の「酉の祭(御頭祭)」には鹿の頭75がそなえられたが、これらの鹿の中には必ず耳の裂けた鹿がいるとから諏訪七不思議にかぞえられた。上段に大祝の座、次に家老・奉公・五官の座があり、下座に御頭郷役人の座なども定められ、左手の「髙神小屋」で演じられる舞いを見ながら宴をはった。(案内版より)

動画を観て頂くのが一番手っ取り早いので 、またYouTubeから引っ張ってきます。
 


諏訪大社の御柱祭・御頭祭・御神渡り・十間廊などを見てみると、諏訪と古代イスラエルが繋がっている可能性はかなり濃厚になってきますが、しかし諏訪の守屋山は諏訪大社の御神体ではない訳ですし、物部守屋(もののべのもりや、生年不詳〜587年、飛鳥時代の有力豪族)から取って守屋山と名付けられた可能性もあります。(エルサレムのモリヤ山からではなく・・・)

しかし、前宮本殿と守屋山の中間あたりに物部守屋神社というのがあるのがどうも気になります。
↓の地図には書いてありませんでした。
その書いてないということが、なにやらニオうのです。
日本書紀に登場してくる物部守屋という人物は、藤原不比等によって改竄されている可能性があります。
縄文人(物部氏)のルーツが古代イスラエルにあるという証拠を消すために・・・。
しかし伝統の中に、諏訪の昔の人々はルーツの痕跡を残してきた・・・ということなのかもしれません。
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諏訪大社上社前宮から本宮まで、また歩くことにしました。
なかなかの距離があります。
お勧めできません。(苦笑)

本宮まであと少しという所で石清水↓と書いてある休める場所があったので、雨でぐしゃぐしゃになった地図をリュックの奥の方に入れたり(道はだいたい分かったので)、雨よけのカメラに巻くタオルを取り出したりしていると、メガネをかけた黒いコートを着た人が近くをウロウロしているのに気がつきました。
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準備を整えて「さて行こう!」と思った瞬間に、黒いコートの人も歩き始めました。
しばらくその黒いコートの人は僕の目の前を歩いていましたが、途中で曲がって急な階段を登り始めました。
見ると北斗神社と書いてあり、天御中主命(北極星)を祀るという文字を見て「わー、ここもお参りしなきゃ!」と瞬間的にそう思いました。
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「先に本宮の方をお参りしてきますので、帰りに必ずここに立ち寄ってお参りしますので、しばらくお待ちください。」と心の中で誓って、ここを立ち去りました。
不思議なもので、もしバスに乗っていたら北斗神社の存在すら知らなかっただろうし、黒いコートの人が↑の様にこの階段を登っていなかったら、そのまま通り過ぎていたと思います。
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やっと本宮に辿り着いて、参拝も済ませてきました。
とても立派な社殿でした。
これで諏訪大社二社四宮すべてを参拝してきたことになります。

来年、七年に一度の式年造営御柱大祭があるそうです。↓
太古の昔より続けられてきたこのお祭りも、さらに遡るとひょっとしたら古代イスラエルに繋がってくるのかもしれないと思うと感慨一入です。
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しかし、まだやらなければならないことが残っています。
そう、この階段を登らなければ・・・。↓
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雨で滑りやすくなっている上に、足に疲労がたまっていたので、相当にコワかったです。(中ぐらいの所にぐらついている石もありました。)
上にやっとのことで辿り着き、脇の蚕玉社を祀った御堂に腰を掛けて、一休みしてから北斗神社にお参りしました。
お参りしている時も、立っていられる様なスペースがなくてコワかったです。
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あらためて登ってきた階段を上から覗き込んでみました。↓
いやはや、こんな所をよくぞ登ってこれたものです。
降りるのも大変でした。
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この時は色々と考える余裕もなかったのですが、後でネットで調べてみると、興味深いことが幾つも出てきました。
祠の左端の灯籠には「奉献泰一社・物部安貞」と書いてあるそうです。
右側の身舎(もや)側面には「守屋氏」と刻まれているそうです。
ここにも「物部」と「守屋」が登場してきます。
そう、物部守屋神社と繋がってきます。

また、御祭神である天御中主神は古事記の一番最初に登場してくる神様ですが、北の空に輝く北極星にも象徴されていて、神仏習合の時代には北辰妙見菩薩とされていたそうです。
古代中国で北極星(北辰)は天帝(天皇大帝)と見なされていて、そこへ仏教思想が流入して妙見菩薩となったそうです。
(因みに、明治の廃仏毀釈によって妙見信仰は現在なくなっているそうです。)
妙見とは、優れた視力をもって善悪や真理をよく見通す者ということらしいです。
僕にはどうも、こちらの神社の方が本物の様な気がしてくるのです。



当然、僕はここで異星人到来説を掲げたいと思います。
異星人が最初にこの地球に来た時に地図を作成するとしたら、まず一番見やすい自転軸、つまり北極星を中心にすると思います。
そこから自分たちの故郷の星の位置を確認していた訳です。(因みに歳差運動があるので、昔の北極星は別の星でしたが・・・)
そして、その中心となる北極星を最高神とした訳です。

明らかに異星人たちは、様々な場所に我々現代人に向けてのメッセージを残しています。
はやし浩司さんは、飛鳥の酒船石は異星人によって造られた北極上空から見た世界地図であることを発見されました。
益田岩船も同じく、異星人によって造られたオベリスクの様なものだと主張されています。
これらの遺跡も、一種のメッセージなのかもしれません。
それは名を変え形を変え、神社やお寺の中で生き続けているのかもしれません。
妙見信仰もきっとそうです。

あの御柱祭の柱は古代イスラエルではアシラという女神であって、またそれは飛鳥でもあり、ナスカでもあり、阿修羅でもあり、アシュターという宇宙人でもあるのです。
アシュターはグレイのボス的存在で、地球人を騙したり拉致したりしているあまり良くない宇宙人なのですが、この様にいい意味でも悪い意味でも異星人たちは古来より人類に深く干渉し続けてきたのです。
例えば御柱祭や御頭祭というのは、あまり良くない宇宙人の魂を鎮めるために行われてきたのではないかという気がするのです。
(でもだからって、お祭りや参拝するのが良くないということではありません。平将門の首塚や菅原道真の太宰府天満宮と同じで、悪い霊を良い霊に変えてその土地を護らせているということだと思います。)

我々人類は猿から進化してきたと学校で習ってきたとは思いますが、しかしその決定的な証拠は実はまったく見つかっていません。
色んなことを踏まえていくと、むしろ人類は宇宙からやってきたと見る方が自然なのです。
我々は、ある任務を遂行するために地球にやって来たのです。
しかし、それを阻止しようとする宇宙人もいるということなのです。
地球はいま、一つの通過儀礼を体験しつつあります。 
あなた方も地球の一部ですから、通過儀礼を体験しつつあります。 
あなた方は地球のあり方から離れることはできません。 
地球はみずからを変革し、太陽系にドミノ現象を引き起こす存在になろうと意図しています。 
地球はさまざまな世界を一つに融合させ、これらのすべての世界が存在できるための安定した基盤となり、その体験を説明しようとしています。 

これが今地球がやろうとしていることです。 
ですから、もちろんあなた方も同じことに取り組まなければなりません。 
3次元の世界は次元の衝突に向かって進んでいます。 
世界の衝突ではなくて、次元の衝突です。 
さまざまな次元がぶつかりあうことになるでしょう。 
これらの次元の中には恐ろしいように見えるものもあることでしょう。 
あなた方にとっての試練、あるいは通過儀礼は、一見信じられないほど暗いエネルギーないし存在と対峙し、“彼らがあなたの一部である”がゆえにあなた方と一体になるためにやってきたことを理解することです。 

光の家族は作戦本部、つまりこの宇宙の中心にあって放送局の役割を果たしている場所から派遣されて来ています。 
あなた方の銀河系にはいくつもの太陽があり、この宇宙には中心に一つの太陽があります。 
マヤの人々はこの中心にある太陽を「アルシオン」と呼びました。 
他の民族はそれを異なる名前で呼びました。 
太陽には光があり、光は情報を持っています。 
光の家族のメンバーは宇宙の情報の貯蔵場所から来ているのです。 

あなたがたの意識が現実を創造し、操作し管理する法則をマスターすると、あなた方が選択するどのような形にもなることができます。 
土着文化の教えの一つはどのようにしてさまざまな現実の中に入っていき、どのようにして形を変えるかということでした。 
ある種の土着文化においては、シャーマンはこれが出来るがために畏敬されていました。 
かれらは魔術と神秘的な力を身につけており、そのプロセスを守り、伝えました。 
彼らはさまざまな動物に変身して、あるいはその他様々な形に身を変えて移動する能力を身に着けていました。 

これはまことに深遠な科学であったのです。 
光の家族の物語、わたしたちは、「正義の味方、帰って来た白Tシャツ」と呼んでいるのですが、これこそあなた方の正体です。 
あなた方はコミットしています。 
そのコミットとは、ある仕事を達成することであり、任務につくことであり、地球に何をしにやってきたかを思い出し、かつその任務を完了することです。
(プレアデス+かく語りき・地球30万年の夜明け/バーバラ・マーシニアック著より) 



北斗神社の祠を支えているコンクリートの平らな所に、一握り分のお米が置かれていました。
お供えするというよりも、粗末にただ置いてあるという印象を受けました。
おそらく、あの黒いコートの人が置いていったのだと思います。
お金ではなくお米を置いていく行為などを考えてみると、やはりあの黒いコートの人は人間の姿に変身した異星人なのではないかという気がしてくるのです。

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奈良から関西本線、中央本線と乗り継いで、下諏訪に着いたのが17時頃。
目的は諏訪大社二社四宮をすべて参拝することと、故岡本太郎さんが大絶賛したという万治の石仏(まんじのせきぶつ)に会うこと。

とりあえず宿を探して中に入ると、その宿で「んっ?」と思うことがありました。
部屋の名前が「紫雲」でした。
言葉の意味を調べてみると『紫色の雲。念仏行者が臨終のとき、仏が乗って 来迎(らいごう)する雲。吉兆とされる。』となっています。
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僕はクリスタル・ベル(UFO)を見た後、空がピンク色に変わることがよくあります。
快晴の時にはまずそれは起こらなくて、雲が太陽に掛かったり掛からなかったりしている様な時にそれは起こります。
雲の上部の明るい所はピンク色なのですが、下部の暗い所は紫色です。
全体的には、ピンクと紫の中間といった感じに見えます。
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「これだけ客室があって、他の階の部屋にも色々な名前が付けられていて、それなのになぜ紫雲なのだろう?」
僕にはどうも、クリスタル・ベルが仕組んでいる様にしか思えなくなってきていました。

それだけではありません。
僕は寝る前にガヤトリーマントラを唱えるのですが、そのガヤトリーを霊的に表す紋みたいのがあって、その紋みたいのがなんとその宿の紋になっていました。
(この紋は武田信玄公の紋だと、後になって分かりました)
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「あぁ、導かれているんだな。」と思って感謝して、これ以上考えるのをやめることにしました。
この日泊まったのが僕と、たぶん北欧系と思われる外国の人の2人だけ。
僕はシベリウスが大好きで北欧に憧れを持っているので、これはまた・・・という感じなのでしたが・・・。
それから、ここの女将さんがまた優しくて、思わず「また女将さんに会いにきたい!」と思ってしまうほどでした。
とにかく感謝感謝の連続で、翌日宿を後にしました。


まずは、諏訪大社下社秋宮へ。
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立派な注連縄がありましたが、拝殿はこの社殿の裏にあります。
続いて春宮へ行くには、中山道を約30分ほど北西へ歩きます。
途中、江戸時代中期の作品の竜の口が見えてきます。
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そこから慈雲寺へ行く126段もある階段を少し登った所に、蚕玉神社(こだまじんじゃ)というのがありました。
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なんとも風情のある小さな神社でした。
大中小と3つ祠があるということは、これは古事記の最初に登場してくる造化三神(天御中主神・高御産巣日神・神産巣日神)を表しているのではないかと、ちょっと気になります。

諏訪大社上宮本宮の近くにも蚕玉社という小さな社殿があります。
その社殿には徳川家の「葵紋」が掲げられています。
同じく本宮の近くに北斗神社というのがあって、そこをお参りをするにはもの凄く急な階段を登らなければならないのだけれど(お参りしてきましたが、ほとんどよじ登る様な感じでした)、その北斗神社の脇に御堂があって、そこも蚕玉社となっていて、やはり「葵紋」がありました。
しかも、北斗神社の御祭神が天御中主神でした。
そこでも僕は不可思議な体験をするのですが、それは次回に書こうと思います。

そういえば秩父神社の御祭神も天御中主神で、平安時代に北辰(北極星)・北斗(七星)を神座とする星辰の信仰(妙見信仰)として伝えられたそうなのですが、なにかそこにも深い繋がりがありそうです。
それから、「蚕玉」と「葵紋」との関係も気になるところです。

「蚕玉」は「こだま」と読みますが、実は「木霊」を表しているのではないかという気もしてきます。
宮崎駿監督のアニメ「もののけ姫」に出てくる、あの「こだま」です。
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僕は幼い頃に、木や山の霊の様なものを見たことがあります。(↑の様なこだまは見たことがありませんが・・・)
幼稚園の頃に浅間山にある林間学校で、その様な特異な体験をしました。
今はまったく見えませんが、気配を感じたりすることはよくあります。

きっと昔の人は、そういう次元を超えた様なものが見えていたのかもしれません。
しかしテレビやパソコンなどの低周波の電気を大量に浴びせられたことによって、人間はその能力を失ってしまったのかもしれません。
僕は最近、アーシング(裸足になって30分間外に立っているだけで、心身共に健康になるそうです)を始めました。
アーシングをしていると、自分の身体と木や雑草や大地と繋がった様な感覚があって、僕はその失われた能力が取り戻せるのではないかという気がしてくるのです。
このアーシングについても、その内に採り上げたいと思っています。
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話がだいぶ脱線してしまいましたが、諏訪大社下社春宮↑を参拝した後、万治の石仏を見てきました。
春宮から歩いて5分ぐらいの所にあります。
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故岡本太郎さんが「こんな面白いもの見たことがない」と絶賛したそうですが、この頭と胴体のアンバランスさがなんともユーモアに溢れていて、しかも手や足が絵の様に平面的に彫られている。
確かにこんな不思議な石像は、世界中のどこを探してもないかもしれません。
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「万治」というのは、胴石に「南無阿弥陀仏」の六字が刻まれていて、その左側に「万治三年十一月一日 願主 明誉浄光 心誉広春」の刻銘があることによるそうです。
万治三年は、江戸時代初期の西暦1660年。

円空(1632〜1695)や木喰行道(もくじきぎょうどう・1718〜1810)に先立つ作仏聖集団のリーダの弾誓(たんせい・1551〜1613)が念仏に励んでいると阿弥陀如来が現れて説法をされて、説法が終わった時、阿弥陀如来の脇に立っていた観音菩薩が弾誓に仏頭を授けたという伝承が残されているそうです。
その弾誓の上人の50回忌に、弾誓を初祖と仰ぐ作仏聖の流れをくむ明誉と心誉が、この阿弥陀様を完成させたそうです。
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でも僕が一番気になったのが、このあごの出っ張り具合。
モアイ像といい勝負してます。
この後、電車に乗っている時に、この万治の石仏の顔そっくりのおじさんが乗っていたのには驚きました。
横から見た時のあごの出具合は瓜二つ。
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part7へ続く<<<


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