神社めぐり旅中、ずっと電車の中で、小澤征爾x村上春樹『小澤征爾さんと、音楽について話をする』を読んでいました。
東京発出雲行き寝台特急に乗り込む前に、キヨスクで飲み物やおつまみと一緒にちょっと目について購入した本なのだけれど、とても面白かったし勉強になりました。
兎に角、小澤征爾さんのお師匠さんのカラヤンやバーンスタインとのエピソードには脱帽しかありません。
二人のお師匠さんにこれ程までに愛されていたとは、運がいいというか、羨ましいというか、住む世界が違うというか・・・。
それに僕の中では伝説的存在ともいえるピアニストのゼルキンやツィマーマンともとても親しかったということも、もう凄いとしか言い様がありません。
一番驚いたのが、あのカール・ベームとバーンスタインが小澤さんの音楽を聴きにコンサートに来ていたというお話し。
ここまでくると、もう努力云々というよりは持って生まれた人望といった方がいいのかもしれません。(もちろん人並み以上のもの凄い努力をしてこられたのだと思うのですが・・・)
一方、小澤さんのそういったエピソードをぐいぐいと引き出していく村上春樹さんのインタビューの上手さにも脱帽。
小澤さんにインタビューをする際の下準備というのは相当にされてきているとは思うのですが、それ以前に小澤さんも舌を巻く程の相当な音楽の知識がおありになり、一切ブレることなく適切な質問と反応を繰りしています。
これはひょっとすると、村上さんの最近の小説で起こったある変化と関係しているのかもしれません。
村上さんは何度もノーベル文学賞の候補になる程海外では人気がありますが、どうも日本人には受け入れられ難いようです。
例えば故山崎豊子さんや故司馬遼太郎さんの様な、現実的な社会問題をぐいぐいと掘り下げていってえぐり出し、それは時には泥臭く、時に血なまぐさかったりもする様なシリアスさが日本人には実は受け入れられ易かったりするのだけれど、村上さんの小説は現実的な社会問題であっても、どこか川端康成的な美しさがあって、厭世的でちょっと遠くから醒めた目線で捉えている様なところがあると思うのです。
グローバル的に見れば、それが最大公約数的な小説だといえるのかもしれません。
しかし、それが日本人にはなかなか理解できない訳で・・・。
もっと言ってしまえば、現実的でシリアスな社会的問題を、人間の目には見えない世界(まるで夢を見ているかの様な世界)を用いて描き出している所が、兎に角日本人には理解できない訳で、またそうした世界観が一種の宗教や占いの様な不気味さを醸し出している様に感じられるのも、忌み嫌われる要因になっているのかもしれません。
しかしそれはまったくの村上春樹さん独自の世界観によるものではなく、この世界に対する悩ましいまでの深い深い洞察によって編み出されて来た世界観だということが、この本を通じても分かってきます。
もともと村上さんの小説は、「僕は何かを決めて小説を書くわけではない。やってくるものをそのまま文章にするだけです」とか「それは、論理をいつも介入させられるとはかぎらない、法外な経験なんです。夢をみるために僕は毎朝目覚めるのです」と語る様に、どこか世界から少し距離を置いた様な閉鎖的ともいっていい様な世界観がありました。
しかし『ねじまき鳥』の辺りから少しずつ他者の世界と関わろうとする姿勢が見え始め、『1Q84』ではオウム事件まで採り上げたりもして、そこにはもっともっと外の世界と関わろうとする決意の様なものまで感じられるのですが、やはり依然として世界との違和感を解消するには至れなかったのかもしれません。
しかし小澤さんと語り合っている内に〝その違和感は少しずつ解消されていった〟といってもいいのかもしれません。
村上さんは、小澤さんと自分の間に3つの共通点があると言っています。
まず1つ目は、2人とも「仕事をすることにどこまでも純粋な喜びを感じているらしいこと」。2つ目は「今でも若い頃と同じハングリーな心を持ち続けていること」。
そして3つ目は「頑固なことだ。辛抱強く、タフで、そして頑固だ。自分がやろうと思ったことは、誰が何と言おうと、自分が思い描くようにやる」。
「僕はこれまで、人生の過程でいろんな人々に出会い、場合によってはある程度の付き合いをしてきたけれど、その三点に関して、ここまで<うん、それはわかるよなあ>と自然な共感を抱ける人に巡り合ったことはなかった。そういう意味では、小澤さんは僕にとっては貴重な人だ。そういう人がちゃんと世の中にはいるんだと思うと、なんとなくほっとできる」。
第一回ではベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番、第二回ではブラームスの交響曲第1番など、第三回は小澤さんがバーンスタインのアシスタントをしていた時のことなどを採り上げてます。
そして第四回ではグスタフ・マーラーの交響曲第1番『巨人』を採り上げていて、僕はここの部分が一番興味深かったです。
村上春樹さんの小説は、僕はどこかマーラーの音楽によく似ていると思います。
ウィーン近郊の片田舎から出てきたマーラーは、やがて世界の中心とも唱われたウィーン国立歌劇場の総監督にまで登り詰めてしまいます。
相反する様なドイツの厳格な伝統音楽と片田舎のユダヤの民族音楽。
この対極的な音楽が、この交響曲『巨人』の第3楽章の中では一緒に出てきてしまう。
ただ一緒に出てくるのではなく、ハモリながら同時に出てくる。
言ってみれば、森進一のおふくろさんとベートーヴェンの第九を同時に演奏する様なもの。
僕はここに、現代人にとっての精神安定剤的な役割を担っている様な気がするのです。
クラシックというと、どうしても敷居が高くて馴染めないという日本人も多いと思うのですが、演歌や歌謡曲と難しくてお堅いドイツの伝統音楽が一緒に出てきちゃって、更にはなんだかしらないけれどサーカス団までやってきてどんちゃん騒ぎになっちゃって〜という様な愉快さ、そんなのもマーラーのひとつの魅力になっているのかもしれません。
それはどこか精神分裂的であり、また躁鬱的でもあり、それが悩み多きこの現代社会で生き抜いている多くの人々に共感を与えているのかもしれません。
つまり難しいシリアスな話しと、そんなのちゃんちゃらおかしいという様な寓話化された様な話し、この二極化したものがマーラーの芸術の原点になっている訳で、それは村上春樹さんの小説にも繋がってくる様な気がするのです。
相反する様なドイツの厳格な伝統音楽と片田舎のユダヤの民族音楽。
この対極的な音楽が、この交響曲『巨人』の第3楽章の中では一緒に出てきてしまう。
ただ一緒に出てくるのではなく、ハモリながら同時に出てくる。
言ってみれば、森進一のおふくろさんとベートーヴェンの第九を同時に演奏する様なもの。
僕はここに、現代人にとっての精神安定剤的な役割を担っている様な気がするのです。
クラシックというと、どうしても敷居が高くて馴染めないという日本人も多いと思うのですが、演歌や歌謡曲と難しくてお堅いドイツの伝統音楽が一緒に出てきちゃって、更にはなんだかしらないけれどサーカス団までやってきてどんちゃん騒ぎになっちゃって〜という様な愉快さ、そんなのもマーラーのひとつの魅力になっているのかもしれません。
それはどこか精神分裂的であり、また躁鬱的でもあり、それが悩み多きこの現代社会で生き抜いている多くの人々に共感を与えているのかもしれません。
つまり難しいシリアスな話しと、そんなのちゃんちゃらおかしいという様な寓話化された様な話し、この二極化したものがマーラーの芸術の原点になっている訳で、それは村上春樹さんの小説にも繋がってくる様な気がするのです。
小澤征爾さん指揮サイトウ・キネン・オーケストラが『巨人』の第3楽章と第4楽章を演奏している動画があったので引っ張ってきました。
第3楽章の重々しい葬送行進曲の途中で突然ユダヤのパロディー(民族音楽)が入ってくる所なんか、小澤さんの指揮は本当に気持ちがいいほどハチャメチャな感じがして、僕はとても好きです。(パロディーは、この動画の11:37あたりから)
西洋人が指揮をすると、ここまでは崩せません。
(『巨人』の第3楽章は2:55から始まります。)
村上「たとえば二番の第五楽章なんて、あっちいったり、こっちいったりというか、なんでここでこうなるんだろうと、途中で頭がぐじゃぐじゃしてきちゃうんですが」
小澤「あれ、まったく理屈がないからね」
村上「そうなんです。モーツァルトとかベートーヴェンとかだと、そんなことないんですが」
小澤「そこにはちゃんとフォームがあるから。でもね、マーラーの場合、そのフォームを壊すことに意味があったんでしょうね。意識的に。だから普通のソナタ形式なら『ここでこのメロディーに戻ってほしいな』というところに、ぜんぜん違うメロディーを持ってきちゃう・・・」
村上「・・・でも時間が経つにつれて、そういうところがだんだん逆に快感になってくるんですよね・・・」
僕もこの快感が病みつきになってしまったひとりなのですが・・・。
小澤さんの頑固な生き方の中でももっとも頑固にこだわっているのが、若い人の育成だそうです。僕もこの快感が病みつきになってしまったひとりなのですが・・・。
スイスのレマン湖畔のほとりで、小澤さんが主催する若い弦楽器奏者たちのためのセミナーが毎年夏に開催されるそうです。
しかしそれは〝教育〟とは少し違っていて、「こうしなさい」というより「そこはこうした方がいいんじゃないか」という様なかたちの指導方法なのだそうです。
所謂、音楽家同士の緩やかなcomradeship(同志感覚)。
〝食事もみんなでわいわい騒ぎながら食べる。練習が終わってから町のバーに繰り出し、盛り上がったり、リラックスしたりする。当然のことながら、いくつかのロマンスが生まれたりもするみたいだ。〟
村上さんはこのセミナーに特別に参加させてもらって、その様子を事細かく紹介しています。
本当に「良き音楽」が次の世代へと受け継がれていくために、小澤さんは心血を注いで、全身全霊で自分の全てを若者たちに捧げているのだと感じた様です。
いくつかの大きな手術からまだ万全に回復していない身体を酷使して、ほとんど無償で育成に取り組む小澤さんを、村上さんもとても心配している様でもありました。
さて、この本からちょっと離れてしまうのだけれど、僕がもっとも好きなマーラー指揮者はハイティンクです。
小澤征爾さん指揮のマーラーも好きだけれど、やっぱりどうしても一番はハイティンクになってしまう。
そこで次回は、ハイティンク指揮のマーラーの交響曲第9番を採り上げて、どこがそんなに素晴らしいのかを僕独自の路線で突き詰めてみたいと思っています。
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