piabuの不思議blog

オカルトでも陰謀論でもなく、この世界に隠されている本当の真実を自分自身に起こった不可思議な体験を元に探求しています。人間はなぜ生きなければならないのか?異次元世界はどうなっているのか?知れば知るほどに、この世界が摩訶不思議なもので溢れていることに気づくのです。

タグ:真理

2017120205
時代というものは、常に刻々と変化していく
それは目に見える形で急激に変化していく時代もあれば、ゆっくりと時間をかけて忍び足で変化していく時代もある
今の時代は一見平穏そうで、多くの人はこのままこんな平穏な時代がずっと続いていくと信じ込んでいる
戦争をしていた72年前の激動の時代のことなど、まったく考えない

どんなに時代が下っても、まったく変わらないものもある
それは、どんな時代の激流に呑み込まれても、まったく微動だにしない
悠久の昔より、人々がずっとどこかで感じ取っていた不可思議な力

目に見える力と、目に見えざるその不可思議な力
この2つの力が、長い間しのぎを削ってきた
そして今や目に見える力は強大となり、太古より受け継がれてきた武士(もののふ)の心を持つ者など殆どいなくなった

骨抜きにされて己の心が弱くなれば、その分、目に見える力によって補おうとする
その目に見える力を強大なものにすればするほど、それによってやがては己自身も滅ぼすことになるなど考えも及ばない
己自身がそのことに気がつくまで、宇宙は待ってはくれない
2017120211
あいつはいいヤツだとか、ダメなヤツだとか
人はなぜ、人と人とをすぐ比べてしまうのだろう
そもそも、それがすべての元凶になっているというのに

ヒーローを作り出すためには、ヒールがいなくてはならない
光が輝きを増せば増すほど、闇は更に深くなる
そうではない
二極論では、いつまで経ってもそこから脱することなど出来ない

中庸になることが肝心なのに
自分を愛する者を愛していても、それがどうしたというのだ
兄弟だけに挨拶をしていても、それは何の意味もないこと
太陽は悪い者の上にも良い者の上にも等しく照らし、雨は正しい者にも正しくない者にも等しく降る
この地上で生活しているすべての人たちに対し、分け隔てなく考えることこそが真の人類愛というもの

それにしても、いったいそうした人類愛を持てるようになるまでに、どれほどの時間と経緯が必要なのだろう
しかし、そのことで苦しんでいる人は、まだ幸いなのだ
2017120208
幸せというものは、常に不幸せと隣り合わせだ
有るものは、いずれ壊れて無くなる
人生で一番大切なものだって、例外ではない
では、至福とは何?

夏が終わって秋が来て、やがて冬になって
その一瞬一瞬に垣間見る、季節の美しさだったり、輝きだったり
たとえ真冬が訪れて、すべての生きとし生けるものが消え失せてしまっても
必ずまた春がやって来て、その生命力に僕らは勇気づけられる

至福とは、きっとその流れの中で生きることなんだ
その流れに、身を委ねることなんだ
留まってはいけない、溜め込んでもいけない
呼吸のように、取り入れては放ち、取り入れては放つ
やわらかく
そして、ゆるやかに
それこそが、宇宙の愛
2017120204
たとえ、ひとりであっても孤独ではない
ひとりは、すべてと繋がっている
目に見えないネットワークのように

自分の心の中で思っていることさえも
それは全宇宙に広がっていく
宇宙に隠し事など、決して出来ない

宇宙に身を委ね、宇宙と一体になれば
この世の真実が見えてくる
この世界が、大いなる愛で成り立っていることを


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また更新がだいぶ滞ってしまいましたが、このブログは自分自身の不可思議な体験を中心に書いているので、何しろネタがないと時々何を書いていいのか分からなくなってしまいます。
外から入ってきたウソかホントかわからない情報は好きではありますが、ブログにはなるべく書きたくありません。
その情報が真実である可能性が自分の中で高くなればなるほど、それを記事にしようという意欲が湧いてきます。
そして意欲だけではなく、やがては目に見えない者たちのお導きまで感じ始めて、そうやって記事は仕上がっていきます。

真実というものは、掴もうとすればするほど遠ざかっていってしまうものです。
そこにまるで意思でもあるかのように・・・。
それは魚釣りに似ていて、自分の予想に反して思わぬ時に掛かったりする。
気長に待つしかありません。
(旅に出て神社めぐりなんかしたら、一発ですが・・・)

こうなってくると、タイムスリップをして昔話でも始めるしかなくなってきます。
しかも今日書こうと考えている話は、下手をするとただのおノロケ話になってしまう。
しかし、ひょっとするとあれも不可思議な体験といえるかもしれないと、つい最近思ったことです。
mizumoto10
朝目覚めると、まるでジグゾーパズルのピースが埋まったかのように、自分が昔体験した不可思議現象の謎が突然解けたような気になっていることがあります。
「あぁ〜あれは、ああだったんだ。これは、こうだったんだ。」という風に・・・。
この間の朝、目が覚めた時にも、何故か遠い昔の記憶が蘇っていて、またひとつの真実が露になっていきました。

あぁ、甘く苦かった高校時代・・・それは、もう二度と体験することのない・・・。

高校ってところは大体、誰もが憧れるようなマドンナ的存在の女の子がひとりやふたりいたりするもので、僕のクラスにもそんな、クラスの半分近くの男子、それだけではなく別のクラスの沢山の男子までもがアタックしたものの、その全員を断ってしまった女の子がいました。
それで、男子たちは一斉に押し掛けていって、彼女にその理由を訊きました。
好きな人がいるからという理由でしたが、その好きな人の名は誰にとっても衝撃的なものでした。

その名を口にしたのは、もう卒業も間近に迫る体育祭のお昼休みの時。
この日の午前中、僕はクラス対抗のバレーボールで大活躍をしました。
アタックがことごとく決まり、ブロックも気持ちがいいほど決まる。
これは信じ難いことでした。
中学の時にバレー部に所属していたというだけの理由で選んだものの(他にもソフトボールやサッカーの選択肢があった)、中学の時はレギュラーになったことは一度もありません。
バレー部は友達に誘われて入ったにすぎず、そもそもスポーツそのものにまったく興味がなく、多少は体力に自信があったものの、毎日鍛えて厳つい身体をしている人に敵う筈もなく・・・。
そんな僕が、この時は信じ難い活躍した。
親しい友達はみんなソフトボールやサッカーの方にいってしまい、僕はチームで孤立していましたが、この時だけは親しくなくてもみんなが僕を祝福してくれました。

そんなみんなの態度が一変したのが、お昼休みの後。
チームで唯一僕と話をしたことがあるのはセッターの人だったのだけれど、そのセッターの人が僕にアタックを打たせないようにトスをあげるようになりました。
「あげてよ!」と僕が言うと「ごめん」とただそう言うだけで、セッターは他の人にトスをあげ続けます。
そして彼だけではなく、チーム全員が僕に対して冷たくなっているのがよく分かりました。
いったい何が起こったのか?
何だか分からないけれど、何かが起こっている?
午後の試合は、一方的な惨敗に終わりました。

気になったのが、例のマドンナがこのチームのすべての試合を見に来ていたこと。
つまり、マドンナの好きな人がこのチーム内にいるということでした。
そしてお昼休みの後、その衝撃的な好きな人の名を口にした後のみんなの僕に対する急変ぶり。
あぁ、まったくなんてことだ。。。
僕はあの時、そんなこととは露ぞ知らなかった。

当時、僕はまったく別の人に恋いこがれていて、マドンナは高嶺の花だと思っていました。
マドンナの僕への熱い視線は驚きであり、ただただ戸惑うばかり。
そんなことがあって以来、クラスのあまり仲の良くない連中に絡まれることしばしば。
それから、僕の当時一番仲良くしていた別のクラスの友達がこのことを知ってか知らずか、マドンナに熱をあげていることを僕に告白。
同じクラスにいる僕にマドンナ情報を随時報告せよという命令がくだされる訳で・・・。

また別の友達が僕に駆け寄ってきて「大変だ大変だ!さっきもっのすごいかわいい子がもっのすごい熱い視線で俺をずっと見てたんだけど。」
友達の言いたいことが分かったので、「それは良かったね。」といって放っておきました。

謎といえば、いったい全体どうしてマドンナは僕なんかを好きになったのだろう?
しかし、今となってはそんなことはどうでもいい訳で、大事なのが、どうして体育祭の午前中の試合であれだけの信じられないようなパワーが出せたのかということです。
今にして思えば、やはりマドンナの影響があったようです。
マドンナの僕を応援する気持ちと、目に見えないキューピットのような力が作用したとしか思えません。
mizumoto08
僕はあの頃のことを鮮明に思い出すとともに、何故だかワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のことも思い浮かべていました。
原初の忘却・・・。
第3幕でトリスタンが語る台詞です。
そこは私がかつて居て、そしていずれまた旅立って行く、世界を覆う夜につつまれた広大な国。
たった一つの知識のみが、そこで我々に与えられる・・・
しかし、その知識とは神々しくも永遠に続く、原初の忘却なのだ!

その忘却への予感はなぜ私から消え去った。
その代わり、憧れに満ちた警告とでも呼ぶべきものが、私をなぜ新たに昼の光のもとに押しやったのだ?

ただひとつ私に残されたもの、死の歓喜のおののきから生まれた熱く燃えさかる愛情が光を見ろと私を駆り立てるが、その光は欺くように明るい黄金色で、なおもあなた、イゾルデを照らしているのだ!
トリスタンはイゾルデの愛の死によって昇天していきますが、何だか僕の体育祭での信じ難いパワーとダブっていました。
似たようなパワーを別の女性からも感じたことがあるのですが、キューピットパワーとでも言うんでしょうか?
そんな途轍もないパワーは、きっとトリスタンとイゾルデのように解脱することさえも可能になってしまうのかもしれません。

原初の忘却とは、ただ単なる死を意味するのではなく、自分が何者なのかということを忘れさせ、すべての記憶を消されて、再びこの地上の人間として生まれてくるための処置ということなのだと思います。
不滅の魂にとって、もっとも辛い拷問は記憶を消されるということ。
しかし、解脱をすることができれば記憶を消されることはなく、自分が何者なのかを思い出すこともできる。
解脱をするには、僧になって辛い修行を積まなければならない訳ではなく、ひょっとするとキューピットパワーでも可能かもしれないと考えてしまうのです。
ワーグナーは、僕はとんでもないサイキッカーだったと思っています。


ところで、解脱というと実は僕は老子を思い浮かべます。
老人となって肉体から去るために、老子は村から離れ森へ入る決心をします。
その時、村の門番がの足を止め、去る前に老子の個人的な哲学を書き留めていってくれるように嘆願しました。
老子が自分自身の魂を発見した「道(タオ)」について書き残したのが、「老子道徳経」です。
mizumoto03
視之而弗見、名之曰微。聽之而弗聞、名之曰希。捪之而弗得、名之曰夷。三者不可致計。故混而爲一。一者其上不悠、其下不忽。尋尋兮不可名也。復歸於無物。是謂無状之状、無物之象。是謂忽芒。隨而不見其後、迎而不見其首。執今之道、以御今之有、以知古始。是謂道紀。


<訓読>

これを視(み)ても見えず。
これを名づけて「微(び)」と曰う。
これを聴(き)いても、聞こえず、
これを名づけて「希(き)」と曰う。
これを捪(な)でても得ず、
これを名づけて「夷(い)」と曰う。

三者は計を致す可からず。
故に束ねて一と為す。

一なる者は、其の上は悠(ゆう)ならず、
其の下は忽(こつ)ならず。
尋尋兮(じんじんけい)として、名づく可からざるなり。
無物に復帰す。

是れを無状の状、無物の象(しょう)と謂う。
是れを忽芒(こつぼう)と謂う。
随うも其の後を見ず、
迎うるも其の首(こうべ)を見ず。

今の道を執り、以て今の有を御(ぎょ)すれば
以て古始(こし)を知る。
是れを道の紀(もとづな)と謂う。

老子道徳経/第十四章


<解釈>

眼を凝らしても見えて来ないものを、名づけて「微(かす)か」と言う。
耳を澄ましても聞こえて来ないものを、名づけて「希(まれ)」と言う。
触(さわ)ろうとしても触れられないものを、名づけて「夷(たい)ら」と言う。

この三つのものは、測り知ることができない。
それで、これを束ねて一つのものにする。

この一つのものは、その上方は遠くはないが、その下方は尽きることがない。
長々と果てしなく続いて、名づけられない程であり、物がその姿を取らぬ世界に復帰する。

これを「はっきりとした形の無い形」「物がその姿を取らぬ状態」と言う。
これを「芒忽(ぼうこつ)(ぼんやりとしていて、定かでない)」と言う。
これに付き従ってもその後ろ姿は見えず、これを迎えてもその先端は見えない。

今の道をしっかりと握り、今の有(存在)を統御すれば、古の始原を知ることができる。
これを「道の紀(もとづな)」と言う。

老子 訳注 帛書「老子道徳経」/小池一郎著より


五感でなんか確かめられないものこそ
ほんとの実在なんだ。

微小すぎるものは
いくら見ようったって見えない。
あんまり幽(かす)かな音というのは
いくら聞こうったって聞こえない。
滑らかすぎる表面は
触ったって感じない。
この三つの微妙きわまる状態は
微細であるだけに、
融けあえるものだ。そしてこの三つが一つに
融けあっている空間───
それは無か空(くう)に見えるけれども
充実したもの、
もっとすごい実在といえるものだ。

そこは
かぎりなく昇ったって
ただ明るいだけじゃないし
かぎりなく下へおりたって
ただ真っ暗じゃあない。
すべてが絶え間なく連続し、変化し、動いていて、
やがてはあの名のない領域に戻る。

そこには形のない形だけが在る、
無いものだけが在る。すべて
捉(とら)えがたい抽象だと言えるところだ。
そいつの後をついて行っても
背中は見えないし
前に廻ってみたって
顔つきなんか分からない。
そいつをどうやったら摑(つか)まえられるかだって?
まあ、
今の自分のなかに、そして
萬物のなかに
タオが働いてると感じることだよ。それは
太古の太古のときから伝わってきている
と想像する。すると
道(タオ)の全体像が
現われてくるだろう。

タオ ─ 老子/加島祥造著より 

マドンナに会うことは、もう二度とない
あの頃、恋いこがれていた人とも会うことはない
しかし、あの時感じていた痛みは、きっと永遠に癒えることはない
時はいったい、僕に何を教える?


「道」の根本とは、ものごとが生じるその始めを知ることであると老子は説きます。
それは見たり、聞いたり、その姿形をとらえることが出来ないものではあるけれど、しかし、それを知ることこそが「道」の根本なのだと老子は言います。

ものごとがこの世に顕れる以前からの道筋を見極めることが出来れば、制御が可能なのだそうです。
見えないもの、聞こえないもの、それらは決して「無い」のではありません。
寧ろ見えないもの、聞こえないものこそが、本当に大切なものだということです。
現代の多くの唯物論者にとっては、きっとこの老子の言葉は理解不能かもしれません。

自分の想いが生じる以前の本来の自己を知るということ。
それが苦の解脱の根本だということ。

キューピットパワーが感じられることなんて、そうそうあることではありません。
そうしたものは、求めれば求めるほど遠ざかっていってしまうものです。
(トリスタンとイゾルデのような死の直前なら、これは究極ということになりますが・・・)
この世は幻想、すべてはマトリックス。
しかし、それでもその先にある、この世の本当の真実を追い求めていくことこそが大切。
いったい、自分が何者であるのかということを・・・。


時とは実に面白いもので、長い長い時間が時としてヒントをもたらすことがあります。
あの頃は生きていること自体が必死で、まったく心に余裕などありませんした。
もちろん今も必死には違いありませんが、あの頃に比べれば幾らかは心に悟りの境地のようなものがあるのかもしれません。
あればいいなとは思いますが・・・。

せめて毎日ガヤトリーマントラを唱えて、世界の平和を祈り続けようと思います。
このマントラには、解脱の力があるような気がするからです。

(写真はすべて水元公園で撮ったものです。)


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今年も残すところあと2ヶ月。
今日1日は、神棚の榊(さかき)を新しいものに取り替えなくてはなりません。
榊を取り替えたら蝋燭に火を灯し2礼2拍手、手を合わして神様に感謝の意を示します。
そして最後に1礼。
これがいつの間にか、僕の月初めの行事となっています。

榊は15日前後で枯れるそうなのですけれど、右側の榊は30日以上も経っているのに何故か青々としていました。
枯れ方には霊的な意味があるそうです。
榊は家の穢霊を吸い付けるので、枯れ難くなるというのは氏神様の力が機能していないということなのかもしれません。
でも、あまり気にしないことにします。
2ヶ月後に初詣に行くと思うので、あと2ヶ月の辛抱です。



それよりも、昨日の夜はUFOのブゥ〜ンという音で僕は何回目が覚めたかしれません。
底なしの暗闇へと落ちていく途中で、そのブゥ〜ンが割り込んできて目が覚める。
「いい加減、寝かしてくれ。」
低いブゥ〜ンという音、高いブゥ〜ンという音、そのちょうど中間の音。
3機、あるいはそれ以上来ていることを僕に知らせるために、どうもワザと音程を変えているみたい。

何回目かのブゥ〜ンが割り込んできた時、その目が覚めるちょっと前に、夢の断片みたいのが挟まっていました。
それは約20年前の僕のお師匠さんの夢で、10才前後になるお孫さんがお師匠さんに抱きついて甘えていました。
お師匠さんの姿よりも、なぜかお孫さんの方が強く印象に残っています。
当時既にお師匠さんは80才を過ぎていたので、今ご存命だとしても100才を過ぎています。
そのお孫さんも、今はもう30才を過ぎている筈。

目が覚めた後、しばらくお2人の姿を思い浮かべていたのですが、思い浮かべる度にブゥ〜ンという音が僕の頭の真上あたりに来て、より一層強く響かせていました。
どうやらUFOには、お師匠さんの魂が乗船している様でした。
今現在、冥界は消滅している筈です。
だから人は死ぬと、人の魂はどうやらUFOに乗船して宇宙の彼方の新世界を目指して飛んでいくみたいです。
お師匠さんは新世界へ行く前にどうしても気になることがあって、それを確かめたかったのでしょう。
僕が今、どうしているのかを・・・。
お孫さんの方を強く印象づけていたのは、僕の心の中に後ろめたくて面と向かって話し合えない部分があることを察知していたからなのでしょうか?

思えば、僕の今ある音楽の知識や独自の作曲技法を編み出せたのも、お師匠さんから本当に正しい音楽の基礎を伝授してくださったお蔭なのです。
出来の悪い生徒だったでしょうが、それなのになぜかお師匠さんは僕を一番買ってくれていました。
僕の中に、他の人には無い何かを見てくれていたからなのかもしれません。
僕は20年ほど前、そうしたお師匠さんの期待を裏切ってしまったのかもしれません?
だからせめて今の僕がしなければならないのは、きっと作曲を続けていくことなのだろうと思うのです。



それにしても、ここ最近どうも世の中がおかしい。
勧善懲悪という言葉はあまり好きではないですけれど、「この紋所が目に入らぬか!」とか「退治てくれよう桃太郎!」とか言って、今ほど悪を成敗してくれる正義の味方が必要な時期はないのかもしれないなどと思ってしまいます。
特に酷いのが、学校のいじめだそうです。
ドラえもんに出てくるジャイアンぐらいならまだしも、LINEやSNSによるネット上のいじめは陰湿極まりないものがあります。
子どもたちだけではありません。
大人社会にも、至る所に蔓延っています。

僕らは魂を成長させる為に、この世に生まれて来た。
そう思うことができれば、いじめに遭うことも、これはひとつの修行なのだと割り切れることも出来るかと思います。
しかし、ほとんどの人はそうは思えません。
時に憎しみや悲しみが束になって、目に見えないものが形となって表出してくることがあります。
多くの自然災害は、実は人の心の闇の部分が引き起こした人災なのです。

冥界が消滅した変わりに魔界(幽界)の住民たちは、今度は人の心を住処にし始めました。
魔人の餌食にならないためには、人々がいち早くこの現状に気づくしかないのです。
だから僕は、魔人を体の中に入れないために光明瞑想をはじめたのです。
そして月初めに神棚の榊を取り替えることも、僕の欠かせない行事となったのです。

玄関灯しか目に入らない蛾のように、外側の世界だけで生きている人々。
つまりこの物理的(3次元)世界は、実は錯覚(幻覚)の世界なのだということにまったく気がつかない人々。
そうした多くの人々が救われる様に、今は僕は遠くから願うしかありません。
心が清らかであれば、僕のお師匠さんの様に人類より遥かに進歩した宇宙人の乗り物に乗ることができ、そして高次元世界へと進むことができるのです。
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(写真↑は、先月、自宅前に現れたクリスタル・ベル⦅UFO⦆。家を出てすぐに目に飛び込んできました。携帯で写真をとった後、あっという間に消えてしまいました。普通の飛行機雲だったら、あっという間に消えてしまうなんてありえないことです。本当に飛行機も雲も一瞬にして消えてしまったのです。)

心を清く保たせるには、色々と試しましたが、光明瞑想が最強です。
最近、光明瞑想によって第三の目が開き始めました。
第三の目は、視床下部、松果体、脳下垂体の3つの脳の間にあります。
おそらく、もっとも原始的な脳を使っているのだと思われます。
第三の目というのは、一番解りやすいのが、映画『スターウォーズ』の第1作目(エピソード4/新たなる希望)で、オビ=ワン・ケノービがルークに「フォースを信じろ」と言いました(耳に聞こえてきた)が、まさにそれなのです。(物を宙に浮かすのは無理ですが・・・w)

第三の目が開くと『真理』というものが見えてきます。
そして、想念が見事に現実化していきます。
これは、感動を覚えるほどです。
この感動を味わえるのは、無欲になれた人間だけです。
『人の心を汲みて、尽くすが徳の道なり』を実践できる人だけです。

この世には、そもそも正義も悪も存在しません。
この世の中にあるものはすべて繋がっていて、関係し合っているのです。
生きとし生けるものだけではなく、すべての物質が繋がっているのです。
地球上にあるものだけではなく、宇宙の彼方にある星とも・・・。

そして、ただ繋がっているだけではなく、調和しながら繋がっています。
その成り立ちが『真理』であり、『サムシング・グレート(偉大なる何者か)』なのです。
あるものが無くなることは、決してありません。
リセットすることはできないし、してしまったことはすべて記録されているのです。
肉体が滅んでも、魂は永遠に不滅なのです。


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