piabuの不思議blog

オカルトでも陰謀論でもなく、この世界に隠されている本当の真実を自分自身に起こった不可思議な体験を元に探求しています。人間はなぜ生きなければならないのか?異次元世界はどうなっているのか?知れば知るほどに、この世界が摩訶不思議なもので溢れていることに気づくのです。

タグ:老子

とうとう2月になってしまいました。
そして今日は、124年ぶりの2月2日の節分。(地球の公転とのズレが原因)
長い物には巻かれろではないですが、今日の夕食は恵方巻を買って食べました。
こんなことをやったって何のご利益もないのはわかっていますが、ついつい、、、(苦笑)

この2月に世界経済が崩壊する危険性は極めて高いです。
緊急事態宣言が延長されましたが、本当にこれでどれだけの中小企業が潰れていくのか?
ニュースにはなりませんが、相当数の方が大変な思いをされているのだと思います。
お気の毒としかいいようがありません。
しかし日本はまだいい方で、、世界はもっととんでもないことになっているようです。
ドイツの1日の感染者数が約1万人ですからね。
国民がメルケル首相の言うことを聞かず、暴動も起きているようです。
ロシアもプーさんへの批判がますます高まっていて、デモの拘束者数は5600人超とのこと。
ミャンマーでは軍事クーデターが発生し、アウン・サン・スー・チー氏が再び拘束されてしまいました。
北朝鮮の金〇恩(影武者?)も、バイ爺さん新政権誕生でICBM(大陸間弾道ミサイル)やSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)の発射実験や核実験を行う可能性が高まっています。
こんなことは、寅さんの時代には起こらなかった。
世界を平和に保つには、やっぱり寅さんみたいなボス的存在が必要なのかもしれません。
また、こうとも考えられる訳です。
バイ爺さんが選挙(不正で)に勝ったことにより、いよいよDSが本格的に始動したのだと、、、、

世の中が日本経済だけで成り立っているのなら何とか持ち堪えていけるとは思いますが、日本の今の食料自給率はだいたい38%ぐらいですから、世界経済が崩壊したら間違いなく日本の経済も共倒れしていきます。
このコ〇ナ禍で持ち堪えられる国は、ただ一つしかありません。
それは共〇主義国のC国です。
このコ〇ナ禍で世界のGDPが軒並み下がる中、C国の2020年の実質GDP成長率は2.3%上がっています。
また世界銀行は、2021年のC国の成長率を7.9%と予測しています。
まさに、C国の独り勝ちといえます。
このままDSが黙っている筈がありません。
C国と共に寅さんを引きずり降ろしたDSは、今度はC国を引きずり降ろしにかかると思います。
ヤツらの目的は、C国と米国の戦争です。
それだけは、何が何でも絶対に阻止しなければなりません。
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pixabay 様 より



昨日、雪に背中をこすりつけているワンちゃんや動物園のオオカミや、雪と遊んでいるパンダのニュースが流れていました。
こんなご時世だから、気持ちがなごんだ人も多いかもしれませんが、あれは世の中の波動が極端に悪くなっている証拠なのです。
波動に敏感な動物たちは悪い波動を落とすために、波動の高い雪に身体をこすりつけているのです。
それほどまでに、地球の波動が悪くなっているのです。
地球の波動と地球人の波動は、連動しています。
たかが人間が地球を癒すことなどできる筈がないと思っている人が殆どですが、それは大間違いで、人類の心の状態がこの地球(地球生命体、ガイヤ)の心(気持ち)にも大きく関わってきます。
地球とすべての地球人たちは、目に見えない糸で繋がっているのです。
その地球の心は、地球に住むありとあらゆる動物や海や川や土地の中に具現化されていくのです。
それが地震や台風や疫病だった訳ですが、今はそれにプラス、宇宙人の介入があります。
低次元宇宙人と高次元宇宙人、、、言い換えれば、闇と光の。。。
何度もブログに書いてきたことですが・・・

前回、「私とはこういう存在だ」というのをアピールすることが宇宙では大切なようだと書きましたが、また創造主の意志の流れに則って表現しなければならないとも書きましたが、でもそれはそんなに難しいことでも何でもありません。
鳥が歌を歌うのと同じです。
野に咲く花と同じです。
青い空に雲が浮かぶように、夜になれば星が瞬くように、人間もまた難しいことは考えず「無為自然」に生きればいいということなのです。
しかし、その何でもないことが、人間には実に難しい。
人類は、自然からあまりにも離れすぎた。

「無為自然」とは、紀元前600年頃の中国の哲学者、老子の言葉です。
老子が生きていた時代も、どれだけ勉強しただとか、どこどこの殿様に召し上げられただとか、そういうことで人と人を比べていたようです。
また、出世をしたいとかカネが欲しいとか女が欲しいと言って、人と競い合ったり戦争や奪い合いなどもしていました。
紀元前の話なのに、殆どこの現代社会と変わっていません。

老子のいう「無為自然」というのは「神の御心」ということを意味しているのですが、これこそが僕がよく使う言葉「創造主の意志」であり「宇宙の秩序」でもあり、前述した「ガイヤの気持ち」でもあるのです。
だからこそ自然が人間の一番の師匠であり、自然を観察するということは「創造主の意志」を知ることに繋がるのです。
だからあらゆる学問の中で、自然科学はとても重要な分野だといえます。

そしてもう一つ重要なのが、意識とは何か?ということです。
私とはいったい誰なのか?ということです。
この私という真実も、この自然科学の中に隠されています。
いや、量子力学の中にも、天文学の中にも隠されています。
それらを研究するということは、私とは何か?を研究しているのと同じことなのです。

そして究極に近づいてくると、この世がシミュレーションになっていることに気づくのです。
マントラ唱えたり瞑想したりしていても、この宇宙は3次元物質世界しか存在していないのではなく、多次元構造になっているのが体感的にわかってくるのです。
この3次元世界は今3,5次元、3,6次元、3,7次元と上がっています。
4次元(幽界)はすでに存在していないので、3,9次元の上は5次元です。
今は人類が5次元世界に辿るつけるのかどうかという瀬戸際に立っているようです。
この3,5次元は、宇宙にこの地球以外には存在していないので、今宇宙に地球外生命体を探してもどこにもいません。
たとえ宇宙の果てまで探したとしても。
そして5次元にまで達すると、たくさんのスペースファミリーたちが私たちを歓迎してくれるかもしれません。

それとはまったく正反対の、3,0次元のままになっている人たちもいます。
いや、この世の中、そういう人たちばかりといってもいいかもしれません。
都会人の殆どは自然から離れすぎた人たち、自然が人間の一番の師匠だとはまったく思わない人たちです。
彼らは宇宙の秩序、創造主の意志、ガイヤの気持ちにまったく触れていないので、次元の上昇にまったく気づいていません。
テレビも3,0次元のままですが、でもネット世界ではかなり次元上昇していて、覚醒している人もかなり多いです。
このテレビとネットの相違のように、世界は完全に二極化してしまっています。
そしてこのコロナ禍で、3,0次元のままの人たちの逼迫した心の波動が地球を覆いつくし、ガイヤはもう既に耐えられない状況になっていて、このままでは地球全体が崩壊してしまうかもしれません。
逆に、5次元世界に近づいていっているもうひとつの地球も存在しています。
浄化されてもの凄く美しくなっている地球と、波動の低い汚れた地球がダブっている状況といえます。
街を出歩いていても、僕はそれを感じます。

ヨハネの黙示録の最後の審判は、もう既に始まっているということです。
しかし、真の神は教会にはいません。
どこそこの教祖様でもありません。
老子の語る「無為自然」の中にいます。
薄汚れてしまった人間が、そうそう自然の中に居たって浄化できるものではありません。
しかし神は、イエスのお言葉やマントラという素晴らしい贈り物をくださったということです。
女性は地球と繋がっているので覚醒し易いのですが、男性は地球から完全に離れてしまっているので、覚醒するにはどうしてもマントラや瞑想などが必要になってくるのです。
覚醒するには女性はただ自然を美しいと崇めているだけでも可能で、男性はそれにプラス、マントラや瞑想などをしなければならないということです。

(ガヤトリーマントラを1日2マラ唱えられれば完璧です。でも朝と晩に9つ唱えるだけでも効果的です。瞑想は最初は無理をしないで5分だけでもいいです。毎日続ける習慣を身につけることが大事。あと、丹田呼吸がもの凄く大事です)

闇はただ只管、人々に恐怖心を煽ります。
しかしありとあらゆる生き物を大切にし、自然を美しいと崇めるだけでもその恐怖から逃れられ、神に守られるという訳です。

あと、もう少し付け加えると、瞑想の時間は夜の0時から4時の間がいいです。
毎日同じ時間にやるのがいいようです。
僕は毎日冷水行をした後、瞑想しながらガヤトリーマントラを1マラ唱えています。
唱えながら7つのチャクラを下から(ムーラーダーラ)一つひとつ刺激していき、天頂のチャクラ(サハスラーラ)で神と繋がり、神の光のパワーが地球全体に広がっていくのをイメージしています。
そのパワーにより世界に結界を作り、闇を封じています。

瞑想はやり方を間違えてしまうと悪霊(サタンの手下)に入られてしまいますが、しかし毎日ガヤトリーマントラを唱えていれば絶対にそんなことはありません。
僕は夜中に座禅を組んで目を閉じた瞬間、頭の中に黄金色に輝く何かが浮かんでくることが多いです。
それをイメージしようとはしていません。
頭の中を空っぽにすると、自然に浮かんできてしまうのです。
その瞬間、何ともいえないとてもいい気持になるります。

昨日、その黄金色の何かが何なのか?観察していました。
ずっと光に注目していると、長い鼻のようなものが見えてきました。
ゾウです、黄金色に輝くゾウです、ガネーシャです。
ガネーシャさん、降りて来てくれたのはとても嬉しいのだけど、僕はどうも苦手で・・・
だって、身体は人間で顔がゾウだなんて気持ち悪すぎる、、、(謝)
でもインドでは現世利益をもたらす神とされていて、非常に人気があるのだそうです。
どうして現世利益なんかまったく求めていない僕のところに、ガネーシャが降りて来られたのだろう?
謎です。。。

他にも大日如来、弥勒菩薩、不動明王、閻魔大王が降りて来られたこともありました。
イエスや聖母マリアを感じた時もあります。
日本を守っている龍の存在も時々感じます。
このように、ガヤトリーマントラを唱え続けながら天に念を送り続けていると、高次元の存在たちが降りて来られるようになるのです。
彼らはこの大自然と同じ、創造主の意志に忠実に従っている存在たちなのです。

そして我々人間もまた、これからは創造主の意志に忠実に従って生きていかなければならないということです。
今、西洋人がコロナで大変なことになっているのは、彼らは自然を敵とみなして破壊し続けてきたからです。
これからは、生きとし生けるものすべてを大切に思い、労わる気持ちが大切です。
そうした気持ちを芸術という形あるものにしたり、文章にしたためたりすることも大切です。
前回の記事にも書きましたが、それが“宇宙の通行手形”になるかもしれない(笑)
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pixabay 様 より



さて、今日もポスト・クラシカルのミュージックビデオを3つほど載せたいと思います。
ちょっといつもと嗜好を変えて、音楽がどうとかではなく、ネットサーフィンをしていて、ただ単に僕が面白いと思った動画を引っ張ってきます。

まず、Alban Claudinの「It's a Long Way to Happiness」↓という曲のビデオクリップなのですが、Alban Claudinという人は日本ではまったく知られていないようです。
検索しても、日本語ではまったく出てきません。
読み方は、アルヴァン・クローディンでいいのかな?
動画の最後の方で僕は思わず吹いてしまったのですが、何で吹いたのかは、、、とりあえずご覧になってください。



勝手に拝借しますm(__)m




このビデオ、日本でも何かのCMで使われていような記憶があるのだけれど、何のCMだったかどうしても思い出せません。
でも絶対、テレビのCMで見たことがあります。
それなのに何で検索しても日本語では何も出てこないんだぁ?
これもマンデラなんちゃらかぁ?

兎にも角にもこの動画、何度も繰り返し観る度に味が出てくるんです。
どんな手段を使ってでも今すぐに会いたい人。
その人はいつも通行人から白い目で見られているピアノ弾きのストリートミュージシャン。
誰が何と思おうと、僕は君の音楽は最高だと思う。
その証として僕は・・・
そんな感じでしょうか。
見えないものを形にして表現すること。
言い換えれば、自分の気持ちを態度で示すこと。
それほどの信頼はないのではないかと、吹いてしまうと同時に涙も溢れ出てくるのです。

(追伸:この「It's a Long Way to Happiness」の発売日を調べてみたのですが、驚きました。。。2021年1月8日発売になっています。まだ1か月も経っていない???、、、僕の記憶違いなんてことは絶対にないと思います。絶対におかしいです。間違いなく時間のズレ的な何かがあります。)



次の動画は、Ludovico Einaudi(ルドヴィコ・エイナウディ)の「Life」↓という曲のビデオクリップ。
この動画も、最後まで観ないとタイトルの「Life」の意味がわからないようになっています。
エイナウディ氏はイタリアの作曲家で、旧来のクラシックにポップやワールドミュージックなどの新要素を取り込んだ作風が特徴で、映画やドラマだけでなくCMにも多数の楽曲を提供しています。


勝手に拝借しますm(__)m




あの一緒に遊んでいた子供たちは何者なのだろうと考えてしまいます。
ただの夢なのか?
それとも、妖精か何かが人間の子供に化けていたのか?
実際にこういう体験をした人がいて、それを元にしてこのビデオは作られているのではないかと思います。
僕の中では、こうしたことはただの幻想などではなく、異次元にはそうした目に見えない何か(エンティティ、自然霊)がいっぱい存在しているのだと実体験からわかるのです。
あのまま男の子が何も気がつかずに子供たちと遊んでいたら、、、

(追伸:この動画も、実は以前に観たような気がしています。これらの動画を記事に僕が張り付けるのは、既にずっと昔に決まっていたことなのか、、、前回の記事に張り付けたÓlafur Arnaldsの3つの動画も、昔観たような気がしていました。ずっと気のせいだと思っていましたが、、、何だかだんだん怖くなってきました。似たようなことは以前から頻繁に起こっていました。時空がだんだん崩壊していっているのか...)



最後は、フランスの新世代エレクトロニック・プロデューサーといわれるThylacine(ティラシン)の「Sheremetiev - Taken from Nine sili nebesniye」という曲のビデオクリップ。
ティラシンの作曲スタイルはなかなかスゴいです。
モスクワからウラジオストックまで6000マイルに渡るシベリア鉄道の旅に録音機材を持ち込み、乗客の会話、機械の騒音、駅のアナウンスなどにインスピレーションを得ながら完成させた『Transsiberian』。
トレーラーを購入して録音スタジオに改造し、アルゼンチンを旅しながらレコーディングを敢行したという『Roads Vol.1』。
『Roads Vol.2』も、フェロー諸島で同じくトレーラーでレコーディングが行われています。
デジタル・プロダクションと現地の伝統楽器を融合させたアンビエント・ミュージックは、本国フランスのみならず、ドイツ、トルコ、アメリカ、スイス等世界各国で大きな反響を呼んで、『Roads Vol.1』『Roads Vol.2』のストリーミング数は3000万回を超えています。
そしてこの「Sheremetiev」は、最新アルバム『Timeless』の第1曲目に収録されている曲です。
『Timeless』は、モーツァルトやサティやドビュッシーなどのクラシック音楽とエレクトリックな音楽をティラシン独特の感性で融合させて作り上げた、実に面白いアルバムになっています。



勝手に拝借しますm(__)m




この動画を観てまず思ったのが、最近観たクリストファー・ノーラン監督の最新作『テネット』という映画です。
時間の流れが逆になるところが似ているので、あの映画を意識して作られたのかもしれません。
あと気になるのが、聖歌みたいな合唱です。(Sheremetievという作曲家を検索してみましたが日本語では出てきませんでした)
宗教音楽ということを意識して動画を観てみると、何となくヨハネの黙示録の『最後の審判』を思い出してしまいます。
死者が蘇るシーンです。
海の底に沈んでいた死者が蘇る、、、ということを考えると、何となくタイタニックが浮かんできます。
タイタニックで演奏していて亡くなった楽団員たちが、最後の審判を受けるために海の底から湧き上がってくる・・・
まさに、今のこの時代のことを表している動画だと思います。

(追伸:この動画は記憶にない。。。いや、、あるか?...記憶が書き換えられているのか???...こ、これが覚醒の正体なのか!?......お願いです。頭がへんとか思わないでくださいm(__)m)



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20170405
それを見ようとする者は見ることはないだろう
それを聞こうとする者は聞くことはないだろう
それを掴もうとする者は掴むことはないだろう
その形のない無の存在、動の不動の源を。
スピリットの無限の本質が命の源である。
スピリットは自己である。

壁は部屋を作り上げ、支えるが、
それらの間の空間が最も重要である。
壺は粘土で形作られるが、
その中に形成される空間が最も有用である。
行動とは、無が何かに影響した結果である。
スピリットの無があらゆる形の源であるのと同じように。

人が大きな苦痛で悩まされるのは、体を持っているからである。
体がなければどのような苦痛に悩まされることができるのか?
人が自分のスピリットよりも自分の肉体を大切にすれば、
人は肉体になり、スピリットの道を失ってしまう。

自己、スピリットが幻想を想像する。
人の妄想とは、現実は幻想ではないというものである。
幻想を創造し、それらは現実より本物であるとする者がスピリットの道に従い、天の道を見つける
 
エイリアンインタビュー〜マルチダ・オードネル・マックエルロイが提供した文書に基づいて/編集者ローレンスR.スペンサーより  

この世がマトリックス(仮想現実)であることを、これまで何度も僕はこのブログで主張してきました。
数えきれないほどの不可思議体験をしてきたから、そう確信が持てるのです。
ある霊能者の方が、上から雨のように数字が落ちてくるのが見える時があると話していました。
映画「マトリックス」の冒頭で、それとまったく同じ映像が流れたので、その方はこの映画は本物だと思ったそうです。
最近僕は瞑想する時、上から数字が落ちてくるのを想像しながら、自分は高度な文明を持つ異星人が作ったコンピューターの中にいて、自分のこの肉体もこの建物もこの大自然も、すべての物質という物質はそのコンピューターがシミュレートしたもので、本物は容れ物に過ぎないこの肉体の中にあるということを強く意識するようになりました。
そしてその本物は、限られた人にしか感じることの出来ない高い次元と繋がっていて、自分も瞑想で訓練を積めばその次元と繋がることができるかもしれないと考えるようになりました。
つまりこの宇宙全体は、たったひとつのコンピューターの内部に過ぎないということです。

2015年に量子物理学の分野において、大変な発見がありました。
オーストラリア国立大学の研究所の物理学者たちが、「この現実は人間が観測するまで存在しない」ということが実験によって証明されたと発表して、それは世界的な科学誌「Nature」にも掲載されました。
今までの科学的、常識的な概念では「存在している」というのが大前提でした。
つまり、もともと存在しているから自分がそれを認識するのだと考えられてきました。
自分は肉体を持った存在であって、だから自分はこの地上に立つことができて、空には太陽や月や星があって、そして宇宙があって・・・。
しかしそれらはすべて、「人間が観測するまで存在しない」ということが科学的に証明されたのだというのです。
この話を聞いて、とうとう科学の世界もここまで来たかと実感しました。
まさに「色即是空、空即是色」の世界です。
科学の世界と精神論の統合も間近ということなのかもしれません。

普段使っているパソコンにも圧縮と解凍(.zip .lzh .rarといったもの)があるように、このシミュレート宇宙もそのようなシステムになっているのかもしれません。
そういえば、量子物理学者デヴィッド・ボームが提唱した「内蔵秩序」という言葉を思い出しました。
例えば、植物の種子。
それだけ見れば単に小さな粒としてしか認識できませんが、種を土に蒔いて水分と適度な温度を与えると根が生えてきて茎が伸びて葉っぱが出て、その植物の形が現し始めます。
種子だけを見た時は、この植物の形、この植物の生長した姿を目で見ることはできませんが、しかし種子の中には、その植物を特徴づけている情報がしっかりと内蔵されている訳です。
宇宙の各部分に、このように目に見えない宇宙全体の情報が内蔵されているというのがボームの考えでした。
種とその植物の生長した姿というのはまさに圧縮ファイルと拡張子であって、このようにこの世の中のすべての物質は、僕らが目にすることで瞬時に圧縮ファイルが解凍されて姿を現すということなのかもしれません。

また、2014年にはオーストリアのウィーン大学の研究グループによって、「量子もつれ効果」を利用した「シュレーディンガーの猫」の撮影に成功しています。
「量子もつれ」というのは、2つの粒子(原子や光子など)が一度もつれると、どんなに離れていても(例え今いる場所と宇宙の果てほどの距離があっても)その2つの粒子は何らかの相互作用をすることをいいます。
これによって、テレポートが可能になるといいます。
マンチェスター大学のブライアン・エドワード・コックス教授が英国のTV番組で「我々は既に物をテレポートする技術を持っている。」と暴露しています。

従来の「この現実は存在している」という考え方からすれば、テレポート(瞬間移動)はSFのような非現実的な話で終わってしまいますが、もう既に我々がテレポートする技術を持っているということは、それはこの世がたったひとつのコンピューターに過ぎないということが証明されているということにはなりませんか?
「量子もつれ」は、この宇宙はすべて繋がっている証拠となりうるのではないでしょうか?
つまりスピ系でもずっと語られ続けてきた、所謂ワンネスです。
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昨日も水元公園までサイクリングをしてきましたが、僕が聖域だと思っている場所で、自転車から降りてある1本の木に手をついて、この木が地球に繋がっていること、地球の電波塔であること、そして宇宙全体と繋がっていることを意識しました。
しばらくの間そうしていた後、再び自転車に乗ってこぎ出した時、急に身体が軽くなって、もの凄く気持ち良くなってきました。
何処からともなく、良いエネルギーが身体の中に入ってきているのを感じていました。

最近、木や森を意識する時、シミュレートされた物質世界ではなく、本物が存在する高い次元を意識しています。
その次元の植物はこの物質世界のものに形は似てはいますが、しかしすべての植物は光り輝いていて、生存競争などない完全に調和された世界に生きています。
この時もそれを意識しました。
その瞬間、僕は確かにその高い次元を感じていました。

超ひも理論(またはM理論、膜理論とも呼ばれていますが)によれば、この世は11次元存在しているそうです。
この次元と別の次元は膜のようなものに覆われているので、別の次元に我々が干渉することはできません。
しかし、何だかの作用が働いて時空が歪み、別の次元と繋がってしまうことがあるのではないかと思います。
実際、そのような事例が世界中にあります。
ひょっとしたら、バミューダトライアングルなどもそうかもしれません。
人が聖域と感じるような高い波動の満ちた場所は、きっと波動の高い異次元世界と繋がりやすくなっているのかもしれません。
ピラミッドは、古代人が高い次元と繋がるために作られたものかもしれません。
2017062301
歌舞伎役者の市川海老蔵さんの妻である小林麻央さんが亡くなられました。
34歳という若さだそうです。
ご冥福をお祈りいたします。

この世で何が一番悲しいかといえば、おそらくとても久しかった人やペットとの別れだと思います。
愛し合っていれば愛し合っているほど、その悲しみは一入です。
この悲しみは、経験してみなければ決してわからないものでもあります。

人がなぜこの世に生まれてくるのかといえば、魂を磨くためです。
完成された世界では思ったことがすべて現実化してしまうので、霊的成長は望めません。
だからこの世に生まれて来て、思うようにいかない世界を体験するのです。
そしてその中でももっとも効果のあるのは、こういった悲しみを体験することです。
涙ほど、心を清らかにできるものはありません。
しかし、そうした折角の不幸という教材を、恨んだり妬んだりしてしまったら逆に心を汚してしまうことになるのですが・・・。

インド神話に、正義の神アシュラと力の神インドラという神様が登場します。
ある時、アシュラの娘を見て気に入ったインドラは、彼女を無理やり自分の宮殿に連れ去ってしまいます。
父親のアシュラは怒り狂って、武器をとってインドラに戦いを挑みます。
しかし正義の神が力の神に勝てる訳がなく、戦いはアシュラの敗北に終わります。
それでも娘を奪われたアシュラの怒りは烈しく何度も何度も戦いを挑んでくるので、インドラは面倒になってアシュラを天界から追放してしまいます。
仏教は敗北者のアシュラを「阿修羅」と呼んで魔神にし、勝利者のインドラを「帝釈天」と呼んで護法の神にしました。
帝釈天の行動はとても褒められたものではありませんが、過去の出来事をいつまでも根に持って「正義」に拘り続けている阿修羅の心の狭さの方がもっと良くないのだと、仏教ではそう解釈しているのだそうです。

仏教の『法句経』では、「人を愛するから憂いが生じるので、愛を離れれば憂いはなくなる」と教えています。
仏教では外部の客体物に拘ることを徹底して嫌い、自己を見据えることのみを重視して、外部客体への関わり合いとなる他人への「愛」を真っ向から否定しているのです。 
仏教における「愛」の本質とは、飽くまでも自己を中心とした「自己愛」なのです。 

僕は、そんな他人への「愛」を否定する仏教に対して疑問を持ちます。
完成された世界では決して体験することのできない愛の悲しみを、この現世でも奪ってしまったら霊的成長ができなくなってしまうではありませんか。
また阿修羅の悲しみは、実に人間らしい悲しみではないかと思うのです。

もちろん阿修羅のように、余りにも執着心が強過ぎてしまうと魔界へ引きずり込まれてしまうので、泣くだけ泣いたら綺麗さっぱり忘れることが肝要です。
この世というのは、どんな人に対しても魔界からの誘惑が常にある場所だからです。
人はやがてある段階まで来ると、古代ギリシャの哲学者ディオゲネスのように一切の執着心を捨てて生きようと思うようになります。
そう思える様になるまでに、何回も輪廻転生を繰り返していく必要があります。
そして一切の執着が無くなった時、漸く解脱することができるのです。
大事なのは、そこまで辿り着くプロセスなのだと思うのです。
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それにしても、この世というのは何と無常極まりないバーチャル・リアリティー(仮想現実)の世界なのでしょうか。
あらゆる次元(霊界)から来た人々の想念が錯綜し、天国と地獄を創り出しながら蠢き合い、そのホログラムのような万華鏡は「浮き世」を映し出す。
いつかは、誰もがあの世へと旅立ちます。
富も名誉も権力も、豪邸も己の肉体もすべて幻と化し、打ち寄せる波の如くに時の彼方へと消え去ってしまいます。
しかし、魂が消え去ることはありません。
別の次元へと移動し、また生き続けることになります。
また執着心の強い人は、その執着心が消え去るまで何度もこの現世に生まれ変わってきます。

老子は「人の妄想とは、現実は幻想ではないというものである」と解きました。
大切なのは容れ物であるこの肉体ではなく、その中にあるものだと語ります。
スウェーデンボルグの霊界日記には、こう書かれています。
地上の万物は霊界の投影であり、型に過ぎない。
霊界には地上にある一切のものが、不完全を取り去られた美しさをもって存在する。
山も川も草木、獣にあたるものみなが存在し、地上に比類のない遙かに多くの物があって一切が調和し、何ものにもさえぎられず神の栄光を現している。

最後に、カラヤン指揮のブラームスの交響曲第1番の動画を載せたいと思います。
今朝、目が覚めた時、とても静かで美しい音楽が頭の中に流れていました。
曲の雰囲気からしてブラームスの交響曲の第2楽章だというのはわかったのですが、何番なのかがわからなかったのでメロディーを忘れない内にYouTubeで調べてみた所、交響曲第1番の第2楽章だとわかりました。
僕はブラームスの交響曲は第3番が好きで、実は第1番はあまり聴いたことがありません。
冒頭の重々しい雰囲気がどうしても好きになれず、何回か聴いた後それっきり。
しかし今聴いてみると、こんなに美しい曲だったのかと思って涙が溢れてきました。
冒頭の重々しい雰囲気も、昔は人生の苦悩みたいなものを感じていたのだけれど、今は何だか音そのもののもつ美しさが純粋に心の中に染みてくる感じです。
第2楽章の美しさは例えようがなく、スウェーデンボルグの言葉を思い出します。
第4楽章は生命力に満ち溢れ、最後はベートーヴェンの第九の如くに歓喜で終わり、正しくこの記事にぴったりの曲です。
今朝、この曲の第2楽章が頭の中に流れていたのは、ひょっとしたらこの記事の最後にこの曲を載せなさいという神様(高次元異星人)か天使のアドバイスだったのかもしれません。




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(追記あり)

いい加減、そろそろ作曲を仕上げないとと思うのですが、なかなか前に進みません。
やっとコーダに入ったのですが、そのコーダもすごく大きなコーダになりそうで、もうちょっと時間がかかるので、今日は一呼吸置いて更新が滞っているブログを書こうと思います。
作曲の目標は、今総仕上げにかかっている「月下の幻想」という曲(「宇宙創造」という題でしたがやっぱり変えました)の他に、途中で放り投げてしまったのが2曲ほどあるので、それを最後まで仕上げるのと、あと「月下の幻想」のオーケストレーションに挑戦したいと思っています。

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さて、自分の不可思議体験を元にこの世の真実を探求しているこのブログですが、今日は体験というより、「仏教」に対する僕の考え方について書いていきたいと思います。
仏教については、以前にも「ワーグナーによる「輪廻転生」表現をめぐって〜未来永劫に一体となって、そして愛に包まれて」という記事に、インドの古典「シャールドゥーラカルナ・アヴァダーナ」に書かれている仏陀の弟子アナンダの英雄伝のことなどを書きました。

現在の日本の仏教とインドの初期の頃の仏教とでは、まるで教えも考え方も違います。
僕が毎日行っている瞑想やガヤトリーマントラなどは、初期の仏教に近いのではないかと思っています。(もちろん違う部分も多いのですが・・・)
初期の仏教とは、つまり上座部(小乗)仏教のことです。
日本やその他のアジア諸国の仏教徒の殆どは大乗仏教です。
現在、上座部仏教はスリランカなど、ほんの一部の地域でしか行われていないようです。

そもそも、それこそ初期の仏教はすべて上座部仏教でした。
食べ物は托鉢以外は食べてはならず、また一日の殆どの時間を瞑想に費やし、そして日々の暮らしは200以上の厳しい戒律に定められています。
大乗仏教との一番の大きな違いは、偶像崇拝を禁じているということです。
拝んでもいいのは、法輪だけです。

しかし大乗仏教は、そんなに厳しい修行を積まなくても、仏像を拝んだりお布施をしたりすれば誰でも救われるという教えです。
その大乗仏教の極致といってもよいのが浄土宗や浄土真宗で、南無阿弥陀仏と唱えれば誰もが極楽浄土へ行くことができるという教えです。

余談ですが、日本のお坊さんは随分と逞しい体格をされている方が多く、肌の色つやも良く、普段からよっぽど美味しいものを召し上がられているような気がします。
最近のお坊さんの食事は精進料理とはほど遠く、肉食も多いと聞きます。
ベンツにも乗れるようなお金持ちも多いそうです。(神道系の方は逆にまったく儲からないそうですが・・・。)
驚くべきことに「あの世は存在しない。死んだらそれまでだ。」と考えているお坊さんもいるそうです。
仏陀の教えとは、何から何まで正反対のような気がします。 
そんな大乗仏教が、いったいいつ、どこで、どんな風に広がっていったのか?
それが解れば、現在の日本の仏教の現状が見えてくると思います。

大乗仏教が広まったのは、今から1900年前のガンダーラ。
約2500年前(紀元前5世紀)にインドで生まれ、数多くの宗教のひとつに過ぎなかった仏教は、1900年前のガンダーラの地で多くの人々が信仰する世界宗教へと驚くべき変貌をとげていきます。
現在の仏教信仰の拠り所として欠かすことの出来ない仏像も、この頃に初めて作られました。
日々の暮らしの中で、お経を読んだり祈りを捧げたりする分かりやすい信仰の形は、民衆の心を捉え、世界中に広まっていきました。
その礎を築いたのが、中央アジアからガンダーラにかけて広大な帝国を築いた遊牧騎馬民族、クシャン人でした。

クシャン人は卓越した馬術で中央アジア一帯を席巻し、標高6000m級の山々が連なるヒンズークシ山脈を越えて、カブール、そしてガンダーラを激しい戦いの末占領します。
やがてインド南西部まで手中に収め、ローマと後漢を繋ぐシルクロードの要衝の地を悉く抑えたクシャン帝国のカニシカ王は、カニシカ金貨という独自の貨幣を作り、その金貨を広めることによって帝国は巨万の富を得ていきます。
カニシカ王は様々な民族の宗教を認め、そうすることによって多くの異なる民族を治めようとしました。
それが、ガンダーラ仏教に大きな変革を齎すこととなります。

クシャン人は、死んであの世に行っても、天国に行けるかどうかはお金があるかどうかで決まるのだと考えていました。
その為、死者の口に貨幣をくわえさせるという風習がありました。
しかし仏教の教えでは、あの世に行ったらお金はまったく関係がなく、生きている時の行いが重要でした。
では、生きている時に何をすれば良いのか?
それはお布施をし、仏塔を建て、仏像を拝み、祈りを捧げれば誰でも天国に行ける、という教えでした。
そうした教えはクシャン人に受け入れられ、多くのクシャン人が競ってお布施をし仏塔を建てるようになりました。
そうやってクシャン帝国の巨万の富は、仏教を広めることに使われるようになりました。
大乗仏教の誕生です。

考えてみると、大乗仏教は死者の口に貨幣をくわえさせるあの風習と然程変わりないような気がしてきます。
死者の口に貨幣をくわえさせる代わりに、仏塔を建てるようになっただけの話です。
いや寧ろ、以前よりも死者の為に莫大なお金を使うようになりました。
あの世に行ったら、お金などまったく関係がないのに・・・。
そうやって、僧侶たちは私腹を肥やしていきました。
今の日本のお坊さんの姿、そのままではありませんか?
戒名によって、あの世の霊位など変わる筈もありません。
唯物論者が多く蔓延っている日本なのに、こういうものにはお金を惜しまない。
まったく不思議なものです。

hana04

ブラフマン(梵)とアートマン(我)が同一であることを知ることで、永遠の至福に到達しようとする思想が「梵我一如(ぼんがいちにょ)」です。
ブラフマンは元々は「ヴェーダ」の教典の「賛歌」「呪句」を表していましたが、やがてそれらに内在している「神秘力」という意味で用いられるようになり、更にはその力が宇宙を支配すると理解されていって「宇宙を支配する原理」となりました。
(「ヴェーダ」とは「知識」という意味で、「グノーシス」はここから来ているのではないかと思います。それから、ガヤトリーマントラは「ヴェーダ」に書かれていたものを、サイババが現代に復活させたものです。)
アートマンはドイツ語のAtem「息、呼吸」と語源が同じで、ここから「生気」「霊魂」「身体」「自己自身」「自我」という意味が派生して、やがては「個体を支配する原理」とみなされて、更には「ものの本質・本体」という意味でも用いられるようになりました。
(つまり「梵我一如」思想は、ワンネスという考え方と同じだといっても良いかもしれません。この思想は、実は大日如来の観想による即身成仏など密教の中にも見受けられます。)

古代インドのバラモン教は、この「梵我一如」を発展させたものでした。
バラモン教は「ヴェーダ」、そして祭儀を執り行う祭司階級であるバラモンを頂点として、クシャトリヤ(王侯・武士)、ヴァイシャ(庶民)、シュ―ドラ(隷民)という身分制度を生み出し、それはヒンドゥー教のカースト制度の母体となっていきました。
つまり、祭儀を司るバラモン階級のみが「ヴェーダ」を学ぶ資格があり、これを学ぶことで輪廻から解脱できると考えられていたので、ここにブラフマン的思想を源泉として分泌される祭司階級を頂点とした身分社会、圧倒的かつ論駁不可能な不平等、逆立ちしてもひっくり返すことができない「格差社会」が君臨していきました。

仏陀は、祭儀を司るバラモン階級、バラモンを頂点とする身分社会、これらは「空(一切皆空)」(つまりマトリックス)であって、輪廻から解脱する機会はバラモン階級だけではなく、全ての人に開かれているのだと説きました。
自分の身体を取り巻くあらゆる実在を否定し、我執に苦しむ個もまた否定し、ひたすら自らの「道」を全うすべく修行に励めば、いかなる人も涅槃(ニルヴァーナ)に至り解脱できると説きました。
(これは、老子の道「タオ」に繋がってきます。)

自分の外側、つまり自分の周りの環境によって与えられる社会的な役割や肩書きや他者から評価というあたかもブラフマンのような実在に惑わされる必要はなく、自身の虚栄心も乗り越えて、自分の内側、つまり自己(アートマン)が本当に良いと思う行いをし、本当に美しいと思うものを追求していくことが、やがては本物のブラフマン(宇宙を支配する原理)と一体化すること(解脱)に繋がっていくのだと思います。
自分を他力によって救済してくれる神など存在せず、頼るべきものはすべて自分の内側に既に備わっているという仏陀の教えは、瞑想やガヤトリーにも繋がってきます。
例え上座部仏教のような厳しい修行を積まなくても、そのように考え方を改めさえすれば日々の生活こそが修行になっていくのだと僕は考えます。

ブラフマンとアートマンが同一であることを知り、永遠の至福に到達するには瞑想するしかありません。
「梵我一如」の思想の背景にヴェーダ祭式の「同一視の論理」というのがあって、例えば獲物の足跡に傷をつける猟師のまじないがあるそうです。
足跡を獲物の足と同一視して、それに傷をつければ獲物は遠くへ逃げられないのだそうです。
祭式の場にあるものを神話の世界や自然界の事物と同一視することによって、祭場にある祭具などを操作し自然を支配しようとしました。
ウパニシャッド(ヴェーダの「奥義書」または「秘教」)の哲人たちは、それを瞑想で用いました。
瞑想でAをBと同一のものとみなして意識の集中し、分別による知を乗り越えて、対象が直観され、主観は対象の中に入り、対象と融和し、対象そのものになり、同化します。
こうして瞑想によって対象そのものになり、その対象のもつ力を得ることができます。
瞑想とは、それほどの力を持ちます。 

お布施がどうの、戒名がどうのと言っているようなレベルでは、先が思いやられます。
仏像を拝むということは、仏陀を神格化していることに他なりません。
浄土宗や浄土真宗など殆どの日本の仏教は、伝搬する過程で土着の宗教を次々と取り込んでいき、本来の仏教とはほど遠いものになってしまいました。
それは知識などではなく、迷信です。
そもそも本来の仏教とは宗教ではなく、道(タオ)なのです。
老子は、「道」の根本とは、ものごとが生じるその始めを知ることであると説きました。
ものごとがこの世に顕れる以前からの道筋を見極めることが出来れば、制御は可能だと説きました。
自分の想いが生じる以前の本来の自己を知るということを。
それが苦の解脱の根本だということを。
それらは既に、自分の内側にすべて備わっているということを。
迷信ではなく、本物はそこに存在します。

hana05

(写真は水元公園で撮りました。)


(追記)

ひとつ、重要なことを書き忘れていました。
何も、僕は神様を全否定している訳ではありません。
僕は共産主義者でもニヒリストでもありません。
夢の中でイエスに会ったり、マリアが僕の肩に降りてきたり、弘法大使が仏壇の向こう側に座っておられたり、天狗が僕の家に訪問してこられたり・・・そんな奇跡を何度も経験してきました。
悪魔の様な存在にも、何度も遭遇してきました。
そのような目に見えない存在たちがいることを、僕はこのブログで訴えかけてきました。

だから僕は神社や神棚や仏壇にいる彼らに祈りを捧げ、感謝をします。
僕は彼らは神様というより、天使、先輩方という見方をしています。
5次元以上の高次元から僕らを見守り、僕らを指導してくださる方たちです。
時に彼らは猫の姿で現れたり、鳥の姿で現れたり、また人間の姿で現れたりもします。
(もちろんベルさんも、僕は天使の化身だと思っています。)
天使たちは、いつも僕らに寄り添っています。

しかし僕らの心が清くないと、彼らは決して姿を現しません。
だから外側がどうとかではなく、心の内側が重要になってくるということなのです。
彼らとの交流は、心の内側の状態によって可能になるのです。
5次元チューナーを増設できるかどうかは、そこが鍵になってくるのです。

「ウパニシャッドの創造神話では、一切はプルシャ(原人)の姿をしたアートマンであった。世界には、彼しか存在していなかった。彼は、「ここに私がいる」と言った(アートマン=自我)。
プルシャは、一人でいるのは怖いと思い、楽しくないと感じた。そこでプルシャは自らを半分に分けた。こうして、夫と妻が生じた。夫は妻を抱き、人類が生まれた。妻は、もともと私は夫から生まれたのに、どうして夫は私を抱くのかと思って、隠れることにした。妻は牝牛となった。しかし夫は牡牛となって妻を抱き、それから牛が生まれた。このようにして、夫婦は人間や、動物や、神々など、一切のものを創造した。」

僕らも、動物たちも、僕らが神様と呼んでいる天使たちも、こうしてプルシャによって創造されていきました。
重要なのが、すべては元はプルシャというアートマンであったということ。
それこそが「梵我一如」思想の原点です。
僕らはプルシャの一部なのです。

この3次元物質世界は、完全に分離してしまっている世界です。
個(アートマン)が宇宙(ブラフマン)から切り離されてしまっている世界です。
僕らの生きる目的は、如何にしてブラフマンと繋がるか、そして一体化できるのかということを知るということです。
自分の外側に神を求めるのではなく、頼るべきものは自分の内側に既にすべて備わっているというのは、そういうことなのです。
なぜなら、僕らはプルシャの一部なのだから・・・。


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ここの所、薬物違反による報道が続いています。
写真週刊誌フライデーにコカイン吸引疑惑を書かれた成宮寛貴さんは、その疑惑を否定しながらも芸能界引退を決断されたそうです。
成宮さんは本当にやっていないと思いますが、周りを取り巻く人たちの中に、どうやらそのような関係筋の人がいるようです。

他にも、最近では元女優の高樹沙耶さんも大麻所持の疑いで逮捕されましたし、チャゲ&飛鳥のASKAさんが覚せい剤使用で再逮捕されました。
それから、押尾学さんは危険ドラッグを女性とされていて、その女性が亡くなったという事件や、高島礼子さんの旦那さんの高知東生さんは麻薬を元ホスト女性と使っていて逮捕されましたし、元巨人軍の清原さんも逮捕されました。

また一般人でも、麻薬を使用して銃で従業員を撃ち殺して、自らも銃で自殺するという事件や、少し前には「脱法ハーブ」と呼ばれていたドラッグを吸った男が運転する車が次々と歩行者をはねるという事故もありました。

こうした麻薬の広まる背景には、楽をして喜びを得ようとする考えがあるようです。
この社会では、目標に向かって努力をしていかなければ、成功の喜びを得ることはできません。
そうした努力をせずに、すぐに快楽や喜びを得たくて麻薬に手を出してしまうのだと思います。
またストレス解消や周りの環境というのもあるでしょう。

しかし、そもそもこの世の中の仕組みには、なかなか成功できずに厭世的になってしまうような要素が沢山あります。
3S政策というのがあって、Screen(スクリーン=映画)Sport(スポーツ=プロスポーツ)Sex(セックス=性産業)を用いて大衆の関心を政治に向けさせないようにする愚民政策は確かに存在しています。
麻薬は違法ですが、そもそも国が人民を愚民化させる政策を取り入れているので、違法ではなくても依存性の高いものは多く、そうした怠け者思想が蔓延していくのは当然のことだと言ってもいいのかもしれません。
僕は最近のスマホの普及やFacebookなども愚民政策の一環だと思っています。

人がこの世で生きる目的が霊的進化であるのに、国の政策は国民の霊的退化を押し進めているかのようです。
今月の6日に、IR法案・カジノ法案がろくに議論もされず、なんと衆議院で可決されてしまいました。
カジノや競輪や競馬、そしてパチンコなどのギャンブルは、当たれば簡単に大きなお金を手にすることができます。
一度大勝ちしてしまうとその快楽が忘れられず何度もやり続け、負けが込こんでお金をすってしまうと、今度はそれを取り戻そうとまたギャンブルを続けてしまい、そうやって負のスパイラルへと陥ってしまう。
ギャンブルは麻薬と同じで、依存性がとても高いです。
IR法案・カジノ法案が、いかに愚民政策であるかは言わずもがなです。

「地獄への道は善意で舗装されている」ということわざがありますが、このことわざには色々が解釈がされています。(現在の日本で一般的な解釈は 「良かれと思って行ったことが悲劇的な結果を招いてしまうこと。 または、悲惨な出来事が皮肉にも善意の行いが発端となっていること。」となっています。)
このことわざには、実は「天国への道は悪意で舗装されている」という意味も含まれています。
「天国への道」には「忍耐」という舗装がされているのであれば、「地獄への道」にはきっと「楽をして快楽や喜びを得る」という舗装がされていると言えるかもしれません。

考えてみると、人間は色々なものを発明して、昔の人たちに比べると現代人は随分と楽な生活ができるようになりました。
このまま進めば、仕事も料理も、面倒なことはすべてロボットがやるなんて時代が来るかもしれません。
本当に、人類の進むべき道はこれでいいのか?という疑問が湧いてきます。
人がこの世で生きる目的は霊的進化であるのに・・・。
mizumisaaki13
この世の本当の真実は、いったいどこにあるのか?
今、ネットでは偽情報が溢れかえり、テレビのニュースも本当に大切なことは流しません。
BSの世界のニュースを見ていると、世界の至る所で戦争が起きていて、この地球という星がいかに平和とはほど遠く汚れた星であるのかがよく分かります。


ところで、老子の「人の妄想とは、現実は幻想ではないというものである」とは、いったいどういうことなのだろう?
つまり幻想が現実より本物であるならば、目に見えているこの現実とはいったい何なのか?
現代でもスピリチュアルな方たちなどが色々と説かれていますが、それらの話だって嘘かホントかわからない。
しかし自分で体験してしまえば、それらは間違いないということになります。
そういう体験をするために、僕は無意識的に神社を巡る旅をしたり、瞑想やマントラを唱えたり、ベジタリアンになったり冷水行をしたりするようになったのかもしれません。

そうなるために、僕は社会的な成功を収めてはいけなかった。(言い訳がましいですが・・・)
つまりどん底を経験しなければ、真実を探求しようと思うこともなかったということです。
それは、自分が生まれてくる直前に自分で計画していたことなのかもしれません。
僕の目の前に現れた謎の人物たちも、生前に示し合わせていたことなのかもしれません。

例えば、僕は地下鉄の駅で悪魔を見たことがあります。
周りの人たちには見えないのか?はたまた普通の人に見えていたのか?わかりませんが、僕は完全に悪魔の姿として捉えていました。
髪は黒く太いはりがねのようで、顔の肌も鉄のように堅そうで青白く、なんだか頭から湯気が立っているように見えました。
なにやら意味不明なことをぶつぶつと言っては笑うということを繰り返していました。
僕は地下街でその悪魔とすれ違ったのですが、悪魔はUターンをして僕の後を付いてきました。
きっぷ売り場に辿り着いてから僕が悪魔の方に振り向くと、悪魔は頻りに「すみません」と謝っていました。
その時、携帯が鳴って(仕事関係の人から)、かかってきた相手と話をしている僕の姿をしばらく見た後、悪魔はきっぷを買って、そのまま改札口から駅の中へ入っていきました。

不思議なのが、これらのすべての出来事は、その日より約30年も前に僕は夢の中で見ているということです。
確か小学校2〜3年生の頃だったか・・・。
あまりにもリアルで衝撃的な夢だったので、はっきりと覚えています。
そしてその夢が現実になったのが、だいたい40才ぐらいの頃だったか・・・。
それまでは仕事はすこぶる順調でした。
しかしあの悪魔を見た日を境に、僕はなぜか周りから白い目で見られるようになりました。

これはほんの一例にすぎず、似たような体験は山ほどあります。
お陰で、僕は社会的地位を求めてはいけないということを悟ることが出来ました。
僕には休閑期によって恩恵を受けられる何かがあることも分かりました。
もし安定した生活を手に入れてしまったら、その分何かを失い、この世の真実には辿り着けません。
真実は自分の外にあるのではなく、自分の中にあるということを、それらは証明しています。
悪魔は僕に、そのことを教えてくれた。
これは誰に対しても言えることで、大事なのはアリのような忙しい生活なのではなく、自分の内側にあるものなのです。
だから「幻想を創造し、それらは現実より本物であるとする者がスピリットの道に従い、天の道を見つける」という老子の言葉の意味が、僕には分かるような気がするのです。
そしてそのことは、今のこの現代に一番求められていることのような気がします。
mizumisaaki04
ついこの間「僕はこれから千年生きる」と言った人がいました。
どこかで聞いたことのある言葉だなと思ったのですが、おそらく仏教の千年王国信仰(その中核をなすのは弥勒下生信仰)だと思うのですが、もともと旧約聖書のノアの洪水以前の人間の寿命は千年近かったといいます。(ノアは950年生きた)
つまり、これは一部の人たちの間で信じられていることですが、これからノアの洪水以前の地球に戻るというのです。
地球の次元が上昇して、すべての人間が半霊半物質の状態となり、肉体を持ったまま死後と同じような世界を生きられるようになるというのです。
また、地球には地底王国というのが存在し、そこには地上のような有害な宇宙線や紫外線や太陽風の嵐が降り注がないので、そこの住人は千年生き、そして地上に出た途端に急激に寿命が短くなるといわれます。
ヒトラーは、地底王国の入り口があるとされているチベットに何人もの調査隊を派遣していますが、このことは以前にブログで詳しく採り上げました。
その地底王国がやがて地球から顔を出す時(地球の出産)、地球はプラズマで覆われて有害な宇宙線などをシャットアウトして、そして千年王国が復活するのかもしれません。

もちろん、こんなことは実体験を通して証明できる筈もなく(僕自身の中で)、殆どがネットや本からの情報に過ぎないので、実際に「僕はこれから千年生きる」なんて言葉を聞いてしまうと、現実に本当に信じている人が近くにいたのだということに驚いています。
しかし、そう言い切れる根拠か何かがおありになるのかもしれません。
理にかなっている部分もあると思うので(もちろん僕の中で)、僕は8割近く事実だと考えています。
もちろん疑ってもいますが、逆に100%嘘に決まっていると思うなら、その根拠はいったいどこにあるのかと問いたい。

僕は今年の初めぐらいに、今年のテーマは「子供に還ること」だと書きました。
以前に地球は3〜6才のぐらいの少女であると書いたことがありましたが、つまり瞑想を通して地球と繋がることを意味していました。
「地球次元上昇」とはつまり、少女だった地球が大人の女性へと成長するということです。
それは普通は数万年、数億年かけて成長していくのですが、地球はこの十数年で急激に成長していくそうです。
宇宙規模の大イベントなので、今はそれを見届けようと数えきれないほどの異星人が地球に来ているそうです。
もちろん、これもネット情報ですが・・・。
しかし、地球が少女の姿になって僕の目の前に現れたことが何度かあります。
あの少女が大人の女性へと急激に変貌を遂げた姿を想像してしまい、ワクワクしてしまうのです。
僕も地球と共に、霊的進化を目指していきたいと思うのです。
その先に、千年王国が待っているのかはわかりませんが・・・。
mizumisaaki07
未来は決まっているが決まっていない、これが僕の実体験を通しての真実です。
正夢を見るということは、もう決まっている未来もあるということですが、選択の余地が残されている未来もあります。

要は、幾つかある未来の中で、自分はどの未来を選ぶかということです。
「楽をして快楽や喜びを得る」という舗装がされている道を選ぶのか、「忍耐」という舗装がされている道を選ぶのかということです。
真実は自分の中にあります。
ストイックな生き方をして、耐え忍ぶことは大切です。
闇が深ければ深いほど、光は美しく輝くものです。
人間から発せられる波動は、指紋のように一人ひとり違っていて、まったく同じ波動はありません。
洗脳や愚民政策に惑わされずに、故郷の夜空の星のように美しく輝く波動を発していたいものです。

(写真は水元公園・みさと公園で撮りました。)


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音楽が人の心を狂わすこともあるかもしれない。
ヒトラーはワーグナーの音楽を使いアーリア人至上主義を唱え、隣国を次々と占領していった。
音楽を悪用した典型例だ。
テレビから流れてくるCMソングを何度も聴いて、洗脳されてしまうこともある。
その音楽を思い出す度に、その商品を買いたいという衝動を引き起こさせるのだ。

あまりに悲しすぎる音楽を聴くのも良くないという人がいる。
しかし、これに関しては僕はちょっと違うのではないかと思っている。
悲しい音楽を聴いて、落ち込んで何も手につかなくなるなんてことがあるだろうか?
そもそも音楽は、心の波長のようなもの。
楽しい時には楽しい音楽を聴きたいように、悲しい時には悲しい音楽を聴きたくなるもの。
しかし、悲しみを助長させるなんてことは決してないと思う。

「おすぎとピーコ」のピーコさんが左目のガンの手術をして、抗がん剤で髪が抜け落ちて死にたいと思った時、死ぬほど悲しい音楽を聴いたらいいんじゃないかと思い、あのビリー・ホリデイの「I Am A Fool To Want You」をずっと聴いていたのだそうだ。
死ぬほど辛い経験をしているからこそ、分かることがある。
「その気持ち、私にはわかる。」というような。
それは同情心であると同時に、癒しにもなる。
悲しみというものを知らない人には、きっとこの曲の良さは分からない。

塵も積もれば山となるとは、よく言ったものだ。
一度どん底を味わってしまえば、その体験が塵となって積もり、もう二度と同じようなどん底を味わわなくなる。
塵がどんどん積もって、やがて神界にまで達した時、人はやっと悟ることが出来る。
まったく塵の積もっていない人に、塵が神界にまで達している人の感覚など理解できる筈もない。

神界とはどういう所なのか?地獄界とはどういう所なのか?
僕は神界とは上も下もなく、優も劣もなく、明も暗もない、すべてに均等が保たれていて調和された世界だと思っている。
逆に地獄界とは分離された世界、強い者が勝ち、弱い者が負ける、つまりこの世のことだ。
つまり我々人間は、神界にまで達するための修行を、この世で行っているということになるのだ。
輪廻転生を繰り返し、業を重ねて、人は新しい感覚をマスターしていく。
それこそが、霊的進化だ。
そして、良い音楽を聴くことや良い本を読むということは、この進化にとってとても有効的なことなのだ。
人は体験をしなくとも、歌手や作曲者や物語の主人公の気持ちになり、同情することが出来る。



しかし、なんと美しい演奏なのだろう。
このキース・ジャレットの「祈り(生と死の幻想より)」という曲を聴いてると、ジャズという枠を超え、この地球上にある常識という常識もすべて消え去って、広大な宇宙と一体化してしまったようだ。

キースはこのアルバムで、ピアノ、ソプラノサックス、フルート、パーカッションという4役をこなしているというのだから、何というマルチだろう。
しかしもっと驚くべきことは、彼はすべてが即興演奏だったということ。
自分を巫女(シャーマン)的な媒体として、神の声としての音楽を聴き、それを己の五体を通してピアノを弾くのだそうだ。
そしてやがては霊媒や巫女的なレベルを越えて、自己の魂の叫びとしての音楽を芸術として昇華していく。
キース・ジャレット・創造の秘密という素晴らしい記事を見つけました。ちょっと長い記事ですが、是非最後まで読んで頂きたいです。しばらくその記事に書かれていたことを続けます。)

彼の演奏を聴いていて、どこか禅の世界に通じるようなものを感じていたが、それはあながち間違えではなかった。
「チャンヂィレス(Changeless)」(ECM 1989)というアルバムジャケットには、禅の「円相」で有名な「○」の字が、薄いわさび色の地にポツンと描かれている。
この字は南画で有名な直原玉青(じきはらぎょくせい)の筆とのこと。
そしてこのアルバムは、禅の悟りの境地であるこの「円相」を全体のコンセプトにしているというのだ。

禅の心を伝える図として「十牛図」というものがある。
中国北宋の時代に考えられた、禅の教えを易しく説いている10枚の図のことだ。
1牛を探す(尋牛)→2足跡をみつける(見跡)→3牛を見つける(見牛)→4牛を掴まえる(得牛)→5牛を飼い慣ら す(牧牛)→6牛に乗ってわが家へ帰る(騎牛帰家)→7牛を忘れてわが家に居る(忘牛存人)→8○(人牛倶忘)→9人も牛もいない心に春の花が咲き乱れる (返本還源)→10街で楽しく遊ぶ(入てん垂手)

キースの即興演奏の流れが、この「十牛図」と良く似ているそうだ。
「主題(メロディあるいはモチーフ)の探索→主題の発見→主題の展開→発展→絶頂→昇華→崩壊と混沌→新たな 主題の発見・・・。」というように。
「牛」とは己の心の中にあって心定まらぬものであり、それを見つけ、それを自分の力で飼い慣らし、己の心という牧場に放った時、牛は消えて自己と一体となり、心はまっさらの「○」となる。
「○」は悟った者の心の有り様を指し、これが 「悟り」だというのだ。

また彼は20才の頃から、ギリシャ正教の宗教家G・I・グルジェフ(1877頃〜1949)に傾倒 している。
グルジェフの思想は、「通常、人間本来の意識というものは、眠っている状態に置かれている。習慣に縛られ、その状態を覚醒と思い込んでいる。人間の本質にある意識に目覚めるためには、何事にも激しい願望を持って、意識的(自発的)に行うことが必要である。そのことによって、人間は真の自我、真の自己に覚醒することが叶う」というものだ。
若いキースはグルジェフ体験を通して、自己の内面にある「本来の自分」というものを強く意識するようになった。
キースの音楽のその深い精神性は、おそらくこのグルジェフの思想体験から来ているのかもしれい。

「人間本来の意識」とはなにか?
CG・ユング(1875〜1961)は心の構造を研究し、人間の心には決して意識化され得ない意識領域があることを発見した。
それは潜在意識の奥にある、集合的無意識という言葉で表される。
顕在意識は氷山の一角であり、人間はその下に集合的無意識という巨大な意識の固まりが眠っていることを忘れてしまっている。
キースの即興演奏は、この集合的無意識からのインスピレーションが働いているのではないか?
aki04
「こう見えて、僕も子供の頃は神童といわれたこともあってさあ。」
「へえ〜。」
「いや、ピアノの先生に僕の即興演奏を弾いて聴かせてみたら、天才だ神童だともてはやしてね。」
「それは凄いじゃない。」
「いや、戯れ言だと思って聞いてよ。子供を褒めたら駄目だね。それ以降、僕の人生、まったく駄目だったんだから。」
「褒め方にもよるんじゃない。」
「別のピアノの先生についたら、一からクラシック音楽の基礎を教えないと駄目だと言われてバイエルから始めたんだけど、つまんなくてね。いやんなっちゃってやめたこともあったんだけど、やっぱり僕には音楽しかないと思い至り、また勉強し直して一流の音大までいったんだけれど、あの頃を思い返してみると、僕には何もなかったんだよなぁ。」
「何もなかった?」
「何もないのに成功してしまう人もいて、それはそれで悲劇かもしれないけど、キースのような哲学を僕はちゃんと持っていなかったんだ。なにをどう生きるべきなのか、まったく分からなかった。ココロん中は何もなかった。ただ生きているだけだった。生きながら死んでいた。それこそキースの言う『どう猛さ』など微塵もなかった。だけど瞑想するようになって、『意識を自己の内に集中させて照らす』ようになって、なんだか最近、道が開けてきたような気がしていてね。本来の自己へ辿り着く方法が分かってきたような気がしてるんだ。」
「老子のタオですか。」
「タオ、つまり道の根本とは、ものごとが生じるその始めを知ることであると老子は説いた。子供の頃の即興が僕の原点だったかもしれない。もっと深く探っていけば、それは前世に通じてくるかもしれない。また即興演奏をしたいと思ってる。もちろん、下手すぎて人には聴かせられないと思うけど。けどね、僕はココロん中でキース・ジャレットという旗を掲げ始めてる。大学出た後も時々即興をやってみたりしていたけど、教わってきた基礎をなかなか壊すことが出来なかった。でもキースの演奏を聴いていたらまたやってみたくなった。壊すのではなく、それは本来の自分を思い出すということなのかもしれない。それにはキースの言うように、創造の神から届けられたものを、なし得る限り、俗塵の介入を防ぎ、純粋度を保たねばならないのだと思う。ねえ、ところでマスター、何か食べるものある。」
「ミネストローネとかはいかが?」
「喫茶店なのに、そんなのあるの?」
「ここは今は喫茶店だけど、夜は内装を変えてレストランにしていて、まっその時には家の女房が僕に変わってこの店のシェフになるんだけど、昼間は閑散としてるけど、夜の方は結構人気があって。」
「へえ〜いいねぇ。そうなんだ。するとミネストローネは奥さんの仕込みってこと?ベジタリアンには助かるし、じゃあ、ミネストローネお願いするわ。」
「かしこまりました。」

2003年に発売されたキースの「アップ・フォー・ イット」(副題は「The Triumph Desire」で「願うことの勝利」という意味)のライナー・ノーツには、こんなことが書いてあるそうだ。
「これを2003年2月に書いている。(中略)僕たちの国は、イラクとの戦争に突き進んでいる。今や世界は目立って詩的感性が欠如しているかに見える。その結果、世界はこれ以上喜びや超越性というものが育ち辛い世となってしまった。(中略)若者は内面を見詰めるという自身の仕事を忘れ、金と名声だけがすべての動機となってしまった。この世界に対する誠実さとはいったい何か?その意味とは?何故、音を紡ぎ出すのか?創りあげたものの違いとは何か。」
非常に興味深いと共に、心が震えるほどの共感を持って僕はこれを読んだ。
キースの演奏は集合的無意識の具現化であると同時に、極めて高次元的な願いなのだろう。
世界はこれからどこへ向かうのか?
それは、我々の潜在意識の奥にある集合的無意識に掛かっているのかもしれないが、キースの創りあげたものは、世界を良い方向に向かわせていると信じたい。




これはデューク・エリントンの弾く、蓮の花(ロータス・ブロッサム)という曲。
ビリー・ストレイホーンの代表作だ。
亡きビリーを偲ぶ演奏会も終わり、ミュージシャンがガヤガヤしゃべりながら帰り支度をしていた時、エリントンはまだピアノのそばにいたのだそうだ。
「何かはじめるに違いない」と技師はテープをまわし続けていると、雑談と雑音の中でデュークは静かにこの曲を弾きだしたそうだ。
だんだんと力がこもるにつれ、うるさかったスタジオも静まりかえっていった。
後になって、デュークは言ったそうだ。
「この曲を弾くと、いつもビリーはとても喜んだ。」
 
これは、その時の実際の演奏。
後半にジョニー・ホッジズのアルトが加わってくる。
デューク・エリントンの片腕として約30年間もアレンジャー、そして楽団を支えてきたビリーの死は、デュークにとってどれほどの悲しみであったことか?

実にシンプルなメロディ、実にシンプルな構成、それなのに何故こんなにも心を激しく揺さぶられるのか?
ビリーの人間性、そしてデュークの思いが、これほどにまで凝縮されたような美しい演奏が、他にあるのだろうか?
キース・ジャレットの即興のような神性を感じる。
ひょっとしたら、ビリーの魂が降りてきていたのかもしれない。
塵も積もって山となり、やがて神界にまで達すれば、まさしく俗塵の介入を許さない高純度な美がそこに顕われる。
それが「悟り」であり、それはまた「愛」ともいえるのかもしれない。
aki01

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(写真はみさと公園で撮りました。尚、この物語はフィクションです。)


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