piabuの不思議blog

オカルトでも陰謀論でもなく、この世界に隠されている本当の真実を自分自身に起こった不可思議な体験を元に探求しています。人間はなぜ生きなければならないのか?異次元世界はどうなっているのか?知れば知るほどに、この世界が摩訶不思議なもので溢れていることに気づくのです。

タグ:臨死体験

今日はクリスマス・イヴ。
何度となく記事にしてきたように、クリスマスはイエス・キリストの誕生日でも何でもありません。
イエスの誕生日は紀元前6年4月17日(土)ということが、科学的調査でわかっているそうです。
「そんなことはどうだっていい。真実なんて関係ない。イエスの誕生日でいいじゃないか!」なんて思っている人が殆どだと思いますが、、、
けれど多くのスピ系ユーチューバーが、21日の冬至に、地の時代から風の時代に移行したと語ります。
風の時代は、隠されていたものが明るみに出てくる時代なのだそうです。
ウソが罷り通らない時代だそうです。
ただの闇の戦略でしかなかったクリスマスも、いずれは古代から続けられてきた冬至を祝う本当の儀式に戻っていくのだと思います。

そう、、、クリスマスはバレンタインと同じ企業戦略でした。
この日に大切な人とお互いにプレゼントをし合おうと宣伝し、企業は売り上げを伸ばしてきました。
しかし、貧しい人はプレゼントを贈るお金さえありません。
地球の裏側には、そういう人たちもたくさんいます。(日本もコロナ禍で酷いですけど)
もともとクリスマスの起源というのが、聖ニコラウスが貧困に喘ぐ家庭の窓に金貨を投げ入れたことから始まっています。(聖ニコラウスの日は12月6日)
僕が言いたいのは、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない・・・by 宮沢賢治」ということです。
クリスマスというのは、本来こうあるべきものです。
それが今では、「金持ちの金持ちによる金持ちのためのクリスマス」になってしまっている。。。
神も仏も信じない、見た目重視のこんな社会に、未来はあると思いますか?
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e-waldorf 様 の記事より勝手に拝借しますm(__)m



ドイツでは、サンタクロースの起源となった聖ニコラウスの後ろにクランプスという鬼がついて来ます。
各家庭に訪問して回り、子供が良い子にしていれば聖ニコラウスが子供にお菓子を上げて、悪い子はクランプスがその子供を大きな袋の中に入れてさらうのだそうで、酷い場合は川の中に子供を落とすのだそうです。

それが秋田のなまはげになったという説は、僕はかなり信憑性が高いと思っています。
一部の秋田県人は、白人(ドイツ人)のDNAを持っているそうです。
なまはげには赤鬼と青鬼がいますが、この赤鬼こそがサンタクロースの本当の正体のようです。
子供の夢を壊すような話ですが、僕の不可思議体験から考察してみても、どうやらサンタクロースとは、人間の子供を喰らう低次元宇宙人のことのようです。
そう、、なまはげやクランプスやサンタクロースの正体とは、、、レプティリアンやグレイ、あるいはそのハイブリッドのことなのです。

僕はそれを、ある夢を見たことにより確信しました。
アブダクションをされたアメリカ人の体験を、そのまま僕は夢の中で体験しました。
その夢がただの夢ではなくて真実だとわかったのは、アブダクションされた人の証言をもとに作られた映画を観たからです。
映画で再現されていたUFOの内部は、僕が夢で見たUFOの内部とまったく同じでした。
この話は、以前に詳しく記事にしました。↓





なまはげの正体を暴くような夢も見ています。
クロマンタ(黒又山)には、どうやら異次元へのポータルがあるようです。
その次元が高次元ならいいですが、間違いなく低次元(低層アストラル界)です。
1934年に理想郷「シャンバラ」を捜し求めてチベットに潜入したドイツの探検家テオドール・イリオンが、サンポ渓谷(別名「神秘の谷」)で出会った、人肉食の習性を持ち人間の魂を奪い取る「闇の霊団」と同じ種族です。
彼らは太陽を嫌うので、地下で生活し、夜になると地上に姿を現わすのです。
サンタクロースも、夜に煙突から家に忍び込みます。

時々僕は、夢の中でこの世の中の本当の真実を知らされます。
いったい誰がそんなことを?
どうして本当の真実を知らせるのか?
まったくわかりません。
しかし、聖書に登場してくる預言者ヨセフは、夢占いで未来を予知しました。

ノアや預言者イザヤもそうです。
伊勢志摩にある元伊勢の伊雑宮(いぞうぐう)は「いざわのみや」とも呼ばれ、「いざわ」とは「イザヤ」のことだともいわれています。
この伊雑宮こそが本当の伊勢神宮であると、宮司で剣術の達人でもあった小泉太志命は語られていました。
それは『旧事本紀大成経』にも書かれていました。(アカデミズムは偽書としていますが)
しかし伊雑宮は、藤原氏が物部と共に封印されてしまいます。
物部は原始キリスト教(ユダヤ教)、藤原はカナン族。
伊雑宮は、聖十字架の上についた罪状書きがご神体となっているそうです。
僕は伊雑宮には2度参拝していますが、僕の見た夢とイザヤと伊雑宮には何か関係があるのではないかと考えているのです。
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日本人の信仰と聖書について考える会ブログ 様 の記事より勝手に拝借しますm(__)m



何だか話があっちにいったりこっちにいったりしていますがm(__)m、ちょっとここから「夢」について考察していきたいと思います。
夢とはいったい何なのか?
ハリウッドは闇の勢力の管轄下ではありますが、とてもいいヒントを与えてくれています。
映画全体が壮大なだまし絵になっていたりしますが、本当の真実が隠されていることが多いです。

闇の目的は、暴力に対する人々の反応を鈍感にしてしまうことです。
映画の中で人が殺されるシーンが多ければ多いほどよく、殺され方もより残虐であればいい訳です。
そういうシーンを多く見れば見るほど、それは潜在意識の奥深くまで浸透していき、思いやりや無償の愛といった心の奥にある「光の領域」を壊していきます。
僕はそういうシーンには極力注意し、なるべく見ないようにして、真実が描かれている部分にだけに着目して観るようにしています。
なかなか難しいですが、、、

もう10年も前の映画になりますが、レオナルド・ディカプリオ主演で渡辺謙さんも出演されている『インセプション』という映画がありました。
映画の中での「インセプション」とは、夢で他人の潜在意識に潜入して「情報を抜き取る」とか「植え付ける」という意味です。
たとえば、金庫のダイアルの番号を抜き取って、相手が隠しているものを盗むとかです。

この映画には、2つの重要なポイントがあると思っています。
まず1つ目は、夢の共有です。
古代ヨーロッパでは集眠儀式という、皆で打ち合わせをして寝るということが行われていたようです。
夢の中の神殿で待ち合わせて、そこに神様を降臨させ、これから未来がどうなっていくのかを教えてもらうなんてことをやっていたようです。
現在では、米国などでアストラルセックスという、夢の中で性交をするということが流行っているそうですが、相手の了承を得ないでこれをやってしまうと罰せられるのだそうです。
つまり、夢を共有することは実際に可能だということです。
僕はやったことがないですが、任天堂の『あつまれ どうぶつの森』みたいなことが、夢の中で出来てしまうということになります。

2つ目の重要なポイントは、夢の中の時間です。
映画『インセプション』で面白いのが、夢の中で見る夢、またその中の夢という風に、二層三層と夢が深くなるに従って、時間がどんどん遅くなっていくということです。
二層の夢の中での1分間が、三層では1時間?になっていたりする訳です。
これは、ブラックホール理論とどこか似ています。

映画『インターステラー』に登場してくるミラーという惑星では、ガルガンチュアというブラックホールが近くにあって、強力な重力の影響を受けているため、この惑星の1時間が地球上の7年に相当していました。
また、主人公のクーパーがガルガンチュアの中心、四次元超立方体の「テサラクト」に到達すると、そこは地球に住む過去のマーフィーの部屋に通じていたというのも、時間と空間は幻想であることを表現しているといえます。
『インセプション』も『インターステラー』もクリストファー・ノーラン監督ですが、僕はこの人は「時間」に対する捉え方がすごく面白いなぁと思っています。

おそらく、時間と空間が幻想であるということは真実でしょう。
では、夢の世界こそが真実なのか?・・・ということになります。
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Amazone 様 より



夢に関するSF映画というと、他にも『トータル・リコール』や『アバター』なんて映画が浮かんできます。
『マイノリティ・リポート』は夢での未来予知をテーマにしていて、『マトリックス』では、本当の自分は別の次元で眠らされていて、この物質世界での出来事はすべて夢にすぎないというような設定でした。
『惑星ソラリス』は、自分が見た夢や記憶や妄想が実態化するという映画でした。
亡くなった主人公の妻の幻影が出てくるというところは、どこか『インセプション』と似ています。
(日本神話の『イザナギの黄泉国下り』にも似ていると思います)
『フラット・ライナーズ』という映画は、夢ではなく臨死体験をテーマにしていますが、夢と臨死体験はある意味で同じだと思っています。
『ヒア・アフター』という映画にも、臨死体験が描かれています。

夢(臨死体験)というのは、魂がこの3次元物質世界から抜けて、異次元に移行した状態だということになります。
その世界はあまりにもこの現実世界とかけ離れていたりするので、夢は真実ではないと思ってしまいがちですが、実はむしろこの現実世界の方が幻想に近いということになります。

般若心経にも「色即是空 空即是色」とあります。
形があって目に見えるものは、本当はその実態はなく、まさに「無」に近いようなものだと。
般若心経の最後は「ぎゃーてーぎゃーてーはらぎゃーてーはらそーぎゃーてーぼーじーそわか」ですが、直訳すると「行こう、行こう、彼岸に行こう、完全に彼岸に到達した者こそ、仏の悟りそのものである」となります。
彼岸とはつまり、高次元の真実の世界ということだと考えられます。
そこへ到達するためには、まずこの3次元物質世界が幻想であることを悟らなければならないということです。

この3次元物質世界は、人間が想像しているよりも遥かに体系化されて作られています。
時間もそうです。
この地球は監獄であり、人間の魂がこの地球から脱出できないように、様々な罠が仕掛けられている訳です。
そのもっとも根本的な罠が「物質」です。
「肉体=自分」という概念を打ち捨てなければ、ますますこの地球というラビリンスから逃れられなくなっていきます。
この自分の人生さえも、誰かが作ったシナリオです。
「偶然は必然」とは、このことです。
「偶然が必然」であることを見破ることによって、やっとこの監獄から脱出できるチャンスが生まれるのです。
そしてそれは当然、夢もそうだということ・・・
僕にとっては夢だけでなく、僕の目の前に現れる不可思議な人物や現象の中にも、数々のヒントが隠されていました。

そして、地の時代から風の時代に移り変わったことによって、物質の時代は終わり、これからはスピリチュアルの時代、精神性の時代になっていくようです。
もう、すべての人が覚醒していく時代に入ったということです。
見た目重視の人たちさえも・・・
今まで地球は、3次元物質世界でした。
2012年12月21日に奇跡が起こり、少しずつ地球は次元上昇していって、今は3・5次元辺りにいるようです。
4次元(幽界)はもう存在しないので、近いうちに地球は5次元に移ることになります。

そして、それを必死で阻止しようとする勢力(闇の勢力)がいました。
彼らの力はまだまだとても強かったので、僕はマントラと瞑想で彼らの手の届かない次元にまで地球を上昇させていきました。
違う言い方をすれば、闇の勢力が描いてきたシナリオを変えてきた訳です。

そして、ここにきて冬至とグレートコンジャンクションが同時に起こり、それによって世界が一変していくのを何となく感じています。
寝る前にマントラを1マラ唱えると、よっぽどの何かがない限り夢は絶対に見なかったのですが、冬至の次の日辺りから立て続けに夢を見ています。
そして、マントラの効果もあまり感じられなくなってきています。
これは古い時代の終焉と、新しい時代の幕開けを意味しているのかもしれません。
マントラも、古い時代の産物になりつつあるのかもしれません。



これからの時代において、一番重大なテーマは何なのか?
それは、魂とは?スピリットとは?
私は何のためにここにいるのか?
私という存在は、何なのだろうか?
・・・ということになると思います。
それは今までも、様々な芸術家、執筆家、思想家、宗教家、哲学家が探求してきました。
しかしそれは、頭のとても優れた特別な人たちだけのテーマでした。

これからは誰もが自分にしかできない生き方、自分に与えらた宇宙からのミッションを模索していくようになります。
古いモノの価値観が壊れていき、新しい文化が創出されていきます。
来年は、あらゆるものがジェットコースターのように変化していきます。
時間が急激に速くなっていきます。
次元上昇はさらに加速していき、そしてその向こう側には、手つかずの美しい未来の地球が待っています。



最後にまた、音楽を載せたいと思います。
映画『インセプション』のテーマ曲を、YouTubeから引っ張ってきたいと思います。
実をいうと僕は、一時期ミニマル・ミュージックに嵌っていて、その時はアルヴォ・ペルトなんかを聴いていました。
繰り返されるパターン(素材)がイイともの凄くカッコいいのだけれど、パターンに魅力を感じないと、ただただ退屈な音楽になってしまう。。
それで僕は離れていきましたが、この曲はもの凄くカッコいいです。
新時代に相応しい感覚です。
映像もスゴく面白いです。



勝手に拝借しますm(__)m




今日、東京都で新たに新型コロナウイルスに感染した人の数が888人でした。
888という数字は、ゲマトリア数秘術ではイエスを表します。
クリスマス・イヴの日に888とは、これが偶然だとはとても思えません。

一昨日、瞑想している時に、実は僕はイエスを近くに感じていました。
冬至、クリスマス・イヴ、そして888。
イエスの預言が成就されていく時代を、、、感じざるを得ません。



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この世には、実に様々な人がいます。
笑顔の絶えない人もいれば、いつも怒っている人もいます。
楽天的な人、悲観的な人、信じやすい人、疑り深い人・・・。
この世の中は、様々な意見が飛び交っていて当然なのです。
しかし、離婚の原因の第1位は「性格・価値観の不一致」だそうです。
そもそも身体の構造の違う男と女なのだから、価値観が違うというのも当前なのですが・・・。
要は、そうした男女の相違を楽しむことが出来るかどうかです。

しかし日本人というのは、どうしてこうも集団意識が高いのだろうかと思う時があります。
政治や歴史などを見てもそうですが、今はネットがそれを如実に表しています。
ブログやSNSなどは、自分の意見に近い人たちが集まってきます。
そして自分に近い人の意見だけを受け入れるようになって(クラスター化)、集団で違う意見の人を誹謗中傷したりします。

このブログだって、似たようなものかもしれません。
世界にごまんとあるスピ系ブログのひとつに過ぎないと思われているかもしれません。
このブログに訪問してくださった殆どの方が、何かに期待して訪問しているに違いありません。
しかし僕は飽くまでも、このブログは「道」であって、自分の心に聞いたことをそのまま書いているに過ぎません。
誰かの期待に応えるなんていうのは、僕の「道」ではありません。

自分と違う意見の人がいるからこそ、自分と違う反応をする人がいるからこそ、自分が磨かれて成長することができるのです。
それこそが、「道」なのです。
それが、この世というものなのです。
ゆとり世代の方は打たれ弱いといいますが、打たれ強くなる必要もありませんが、真実への精神「道」とでもいいますか、そんな「道」を極めていけばいくほど、打たれてもまったく動じなくなっていくものです。
それは、次元がまるっきり違ってくるからです。
それが魂の成長なのです。

精神は目には見えません。
目に見えないものを一切信じない人は、物質的なものに依存してしまうので、魂の成長がまったく望めません。
肉体が滅んだら意識も消えてしまうと思っているので、死後の世界のことを語る人たちなどまったく相手にしません。
「そんなの死んでみなけりゃわからない」と言って馬鹿にします。
しかし、そうした人たちがあの世に行って、しまったと思った所で後の祭りなのです。
だからこそ、今現在の生き方が問われてくるのです。
要は、目に見えないものを見ることが出来るかどうかなのです。
ではいったい、目に見えないものを見るにはどうすればいいかということなのです。
唯物論者は馬鹿馬鹿しいと言って、そうした努力さえまったくしようとしません。
僕はきっと、そうしたことをずっとこのブログに書き記してきたのかもしれません。



死後の世界のことは、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」が克明に表しています。
主人公のジョバンニと親友のカムパネルラが、天国まで走っていく上り1本の急行列車に乗っています。
その急行列車に様々な人物が乗り込んできて、そしてあの世の姿、あの世の法則がはっきりと描き出されていきます。

例えば鳥を捕る人、「鳥捕り」がパッと列車に乗り込んで来ます。
ジョバンニが不思議に思って「どうしてあすこから、いっぺんにここへ来たんですか。」と訊きます。
すると「鳥捕り」は「どうしてって、来ようとしたから来たんです。ぜんたいあなた方は、どちらからおいでですか。」と言います。
行きたい場所を思っただけで一瞬でその場所に行ける、それはあの世では当然のことらしいです。

また、乗り込んできた燈台守が「この辺ではもちろん農業はいたしますけれども大ていひとりでにいいものができるような約束になって居ります。農業だってそんなに骨は折れはしません。たいてい自分の望む種子さえ播けばひとりでにどんどんできます。米だってパシフィック辺のように殻もないし十倍も大きくて匂もいいのです。けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。苹果だってお菓子だってかすが少しもありませんからみんなそのひとそのひとによってちがったわずかのいいかおりになって毛あなからちらけてしまうのです。」と言っています。
つまり、肥料を与えたりや水やりをしなくても、いいものを作りたいと思っただけでひとりでにいいものが出来てしまう訳です。

それから、白鳥の停車場で列車が20分停車するので2人は降りてみるのですが、その情景がとても美しいです。
「河原の礫は、みんなすきとおって、たしかに水晶や黄玉トパースや、またくしゃくしゃの皺曲をあらわしたのや、また稜から霧のような青白い光を出す鋼玉やらでした。ジョバンニは、走ってその渚に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとおっていたのです。それでもたしかに流れていたことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮いたように見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光をあげて、ちらちらと燃えるように見えたのでもわかりました。」

ところで、「鳥捕り」は途中で列車からいなくなってしまうのですが、それは「鳥捕り」という職業に問題があるようです。
銀河の河原に出て鶴や鷺や雁を捕まえて、それを葉っぱのようにペチャンコにして、チョコレートのようなお菓子にします。
「鳥捕り」はきっと生前も、鳥などの生き物を捕らえて人に売ったり食べさせたりしていたのだと思います。
そしてあの世に行っても生き物を殺すことを楽しみにしていて、少しもその痛みを感じることなく金儲けをしています。
だから「鳥捕り」は列車に乗っても天国までは行けずに途中で降りて、また乗ってもまた降りるという風に何度も繰り返している訳です。
つまり「鳥捕り」とは輪廻転生を繰り返す、この世の大多数の人々を象徴しているのです。
命の大切さがわからずに平気で殺生をする人、そしてその肉を食べる人、物を大切にしない人、平気で騙す人、嘘をつく人、他者の気持ちがわからない自己中心的な人は、みんな「鳥捕り」なのです。

「そんなの死んでみなけりゃわからない」と思っている多くの現代人は、それを口実にして好き勝手に生きています。
法律に触れなければ何をしてもいいと・・・。
しかし、賢治は単なる空想でこうした童話を書いたのでしょうか?
僕は決して、そうは思いません。
賢治は目には見えないものが、見えていたのだと思います。
賢治は子供の頃から身体が弱く、何度か大病を患っています。
何度も生死の境を彷徨ったことのある人間は霊能力を授かるといいますが、賢治もそうした能力を持っていたと思われます。
賢治は実際にあの世で、「鳥捕り」の姿を見たのだと思います。
美しい水晶や黄玉トパースといった河原の礫に、触れたことがあるのだと思います。
(僕も似たような夢を何度か見たことがあります。)
賢治が晩年に書いたこの「銀河鉄道の夜」は、全人類に向けられた、全身全霊で書かれたメッセージなのだと思うのです。

「鳥捕り」がパッと姿を消した後、家庭教師の青年と少女と小さい弟の3人が乗り込んできます。
3人は旅行中に船が氷山にぶつかって難破して溺れ死んだ人たちでした。
難破した時、青年はせめて2人の子供だけでも救命ボートに乗せたいと思ったのですが、もっと小さい子供がいたのでどうしても乗せることができず、それでとうとう3人とも溺れて死んでしまったのです。

やがて、大きくてまっ赤な蝎(さそり)の火が見えてきます。
ジョバンニは尾にかぎがあってそれで刺されると死ぬから蝎はいい虫じゃないと言いましたが、少女はいい虫だと言いました。
少女の話しはこうでした。

蝎は小さな虫など殺して食べて生きていました。
ある日いたちに見つかって食べられそうになりました。
蝎は一生懸命に逃げましたがとうとういたちに押さえられそうになり、前にあった井戸の中に落ちてしまいました。
そして蝎は溺れ始めました。
蝎はこう祈りました。
「ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。」
そうしたら蝎は自分の身体がまっ赤な美しい火になって燃えて、夜の闇を照らしているのを見ました。

つまり蝎の火は、みんなが幸せになるための自己犠牲の愛のお祈りで、「奉仕」の象徴です。
火は天国の入り口にあります。
「奉仕」は天国へ行く条件、天国の入り口にある大事な関所だということを賢治は示しているのです。

青年と少女と弟の3人は、その天国の関所の先にある「サウザンクロス・ステーション(南十字駅)」で降りていきます。
3人は難船した時、自分たちは助かりそうだったのに小さな子供たちにボートを譲って犠牲になって死んでいったので、自己犠牲の愛を実践しているので、ここまで来ることが出来ました。
カムパネルラも友だちを救うために、自分を犠牲にして死んでいます。
だから、天国のお母さんのいる所へ行ける訳です。

(「銀河鉄道の夜」は、青空文庫で全文を無料で読むことができます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/456_15050.html



そもそも自己犠牲の愛は、誰もが持っていたものだと思います。
ただこの弱肉強食の地獄社会を生き抜くために、それを忘れてしまったのです。
宇宙全体と自分が、完全に切り離されてしまっているのです。
だから、この3次元世界がすべてだと考えるのです。
死んでしまったら、意識も消えると・・・。
だから、何をしても構わないと・・・。

目に見えないものが見える人、つまりこの世の真実を知っている人は、死を恐れません。
例え無宗教であっても・・・。
いや、無宗教だからこそ・・・。

高い波動を出していれば、それだけで天国への切符を手にすることが出来るのです。
しかし勘違いしないで頂きたいのは、高い波動を出す人とは、いつもハイテンションでポジティブなことを語る人のことでも、いつも穏やかで正直で親切な人のことでもありません。
周りにそういう印象を与えるためにそうやって自分を作っているのであれば、周りだけではなく自分自身をも騙していることになります。
また、何度もお付き合いして相手の性格も何もかも知り尽くしていた筈だったのに、結婚してみたら相手の悪い性格が目につくようになって「性格・価値観の不一致」を感じて離婚したなんていうのは、まさにその相手は自分を良く見せるために自分を作って人を騙していたことになります。
相手の見た目なんて幻想に過ぎないのに、見た目だけで判断してしまうなんて愚の骨頂です。
騙す方も騙される方も、「鳥捕り」と同じです。
現代人は、目に見えないものが見えるようになるための訓練が必要なのです。

高い波動の人は、他人の喜びを自分の喜びのように感じます。
そして、他人の苦しみや悲しみを自分の苦しみや悲しみのように感じます。
それが、自己犠牲的な愛へと繋がっていきます。
自己犠牲や奉仕の精神というのは、そうしなければならいとかそういう堅苦しいものではなく、野に咲く花のように自然に沸き上がってくるものなのです。
またそうでなければ、それは本物ではありません。
自身が苦しい体験、悲しい体験をしていなければ、決して本物にはなれません。

世の中には様々な人たちがいますが、それは各々の段階が違うに過ぎません。
しかし、いずれはすべての人間が天国行きの切符を手にすることが出来るのだと思っています。
すべての人間が、いずれ還るべき場所へ還らなくてはならないのだと考えます。
もう、この地球の3次元世界消滅のカウントダウンは始まっています。
もういい加減「鳥捕り」は卒業して、その先に進むべきです。



最後に、KAGAYAスタジオ(KAGAYAさん)が宮沢賢治への熱い思いから原作を徹底考察し、忠実に再現したという3DCGのアニメーション映像の予告動画と、冨田勲×初音ミクの「イーハトーヴ交響曲」を引っ張ってきて貼付けておきます。
また、オリラジ中田敦彦さんがわかりやすく「銀河鉄道の夜」を読み解いている動画もあるので、そちらの方も良かったらご覧ください。https://www.youtube.com/watch?v=aNHXq6XPBYE







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随分とブログ更新が遅れてしまいました。
アクセス数そのものは少ないのですが、毎日の様に訪問してくださっている方も何人かいらしているので、本当に感謝致しますし、申し訳ありませんでした。
作曲を本格的に始めてしまうと、他のものが何も手につかなくなってしまいます。
昔はその辺は器用にこなしていたのですが、どうも最近は・・・。
でもいい加減更新させないとと思って、何とかPCに向かってこうしてキーボードを叩いています。
キーボードのuとjとmのキーが打ってもウンともスンともいわなくなって駄目になってしまって、それでもかなパレットを使いながら何とかやってます。



さて、今日の本題に入ろうと思います。
これはもう何度も記事にしてきたことですし、またこのテーマかとお思いになる方もいらっしゃるかもしれませんが、しかしこれは人類にとって普遍的なテーマですし、その部分の捉え方によっては生き方までもが変わってきてしまいますし、また自分の不可思議体験と照らし合わせていけば光が見出せると僕は確信もしているので、これからも何度もこのブログで採り上げていくことになると思います。

地球には、大きく分けると2パターンの人間がいると思います。 
目に見えるものしか信じない唯物論者と目に見えないものを信じている観念論者。
後者は、更に4つに分けられると思います。
井上円了の言うところの「仮怪」「誤怪」「偽怪」
「真怪」
つまり、殆どのオカルトや都市伝説などは自然現象や心理的要因や人為的なもので、「真怪」と呼べるものはほんの僅かしかないということです。
おそらく、「真怪」は全ての怪現象の1%にも満たないのかもしれません。

そしてあとの1つは、変人に思われるのが嫌で、目に見えないものが見えていてもそれを決して口にしない人・・・。
現在の多くの日本人は、唯物論者は知的で科学的な良識ある大人というイメージを持っていて、逆に観念論者は迷信的で非科学的で暗愚な人物だという風なイメージを持っています。

世の中の怪現象の99%以上が「仮怪」「誤怪」「偽怪」なので、それも当然のことと思います。
オウムなど新興宗教が引き起こしてきた数々の事件によって、そういう得体の知れないものに対する免疫が国民に植え付けられてきたのだと思います。
しかし忘れてはならないのは、本当に大事なのが僅か1%にも満たない「真怪」の世界なのだということ。

僕はこれまでに、何度も不可解な現象を目の当たりにしてきましたし、不可解な写真もブログに載せてきました。
その中には、ひょっとしたら「仮怪」(自然現象によって実際に発生する妖怪)の様なものが少しは含まれているのかもしれません。
しかし、やはり冷静に判断しても、どの現象も「真怪」としか思えないものばかりです。

以前記事に、突然空が眩しく光ったと思ったら、その光が薄い雲を伝って拡散していって、まるで巨人の神経細胞を伝う電気の様だったと書きました。(2014/08/04の記事の一番最後)
こんなものを目撃してしまう人など、いったい他にいるのでしょうか?
今考えてみると、これもやはりUFOの仕業だった様な気がしてくるのですが・・・。
この間の夜も、薄い雲の上を飛ぶ巨大な光る物体を見ました。
それを見た時は、まるで映画『未知との遭遇』を体感してしまったかの様な気持ちになりました。
矢追純一さんの提示する写真や映像が本物かどうかは解りませんが、UFOは間違いなく存在しているというのが僕の意見です。
何故なら百聞は一見に如かずで、はっきりとこの目で見てきたからです。
もし僕がこんなにも不可思議現象を目の当たりにしていなかったら、おそらく生粋の唯物論者になっていたと思います。


この間、NHKスペシャル立花隆氏の「臨死体験」を観ました。
立花氏の豊富な知識と取材力はとても尊敬してしまうのですが、これほどまで「臨死体験」を取材して、自身も似た様な体験もされていて、それでも尚かつ、脳が活動を停止したら意識も無くなるという主張を一貫して変えずにいるというのには、本当になんと言ったらいいのか・・・。
しかし、どこまでも非現実的なものを疑っていく姿勢は、見習うべきことかもしれません。
特筆すべき点は、立花氏ほどの現実主義者で著名な作家が、目に見えないものを真剣に採り上げているということにあると思います。
何故採り上げるのかといえば、あの世は存在しないというのはあくまでも立花氏個人の考えに過ぎず、現在の科学では100%存在しないとは言い切れないものがあるからなのかもしれません。

つまり最終的な判定は、立花氏自身も未だにつけられてはいないのではないかという気がします。
あの世が存在していようとなかろうと、臨死体験のもたらす幻覚作用が人生の終末に穏やかな安らぎの瞬間のあることを知らせてくれるのだとしたら、それで十分だとする、これも結局一種の哲学的な世界に終始してしまっているからです。
哲学、つまりひとつの考え方であって、あの世が存在しないことを科学的に証明できた訳ではない。
ただ、今まで現代人に強く忌避されてきた領域に科学的なメスが入れられることによって、誰もがいつかは通らなければならない"死"に対する意識を強く持たせたことの意義は大きいと思うのです。


あの世が存在するとかしないとかということや、「真怪」かどうかというジャッジは、ここまで、いやそれ以上にもっともっと突き詰めていく必要があるということです。
これはまだまだ入り口に過ぎなくて、おそらくその先には人類が想像もつかない様な素晴らしい世界が広がっているに違いありません。
筑波大学名誉教授の村上和雄氏は、それを「サムシング・グレート」と名付けました。(動画↓)
村上和雄氏といえば、日本人が持つ特有の遺伝子、YAP遺伝子を発見されたことでも有名です。



量子物理学者デヴィッド・ボームの「内蔵秩序」という言葉を思い出します。

「内蔵秩序」とは、たとえば植物の種子。
それだけ見れば、単にある形をした小さな粒としてしか僕らには認識できない。
種を土に蒔き、水分と適度な温度を与えると根が生えてきて
茎が伸びて葉っぱが出て、やがてその植物の形を僕らの前に現し始める。
種子の中に内蔵されていた情報が、僕らにわかる形で表出してきたのである。
種子だけを見た時は、この植物の形はわからない。
つまり、この植物の生長した姿を目で見ることはできない。
しかし種子の中には、その植物を特徴づけている情報がしっかりと内蔵されている。
宇宙の各部分に、このように目に見えない宇宙全体の情報が
内蔵されているというのがボームの考えだ。
それこそまさに神が創りたもうた秩序、自然の摂理ではないか。
すべてのものと繋がっていて、そして決して分離することのない、僕らには見ることの出来ない宇宙の秩序。
僕は以前、ブログにこの様な記事を載せました。
このボームの「内蔵秩序」が、村上和雄氏の「サムシング・グレート」と同じであることは、もちろん言うまでもありません。
神の存在を知るということは、それほど難しいことではない様な気がしてきます。

こうなると、ひょっとしたら人生も生まれる前から既に設計されていたと考えても、それほど不思議ではなくなってきます。
では何故生まれるのかというと、「因果応報」という言葉が浮かんできます。
つまり、よい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。
この世は神様が主催する学校の様なところで、人間は「輪廻転生」や「永劫回帰」することによって魂を成長させようとしているのだと思います。
知識は円に似ています。円の内側は私たちのすでに知っている部分です。科学者たちはこの円の境界線のところで奮闘しており、研究して新しい発見をすることによって、知識の円の縁をさらに拡大させていきます。しかし、そのうち矛盾に遭遇します。ものごとを知れば知るほど、実は自分は何も知らないということに気がつくのです。円が小さかった時はたくさん知っていると思っていたのに、円が大きくなるにしたがって外周が大きくなると同時に、円の外にある未知の部分もさらに大きくなっていくのです。(途中略)私たちは今、科学の知識の円を大きくすることはできても、円の外に私たちを導くことはできないことに気づき始めています。

私たちは、遠くは惑星や星、銀河まで、さまざまな所を探求しました。しかし、まだ探求していない所が一カ所だけあります。それは自分たちの内面です。内面を深く探求するとき、捜し求めていたすべての知識や叡智を発見します。その瞬間にすべてを知り、それゆえ、それまで知識の円の外にあったものはまったくなくなります。そして、知識の円そのものがなくなります。探求は終わりを迎えます。私たち自身から始まった発見の旅は、遠く外へ向かっていき、最後に私たち自身に戻ってきて、内面で終わるのです。(サイババの光明瞑想より)
"自然界に秩序が発生した時は、同じ量だけの無秩序が排泄される"のだと養老孟司氏は語っています。(動画↓15:05〜)
だからバランスを取る為に、どこかで無秩序を補わなければならない。
秩序(意識)と無秩序(無意識)は対になっていて、意識(秩序)を使った人間が外の世界を作っているのが文明社会。
だから新幹線は時間通りにくるのだけれど、これをやるためには、どこかに無秩序を排泄しなければならなくて、それがエネルギー問題になっているのだそうです。




便利は不便とはよくいいますが、我々は便利さを追求するあまりに、無秩序(無意識)の存在をどこかに置き忘れてきたのかもしれません。
果たして今の人間社会は、我々をお創りになられた「サムシング・グレート」が望まれている社会なのでしょうか?
もしこれ以上無秩序の存在に目をやらずにいたら、現代の文明が崩壊の方向へと向かっていくのは当然のことと思われます。
いずれは「因果応報」によって清算せざるを得ない時が来るのです。
一昨日、御嶽山が噴火しましたが、噴火の他にも地震や台風は自然界における正にそれです。

これからは、もっと人間一人ひとりが精神(魂)的な成長を志し、円の外側(科学)にではなく、内面を深く探求していかなければならないのだと思います。


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